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エンセンさんの書き込みに触発されて神戸事件のA君救済運動をしている「神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム」の掲示板を読んだ。
それは、「神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム」が、神戸事件の真犯人として被害者の父親を名指ししているという興味深い情報だったからである。
A君は無関係の行為もしくは不十分な根拠に基づき少年医療院に収容されていると考えているので、「神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム」が行っている神戸事件の真相解明促進運動ならびにA君の即時解放運動は高く評価している。
しかし、その運動の過程から生じた真犯人父親説に基づく諸活動には強い嫌悪を覚えるとともに犯罪的行為として強く非難する。
たとえ、父親が真犯人であったとしても....
「神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム」からピックアップした彼らの手紙を中心に経緯を整理してみた。
寝るまえはいきさつから雑談版に投稿するつもりだったが、各種事件について“冤罪性”や“権力犯罪説”も書き込んでいることから、他山の石にもなる「事件」と考えこの事件版に投稿することにした。
※ 参照書き込み
『「理念主義者」の危うさが露呈された“事件”かもしれません』( http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/189.html )
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0088 真実を求める市民フォーラム [近畿] [02/02/17(日)-14:01]
2002年 2月声明
2002・2月声明
神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム
私たち「神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム」は、A君の無実を訴え、彼を救おうとおよそ1年半活動してきました。
彼が犯人であるという「決着」は、事件後4年半を経過しても、今なお厚い壁として彼のまわりを取り囲んでいます。世間の記憶は風化されつつも、なお、定着したままです。
その「決着」にふと疑問や疑念を抱いたとしても、それが「真実」にまでは行き着かぬまま、納得し、受け入れるしかない人々がいます。
私たちの訴え―A君は無実―は、そういった人々の心に「真実」ともたらすことができた、と確信致します。そして同時に、彼を救うというもうひとつの目的に向かって多くの人々の心がひとつになると信じます。
事件に関わったあらゆる機関、人々へ向けて幾度にもわたる働きかけを私たちは続けてきました。しかし、それに応え、実際に動いた人々はほとんどいません。「A君無実」の真実を明らかに認識しているはずの人々ばかりが、です。
「A君が犯人」という作り事に加担し、人々の感情を煽り、それを定着させてしまった責任。それがいかに重いものかが分かるからこそ、あえて「無視」するしかない、それが実情です。一体どうやってその責任をとったらいいのか、という正義と公正に基づく思いよりも、責任を負うことへの恐れが彼らに目をつぶらせているのです。できるものなら逃れたい。負わずに済むならそうしたいのです。
しかし、この事件はそれで済ますわけにはいきません。大人たちが仕立てあげた犯人は、“守られるべき子ども“だったからです。
私たちは大人としてA君を救わねばならないことをここで改めて訴えます。
A君の「一般少年院移送」の報道は何を示すのか。単に「更正が順調に進んでいる」と受け止めるだけのものなのか。そこには重要な要素が抜け落ちていることを見逃してはなりません。
更正とは何か。自分の犯した罪の重さを悔い、心から詫び、新しい自分として生きることを誓う。償いや謝罪という意識が被害者側へ向けられてこそのものです。今の時点でA君からの「謝罪」(の手紙や言葉)が被害者側へ寄せられたという事実は確認できません。ある被害者遺族からは、「謝罪(の手紙や言葉)は来ていない」と聞いています。「更正」の絶対条件であるはずの謝罪がないにも拘らず、A君は移送されたのです。一年以内に社会に戻ることが確実な中等少年院へと。
このことからも私たちは断言できるのです。「やはりA君は無実なのだ」と。医療少年院での“治療”によって、彼は取り調べ時の呪縛から解放され、自分の心を取り戻したに違いないのです。その結果、「自分が犯人ではないこと」を口にできたのです。その事実は関係機関によって確認され、彼をそれ以上医療少年院にとどめるわけにはいかなくなったのです。
「謝罪」すらできない“犯人”が、社会へ戻されるはずがない。それは当然のことであり、むしろ、さらなる治療が必要です。しかし彼は医療少年院を退院し、すでに社会に戻っている可能性もあります。
これらのことが今すぐに明かされるとは思えません。そこで問われる「責任」の処置をどうするのか、それが見えないからです。
本来ならば報道機関はアプローチし、真実へと近づくことができるはずです。鋭く矛盾を突いて真実を引き出していく、その姿勢を求めたい。私たちはこれからもそう働きかけていきます。
しかし、表面には形として表れていないまでも、その奥では報道機関もそれぞれに対応しているのが見てとれます。
繰り返し、取調べの違法性や裁判のあり方等に関する特集が組まれたり、あるいはA君の無実をベースにしたかのような報道のし方があったり(直接触れないまでも不審点として)、事件そのもの、A君そのものに対する扱いに変化がみられます。
ジャーナリズムが「事実・真実を報じる」という本来の働きに立ち返ることを求め、また、そこに携わる人々の「真実を求める心」に私たちは期待します。
そしてもうひとつ、忘れてはならないことがあります。
被害児童の父親である土師守氏への疑惑です。彼は事件にまつわる何か重大な事実を知っています。しかし、それに関しては一切口を開こうとしないばかりか、言動に矛盾と不可解さが見られます。
真実が知りたいと明言しながら、進んで真実に近づこうとはしない。逆に「共に真実を明らかに」という働きかけに対しては無視、警告、逃げ、と一貫しない態度を取り続けています。代理人としての弁護士を介してであっても何ら筋の通った対応はできていません。
真実の鍵を握る土師氏への働きかけも私たちはさらに進めていきます。A君を救い、淳君の死に報い、土師氏自身の救いのためにも、です。
働きかけの対象はそれだけではありません。
土師氏と各報道機関は言うに及ばず、「裁定」を下した井垣判事(この人もまた“本当の解決”の鍵を握る人と言えます。婉曲な表現で「A君は無実であり、それは認知されている」と認めたからです。)、A君の付添人団、首相、法相も含めて、真実の追求と責任を果たすことを求めます。
A君が人知れず社会に戻ればそれで事件が終わるのではありません。真実が闇に葬られたまま、A君とその家族が仕方なしに納得させられたまま、責任を取るべき者たちが知らぬふりをしたまま、これでは何も解決してはいないのです。
今の社会に満ちている嘘やごまかし、責任のがれ。大人も子供もそれにうんざりし、心を蝕まれています。今のままでいいはずがない、と誰もが思い、変わることを求めています。まさしく今回の事件は、そのきっかけとなるに違いありません。
私たちは真実を明らかにし、全ての者がそれぞれの責任を果たし、このような悲劇 ―児童が殺傷されるということだけではなく、無実の者が犯人に仕立て上げられる― が二度と繰り返されないような社会を目指します。
そのために、さらに一層の活動を展開していきたいと思います。
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*0130 真実を求める市民フォーラム [兵庫] [02/07/16<火>-18:23]
A君の収容継続の報道、決定要旨の公表を受けて
無実であるはずのA君が、少年院にさらに収容され続けることになりました。彼が入院させられてからの期間を“わずか5年”と表現する人がいます。しかし、この5年は、彼にとっては自由と尊厳を奪われた5年間でした。そしてそれはさらにあと2年半も続くのです。
今回判断を下した井垣判事は昨年4月の段階で、「彼は奇蹟の回復の途にあり・・・・遠からず社会に戻す」と専門誌に書いています。
また、昨年末の「中等少年院移送」の報道のなかには、関係者の話として「少年は1年程前から既にいつ退院してもおかしくない状態だった」と伝えるものもありました。
このような状態にあるA君が、さらに自由を拘束され続けるのは不当であるとしか言いようがありません。
今回の報道では、「心からの謝罪の言葉がない」と改めてはっきりと示されました。1年以上前から退院できるほどの“回復”にあったはずのA君ならば、謝罪がないはずはなく、それがないにもかかわらず「社会復帰」が断言されたのは、やはり彼が無実であること以外、成り立たないことを再確認できます。
何の罪もない者が凶悪犯の汚名を着せられただけでなく、真実を語れないような状況に繰り返し置かれてしまうことを、私たちは見過ごすわけにはいきません。
冤罪の被害者のA君の自由を奪い、口を封じれば真実までもがなかったことになってしまうのか。そうではありません。そうであってはならないのです。
彼を犯人に仕立て上げてしまった人々は、一人ではありません。彼が犯人ではないと知りながら黙り込んだままの人々は、もっと大勢います。
その人々の誰もが、このままでいい、これで助かると思っているはずがありません。
「良心」や「正義」の輝き、そして「嘘」「偽り」の重さに、人々の心は揺れ動いているはずです。自分の立場を守ることが最優先の人でさえ、どこかで痛みを感じている。それが人間なのだと私たちは信じます。
隠蔽した真実を明らかにしていくのですから、当然痛みを伴うでしょう。失うものもあるでしょう。
けれどもこれは隠蔽した者、加担した者、知らぬ振りをした者が負うべき責任です。
最も弱く、力ない人々を蹂躙し続けていることへのあがないです。
A君がたとえ何歳になろうとも、その心に受けた傷が消えることはなく、貼り付けられたレッテルもそのままです。時間が解決するのではありません。時が忘れさせてくれるものでもありません。
真の解決と救いは「真実」によってのみもたらされます。私たちは決してあきらめることなく、真の解決を目指して運動を展開していきます。
嘘・偽りを抱えきれず苦しさのなかにある人ほど「良心」と「正義」、「真実」に近い人です。真実を語れない自分に不甲斐なさを覚える人ほど人間的です。
そういった人たちの心が「真実」につながり、真実を明らかにしていけるよう、働きかけも続けます。
A君の家庭は多くの人がイメージするようなものとは違います。
仲のよい両親と子供たちが愛情という絆で結ばれていた家族でした。彼らが再び団欒の日々を取り戻すことができるよう、全力を尽くします。
これを目にした全ての皆様方。事件の“決着”を鵜呑みにせず、先入観を排して、新しい目で事件について見通してみてください。A君は現在は二十歳でも、当時は14歳の子供にすぎませんでした。事件の全体を見渡して、それは子供に可能だったのかだけを思ってもみても、腑に落ちず、納得のいかない点はあるはずです。済んだこととして終わらせず、いつでも我が子に起こり得ることとして事件を見てみてください。
今回の報道を、決着の「追加」のように扱わないで頂きたい。A君とその家族にとってのさらに重い荷物、と受けとめて頂きたいのです。
2002年7月16日
神戸・須磨事件の真実を求める市民フォーラム