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(回答先: 結論を予測できません 投稿者 最悪! 日時 2004 年 8 月 12 日 08:26:05)
最悪!さん、どうもです。
経済学的知識をお持ちのようですから言わせていただきますが、その経済学的知識を活かしながら経済社会観を再構築し直されるることをお奨めします。
しかしながら、ひとの文章に対する理解力があまりにもひどいことに驚いています。
>政府がミクロに介入するのは市場経済ではありませんよ。
私の書き込みのどこが「政府がミクロに介入する」と理解できるものなのかきちんと説明してください。
政府がミクロに介入するのはできるだけ避けたほうがいいという観点で書かれているくらいは少し読めばわかるはずです。
経済政策は、ミクロがスムーズに経済活動を行なう条件(場)をつくることが目的だと書いています。
赤字財政支出ではなく、ミクロ(企業)が供給活動に投資する金額を増やすべきだとも書いています。
>経済学の基礎を正しく理解されてますか?
>この論理展開はその前提を疑うものです。
>何かを誤って理解している。
>ミクロからマクロを導き出す手法は、できなくはありませんが、結論を誤りやすいの
>でしてはいけない。ミクロには不安定要素がいくつもあり、数値化しにくく将来予測
>もしにくい。マクロからミクロを導き出すのが基本です。マクロは数字だけで将来予
>測もしやすい。
ミクロからマクロを導き出す手法って何ですか?
マクロは、様々なミクロの連関的活動の総体だと説明しています。
あなたはマクロが経済政策であるかのような説明をされていますが、それは違うだろうと前回指摘しています。
たとえるならば、マクロは生きた身体であり、ミクロはその身体を具体的に構成する各器官です。各器官であるミクロは、独立して機能しているわけではなく、有機的な連関として機能することで身体的統一を維持している存在です。
「マクロからミクロを導き出すのが基本」と言われるのなら、それを具体的に説明してください。
マクロからミクロを判断(診断)することが経済政策の出発点ですが、マクロは、ミクロの活動成果から導き出されるものです。
人が各組織各器官なしに人として存在しないように、ミクロなしにマクロという概念的は存在しないのです。
ミクロの総体である有機的統一体が不調かどうかを判断したり、その原因が何なのかを探るときにマクロデータが役に立つのです。
>例えば、I'=C+I=Yですが、これは単純化しすぎています。
>貨幣の発行主体であるGを外すことはできません。
>上記の式は、貨幣の概念の無い物々交換経済では成り立つ余地があるでしょう。
>それとIの扱いです。Iは確かに消費の一側面を持ちますが、その後回収されることが
>期待されているのです。つまり長期的にはIの効果はゼロです。ついでに言うとGもそ
>うです。Iベースで話をするのはおかしいのです。
Gは政府支出が一般的な理解だと思いますが、GDPは価額表現なのですから、貨幣発行主体が含まれているのは当然のことです。
貨幣発行主体がどんなに貨幣を発行しようとも、経済主体がそれを供給活動に投じられない限りGDPには反映されないものです。
(それは、日銀当座預金が30兆円を超える一方で貸し出し残高が減少しているこの間の日本経済を見ればわかることです)
I'=C+I=Yが、「物々交換経済では成り立つ余地がある」と言われるのなら、その根拠ととともに、Y=C+Iが貨幣経済では成り立つという根拠をお示しください。
人にわたったお金が何に使われるかまでは支払った人は制御できないと書いているのに、「物々交換経済では成り立つ余地がある」という指摘には驚かされます。
物々交換経済では、経済活動全体を貨幣表現で示すことはできないと元の書き込みで書いています。(余剰生産物が商業=貨幣的取引の対象になるだけだからです)
あなたの理解で欠けているのはCの由来です。
C(消費)で使われるお金はどこから来るのか説明してください。
私は、Cの原資はI'であると説明しています。
I(資本財)に支払われたお金もCの原資になるものです。
Cの由来が説明できない限り、Y=C+Iだろうが、I'=C+I=Yだろうが、何も論評できないはずです。
「Iは確かに消費の一側面を持ちますが、その後回収されることが期待されているのです。つまり長期的にはIの効果はゼロです」という説明ですが、
Iに支払われたお金は消費(C)の原資になるものだから、フロー統計であるGDPに貢献するのです。
「回収されることが期待されている」というのは減価償却のことだ受け止めますが、それを期待するのは勝手ですが、インフレであったり、外部余剰(貿易収支黒字)が使われなければ、その期待は裏切られることになります。
「長期的にはIの効果はゼロ」というのは、Iに支払われたお金はその時点の消費で使われているからという意味ですか?それとも、長期的な価格上乗せで回収するものだから効果はゼロという意味ですか?
GDPというフロー的な意味ではIの効果は消費に回ったとき限りのものです。
価格に上乗せして回収できるかどうかは、経済状況次第です。(だからこそ、過剰債務問題が発生するのです)
「ついでに言うとGもそうです。Iベースで話をするのはおかしいのです」については、どのようにおかしいのか説明していただければ、応えようがありません。
※ Y=C+Iについて、別の機会にその矛盾点を詳しく説明するつもりです。
>サプライサイド経済学を否定してるかとも思いましたが、そうではなく固執している
>ようですね。潜在的需要の意味が分かっていませんし、供給→需要が常に成り立つな
>ら、いくらでも供給を増やせば経済成長するということになります。しかし実際には
>そうではないのです。なぜ日本で公共事業が批判されているのか、その理論では説明
>できません。
まず、供給には、供給額(供給活動に投じる金額)と供給量があることを押さえてください。
蓋然性としては言えますが、供給額を増やせば経済成長するとは説明していません。
供給量を増やさないで供給額を増やせば「デフレ不況」から脱却できると説明しています。
経済成長の基本は、同じ就業者数が同一労働時間で産出する財の量が増加することです。
これを達成する条件が、固定資本(製造装置)の高度化です。
しかし、同一労働時間で産出する財量の増加が余剰となった就業者の削減(失業)につながるのなら、経済成長はスムーズに達成できません。
(失業者の増加は公的扶助の増加につながり、供給活動に従事している人から吸い上げる金額が増え、全体としての需要額は増えないからです)
完全雇用状況で固定資本の高度化を継続していくことが経済成長の要諦です。
また、赤字財政支出による需要増加を認めているように、供給→需要が常に成り立つとも説明していません。(赤字財政支出による需要増加は、増税や公的負担の増大で将来の需要減少につながるから一時的な効果しかない。さらに言えば、利払いがあるから、デフレ状況では一時的な需要増加効果よりも、将来の需要減少効果のほうが大きいと説明しています)
「しかし実際にはそうではないのです」と前ぶりして、「なぜ日本で公共事業が批判されているのか、その理論では説明できません」って、もう少しひとの文章を読み込んでください。
公共事業が、「供給→需要」ではなく、赤字財政支出(需要→供給)で行われていることが問題なのです。(税収以内の公共事業は「供給→需要」です)
>経済成長の基礎が固定資本形成というのも誤りです。拡大再生産のことを指摘してい
>るものと思われますが、基礎のなっているのはあくまでも技術です。物ではありませ
>ん。なぜならある市場で技術革新が行われなければ、市場において得られる利益は最
>終的にはゼロになるからです。(参入障壁のある場合を除く)利益が発生しなければ
>拡大再生産はありえません。そもそも何のために固定資本が増加するのでしょうか?
「ある市場で技術革新が行われなければ、市場において得られる利益は最終的にはゼロになる」とさらっと説明していますが、技術革新が行われたら市場において利益が得られるというのはミクロベースではそう言えますが、マクロ的には言えないことです。
技術革新がマクロベースで利益を生むためには、名目的な利益源であるインフレか、実質的な利益源である貿易収支黒字が必要だというのが私の説明です。
技術革新そのものは、利益源ではありません。
技術革新は、それによって、輸出が増加できるか、経済主体(ミクロ)が供給活動に投じたお金で需要になったものをより多く自分のものにすることで利益につながるものです。
(後者は経済主体間の損得で打ち消されるもので、輸出の増加のみがマクロとして実質的利益になります)
「利益が発生しなければ拡大再生産はありえません」は、私もそのように説明しています。
「そもそも何のために固定資本が増加する」かは、生産性の上昇や生産の量的拡大を行っても販売できる見通しがあるからです。
>産業資本主義後の経済体制とは何でしょうか?
>この論理展開だと国家社会主義になりそうですが・・・
>結論を隠しているが故に何が言いたいのか分からず、その前提となる論理においても
>誤りがあるため結論を予測できません。
それは、あなたがどういう経済社会をつくりたいかにかかっています。
私は、前々から書いているように「開かれた地域共同体」を基礎とした経済社会を構想しています。
世界経済支配層は、社会主義(共産主義)を志向していると推測しています。
念のために言っておきますが、「産業資本主義」の終焉シリーズは現実の経済論理を説明しているのであって、終焉後がどのようなものになるかについてはまったく説明していません。
それは「なるもの」ではなく、「つくられる(つくる)もの」だからです。