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(回答先: haruさん、こんばんは。 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 7 月 22 日 07:45:28)
デラシネさん、 haruさん こんにちわ
割り込み失礼します。
haruさんのお言葉の・・・
>私は、分からず屋なのでしょうか?
>それとも、必要のない言葉の意味に囚われた人間なのでしょうか?
分からず屋というのは、「分かろうという姿勢の欠如」という場合と「分かる能力の欠如」の二通りがあります。
また、分からず屋とは異なり、「重要な事に未だ気がついていない」という状況にある人もいるわけですが
haruさんの場合は後者にあたると思います。そしてその原因はデラシネさんが説明されているように
「概念で物事を理解しようとする」ということにあると私も思います。
「・・・なのでしょうか?」などの疑問そのものが頭の中で沸いている間は概念遊びをしているだけのようなものなので
答えは見つからないでしょうね。
デラシネさんが言う・・・
>愛にしたって、「愛」という言葉にしたとたん、やはり概念となってしまう。
愛の対極にあるものは何か?などと考えを巡らすこともやはり「愛に到達する道」にはならないでしょう。
>ご意見ですが、そもそも愛がわからない私に、愛ならどうするのか?
>と考えることは至難ではないでしょうか?
愛が分からない人はいないはずです。気がついていない人は存在する事は確かでしょうけど。
愛は「愛とは?」と考えを巡らして発見するものではありません。
自分の中に沸き起こる最高の感情で気がつくようになっていると思います。「ああ、これなのか」と、気がつくだけ。
デラシネさんの例え話は分かりやすいですね。
>親は“子供の為”と思い、さまざまな場面において子供の人生に介入します。
>ああしろこうしろ、ああしちゃいけない、こうしちゃいけない。
>“愛してるが故”という理由が用意されていますが、はたしてそうでしょうか?
これらは・・・「愛」という偽の看板が付いていはいますが、中身は愛ではありません。
>愛を選択すればきっと、子供の人生をサポートはしても、介入はしないでしょう。
>「行ってきます」と言って家を出て行くわが子に、「行ってらっしゃい」と手を振って送り出すでしょう。
>それが「愛」です。
ただただ「思いやる」こと、それが本物の愛
>愛に最も近い言葉があるとすれば、それは「感謝」であると、小生は思っています。
近い言葉といいうよりは、「愛と密接な言葉」ではないでしょうか?
愛とは相手を思いやる感情です、その思いやる感情が最高度に達すると、その時点では「相手=自分」です。
自と他が別々の存在と捉えてしまいがちなこの世ですが、実は「自己」などは錯覚に過ぎず、「自=他」が
真実の姿。しかし肉体の感覚は「自と他は別」ですから勘違いしてしまう。勘違いも無理は無い。
>「あなたが嬉しいと、私も嬉しい」
心の法則の基本中の基本がコレですね。相手の喜びこそが「自分を本当喜ばせる」という事実。
相手の喜びの表情を見たときに満たされる幸福感。
大好きな大福を自分一人で食べたときに「あー幸せ」って感じるでしょうけど
相手の喜びを見たときの自分の心の中に沸き起こる幸福感に比べたら月とすっぽん程の大きな差がある。
大福を食べる、ご馳走を食べるなど、自分の五感を満たす事で得られる喜びなどはなんと些細なことなのか?
「愛がわからない?」と仰るharuさん、でも心配ないですよ、どんな人の中にも「愛判定装置」は備わってます。
「愛とは何か?」と一人考え続けるのではなく、身近な人が喜ぶ姿を見てください。
勿論しかめっ面をしていては、相手も「なんだこいつは?」と思うだけですけどね。
まずは身近な人に対して、打算ではなく、相手を自分のように思いやってみてください。
そのとき、自分の表情はどんな表情でしょうか?慈しみの表情を見た相手は、思いやりを感じて安心感と幸福感を感じますよ。そしてその表情を見れば、さらに自分の表情も「愛そのもの」の表情になってゆく・・・そういうものだと思います。
親が子供を生み育てるという意味はこのことを学習する意味で設けられた「愛に気が付くプログラムの一つであり最たるもの」と私は思っています。 どんな鈍感な人でも「愛に気が付く」ように設定されてますが、不思議な事に中には「なにが?」というようにこれでも気が付かない人も存在します。
しかし、愛はデラシネさんが説明しているように「偽者の愛」がこの世では幅を利かせていて、思いやりとは異質なものを
平気で「愛してます」などと多くの人が口にしているからややこしくなる。
神様ってのは案外意地悪なところがあって、「やっぱ勘違いしおって・・・」て嘆いている、しかし勘違いするような設定をしているのが神様自身なわけだから、困った存在だ。
「見えるもの、触れるもの」が実は偽モノで、「見えないもの」の中に本物が隠されている、これがこの世であり人生だと私は思っています。