現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用7 > 223.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: トリビアの泉 西郷隆盛 投稿者 Q太郎 日時 2004 年 1 月 07 日 11:32:03)
1.Q太郎さんこんにちは。
1.イミナ
西郷の本当の名前(忌み名? ワードで漢字がでてきません)は、隆永だったと思います。
昔は、本名を他人に知られてしまうことは、魂を支配されてしまうことにつながるため、ほんの身内にしか教えなかった、と聞いたことがあります。(日頃使っている名前(例えば西郷の場合は吉之助)は通称。)
このため、維新後本名をお父さんの名前と間違って身内が届けてしまったが、西郷はあえて訂正もせず放っておいた、とのことです(出典は司馬の本だったかな)。
2.未亡人の嘆き
銅像除幕式の際に奥さんが嘆いたのは、何に対してだったのか、という問題があります。
Q太郎さんは、「顔」説をご紹介されていますが、私は、以前も少し触れましたが、「服装」ではないか、と思っています。
現代の我々は、時代劇テレビのおかげで、はかまをつけずに刀を指している姿は珍しくないように思っていますが、当時としては奇妙だったはずです。今で言えば、ネクタイをつけずに上下の背広を着ているような、、、。
梅原猛の聖徳太子に対する藤原氏のやり口に対する指摘からの連想ですが、藤原氏が、聖徳太子を具現するものとして救世観音菩薩を作りながら、こっそり頭に大きな釘を打ち付けて光背と接合させている、といった事実と同様、西郷さんを銅像建立によって持ち上げた形をとりながら、どこかで貶めるという意図があったのではないか、と思います。
未亡人は、その製作者(元勲たち)側の意図・自分がわざわざ除幕式のために東京に呼ばれた(元勲たちにいわば利用された)ということの政治的な意図を含めて理解した(企みに気付いた)可能性があります。このことから、未亡人に自分たちの企みを見破られた事実をぼかす為にも、元勲たちはここでも事実を捻じ曲げ「顔のイメージが違っている」と未亡人は抗議した、という話にすり替えた可能性が高い、と思っています。
(未亡人はそれ以降二度と東京に上京することはなかった、と伝えられています。芸術家の作品の顔が生前の顔に似ていなかったことを未亡人が嘆いたといういわば大人気ない事実が、後世に語り継がれているとすれば不自然です。この話を未亡人から聞いた人(親類?)も含めてこの事実は風化させるべきではない、と感じたからこそ、語り継がれているのではないか、と思います。 鹿児島の銅像はそのような思いを持つ人々が立てたものでしょう.)
日本独立の功労者蘇我氏を葬り去り、日本書紀を代表とする「偽の事実を巧妙に織り交ぜた文書」等をもって棺桶に呪いの封印をする技術は、明治時代まで藤原氏によって脈々と受け継がれてきたということでしょうか。