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(回答先: 膝枕さん、BBマ〜クさん、どォもっすっ! 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 7 月 23 日 06:41:00)
デラシネさん、どうも〜です。
デラシネさんの言いたいことは自分なりに理解はしているつもりなんだけどなあ・・・。
俺は“偽りの愛”についてとやかく言っているんじゃなく、“愛”はそれを示そうとすると“偽りの愛”に変わっちゃうってことを言いたいんです。
むしろ、デラシネさんや、膝枕さんの書かれている愛の例についても、愛ではありえないと感じる自分がそこにはいるっていうこと。
例えば
>愛があれば、感謝をするのではないでしょうか?
>愛に最も近い言葉があるとすれば、それは「感謝」であると、小生は思っています。
について、「感謝」をすることはすべて愛であるかと言うと難しいなあと思うだけ。
例えば、自分の身内が殺されて、その殺人者に、「殺すというイベントをやってくれてありがとう。おかげで悲しみを経験できちゃったよ。ほんとうに感謝しているよ」ってことが愛となっちゃうのだろうか?と素朴な疑問として感じちゃうだけ。
それが愛であったとしても、同じ身内が怒りに燃えたぎっている時に、「私は殺人者を愛する」という態度をとったとしたら、愛は身内を取るか殺人者を取るかっちゅー問題になるのでは?
逆に愛は、殺人者に対しては愛を与えないということになると、愛とは無制限ではなく偏ったものなんだなあとなってしまう。これはたぶん“偽りの愛”だろうって。
う〜ん。
頭いたいなあ、愛は(笑)
あと、話はそれるけど、俺、最近、議論するっていうことに対して疑問を持ってきちゃっている。。。
議論をして自分が得ようとしているものは何だろうか?って。
勝ちは、負けを生むから相手にとっても自分にとっても嫌だし。
知識を披露したいというのは虚栄心を刺激してろくなことないし。
知識を知ってもらいたいというのは、期待を生み出し、また画一化意識を生み出しちゃうし。
強いていえば、新しい気づきが得れるといったところかな?しかし相手がいることだからなあ。
・・・・って考えている今日この頃でした。