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(回答先: デラシネさん、こんばんは。 投稿者 haru 日時 2005 年 7 月 21 日 20:41:37)
>度々のレス、こちらこそありがとうございます。
こちらこそ度々のレス、恐縮です。
haruさんとはお話していて、楽しいです。
>私は、分からず屋なのでしょうか?
>それとも、必要のない言葉の意味に囚われた人間なのでしょうか?
>愛の対義語は、恐れですか、、、
>では、恐れないということは愛なのでしょうか?
>勇敢な冒険者のように、、
>それとも、愛を持つと恐れる必要がなくなるという意味なのでしょうか?
どこからお答えしましょうか・・。
「必要のない言葉の意味に囚われた人間」という意味では、ものごとを言葉という媒体をもってしか理解できないと信じている人間、すべてに言えることだと思います。
愛にしたって、「愛」という言葉にしたとたん、やはり概念となってしまう。
愛を概念でなく、「ありのまま」捉えようとすれば、言葉から離れるしかありません。
愛の対義語が恐れというより、愛の対極にあるのが恐れです。
そして相対する愛と恐れの中間には、何もありません。
恐れがなくなれば、愛しかなくなる。
なぜ人は、恐れるのでしょうか?
それは、“結果”が不確かだと思うからではないでしょうか?
我々は、生まれてから「死ぬまで生きる」存在です。
その間、「どう在るか」以外、大切なことはひとつもありません。
>横道にそれましたが、愛とは、優しさ、おおらかさ、寛容、、
>これらの言葉とは関係のない所にあるのでしょうか?
前述したように、言葉はものごとを概念化してしまいます。
haruさんにとって、優しさ、おおらかさ、寛容とは何なのでしょう?
そうやって考えていくと、簡単に言葉(概念)の迷路に迷い込みますよね?
>人生の岐路に立った時に、愛ならどうするかと問えば、答えは出るとの
>ご意見ですが、そもそも愛がわからない私に、愛ならどうするのか?
>と考えることは至難ではないでしょうか?
対極にある選択をとればどうなるか、想像されてみると簡単です。
その選択は、どういった算段においてなされましたか?
“良い結果に至るだろう”とお考えになられての故でしょうが、その選択は“恐れ”の発露かもしれませんよね。
わかりやすい例としてあげておきましょう。
haruさんにお子様がいらっしゃるのかどうか、わかりませんが・・。
あくまでも、ご理解を深められるための補助となる例です。
親は“子供の為”と思い、さまざまな場面において子供の人生に介入します。
ああしろこうしろ、ああしちゃいけない、こうしちゃいけない。
“愛してるが故”という理由が用意されていますが、はたしてそうでしょうか?
愛を選択すればきっと、子供の人生をサポートはしても、介入はしないでしょう。
「行ってきます」と言って家を出て行くわが子に、「行ってらっしゃい」と手を振って送り出すでしょう。
それが「愛」です。
話が横道にそれますが、子供を愛してるが故という言い訳をもって子供をコントロールしようとする親は、自らの欺瞞を子供をコントロールすることによって“re_in_force”しているだけなんですね。
事あるごとに、「俺はお前らの為に頑張ってるんだ!」と家族に対して怒鳴りちらす親父も、同じです。
「俺がこれほどの苦痛に堪えながら自己を欺瞞しているのに、お前らだけ勝手にさせてたまるもんか!」ということでしょうね。
これが、「家族を愛している」と言えるでしょうか?
愛があれば、感謝をするのではないでしょうか?
家族の存在、自分と一緒にいてくれる彼らの存在に対し、感謝をするでしょう。
働いてお金を稼ぎ、そのお金でもって家族を焼肉屋に連れていったり、旅行に連れていったり、学校に入れてやったり・・。
いやむしろ、自分が一緒にいてあげることが第一に家族の喜びであったなら、(仕事を調整しても)できるだけ一緒にいてあげようと工夫したり・・。
愛に最も近い言葉があるとすれば、それは「感謝」であると、小生は思っています。
>愛、、、優しさとも、寛容さとも、おおらかさとも
>どこか違う、、、
>愛は許すことですか?
>許さないことは、恨みに変わります。
>私は、てっきり、愛の対義語は、恨みだと思っていました。
>おぼろげなのです、そして、どうしてもひっかかるのです。
>私は、愛という言葉もLOVEという言葉も、
>妙に恥ずかしくって、苦手に感じてしまいます。
>それでも、知りたい。
「あなたが嬉しいと、私も嬉しい」
それが愛だと、小生は思っております。