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(回答先: 「人間の平等と自然界への畏敬、超平和主義」は江戸の庶民にも感じられます 投稿者 ウッチャー 日時 2002 年 9 月 12 日 18:27:43)
『超エスタブリッシュメントたちは、たとえ地球が滅ぼうが、人類で最後まで残るのは自分たちである、とにかくその富をこれからも守る、という狂気を捨てることができないでいるようにも思われます。』
完全に同感です。彼らの意識は我々の理解を異常に超えており、同じ人間なのか、という気持ちにさせられます。英国で一昔前のテレビ番組で、超エスタブリッシュトがローマクラブの報告、つまり、人口爆発で地球に住めなくなるということをもとに一握りのエリートだけ惑星外に脱出計画をねっているなどという報道番組がありました。この話がなんだか超現実的とは必ずしも思えないほどに、超エスタブリッシュ側はこの惑星のことをなんとも思っていないといわざるをえません。
『最近僕は日本の文化、精神風土に、自然が関わる度合いの大きさを考えたりします。
戦後の一面の焼け野原から、今のような街を築いた意志とエネルギーには目を見張るものがあります。けれど、その過酷さ故に己を振り返る余裕がずっとないまま今日を迎えているような気もします。
なだいなだ氏が「江戸狂歌」という良書を書いています(こっちの「狂」は単に名詞の意味しかなく、上のものとは正反対のまっとうなものなのです)。ときには、江戸の人々の、知性ある自然人の織り成した話に、自らを振り返る時間を持つのも、日本には必要かもと思われます。』
これもしみじみ同感です。江戸の庶民(特に農民・職人)はみな縄文人の意識構造を基核としています(上層部に弥生系の意識が混じりこんではいますが)。ですから、彼らは本来人間が平等であること、自然界への畏敬、超平和主義、これらの感覚をもっていました。万物が全て生きている、そして全てが対等の価値がある、という感覚が強いですから、人間中心主義というのを超えていて、自分が使用して使用期間が終了した場合、人間を弔うのとおなじことつまり、感謝をささげ供養をしています。針供養とか人形の供養とか良く知られていますよね。だから、万物の間、人間と人間の間に上下はない、という縄文以来の感受性を弥生体制の庶民も維持しています。戦後、がれきのなかから立ち上がる毎日のことに多忙で、自分がいったい何ものなのか立ち止まって考える余裕がなく来てしまったのですね。同感です。ちなみに、江戸期、縄文人の意識が直接出ているのが、安藤昇益(日本を痔表するエコロジー、万人平等)の書物です。彼は縄文人の意識水脈に連なっています。
実は、私も自分の意識の中で、いろいろと探知しているのですが、結局自分は、万物が生きていて、全てがつながっていて、そして万物が、それが人間と人間のあいだでっても、人間以外のもので合っても、全て対等な、とててもとおとい命の重さや輝きをもっているのだなあ、そして、万物が平和や調和の内に一緒にくらすべきだなあーって、そんな感受性が一番強いことに改めて気付くんですね。ああ、自分の中で縄文人のパルスが強烈に地下水脈のように根をはっているなあーってつくづく感じるんです。
弥生体制以降の今日にいたるまで庶民は、早いはなし縄文人です。現在の庶民が圧迫を受けている2つの外来文化があります。アングロサクソン由来の新自由主義(市場原理主義・競争原理・既成緩和・民営化)。そして、中国朝鮮半島由来の弥生以降の王権の論理・覇権の論理(明治近代政府はさらにそれを極端化して、天皇教という宗教へと論理構築しました。儒学・陽明学など中国思想で神学論とした尊王思想を基礎)。今、庶民=縄文人はこの2つの外来の社会思想体系の攻撃にさらされているのです。日の丸・君が代を押し付けているのは、後者のグループです。日の丸も君が代も、縄文人とは縁もゆかりもないもの、思想的に同一性・連続性をもたないものです。ともに日本の外来系の武力支配層の所産です。日の丸は、日本の弥生系超資産階層が、近代化で自分たちを外国に対し目印にしたものです。
日本の庶民=縄文人はこの2つの外来思想に激しい圧迫を受けており、今日の日本の混乱はこの2つによるものといってよいでしょう。君が代・日の丸の強制は教育現場での激しい混乱を招いています。環境破壊はアングロサクソン系の思想の結果です。この2つの外来思想の共通点は、支配者側の論理、強者の側の論理ということなのです。
2つの外来思想を連合させたもの。それが石原慎太郎氏です。彼は両方を連結する位置にいる人物なのです。われわれ縄文人から見ると、ちょうど真反対に位置する、思想であり人物なのです。
この阿修羅で時々展開されているのは、中国朝鮮半島由来の弥生人(本人たちは意識していないが)と列島固有の縄文人のメンタリティーのせめぎいの構図となっています(なっていました。過去形)。現在、中国朝鮮半島人(俗にいわれているところの保守論壇とポチ保守)は縄文人が1万7500年前から今日までとことん愛してやまない自由・平等・民主主義の理念を呪詛し難くせをつけ、さすが大陸系中国人朝鮮半島系人の超絶的王権論を得意とするひとびとらしく、独裁者の必要性すらあらためて説いています。彼らの念頭にあるのは石原慎太郎氏であることはいうまでもありません。
『神々の指紋』を世界的ベストセラーとした著者ハンコックがいっていますが、世界のなかで、古代を現代に今なお生きている唯一の人々は日本人である、と、驚きとともに賞賛してやまないのですが、実はそのとおりなのです。
しかし、現在、我々1万7500年を生きて来た縄文人にとって、ある意味で最大の歴史的危機に直面しています。この星の超権力を構成する超富裕層と王権を基軸とする日本の超富裕支配層、ともに、列島から見れば外来のグループの連合が形成され、縄文人の愛してやまない自由と平等と民主主義、そして偉大なる自然環境が息の根を止められようとしているのです。米国政府と日本の経団連は共に、京都議定書に反対していますがこれも連合軍のあらわれです。
住基ネット、マスメディア規制法、有事法、教育改革(ゆとり教育)、司法改革(敗訴側費用負担)、名誉毀損裁判で有名人側に勝たせている司法判決の流れ、靖国問題、など、全て、この2つの外国グループの連動でおきています。中国朝鮮半島系思想グループ(たとえば西部・小林・西尾・渡辺など)が、住基ネットやマスメディア規制法案に反対しないのは、そういうことなのです。実際に西部氏などのグループは小林氏からポチ保守とよばれるほどに、アメリカ屈従の道に抵抗がありませんが、これは、彼らが提携連合できる親近性があることを意味しています。
この2つの渡来文化連合軍と縄文のあいだの戦争。これがいまおきつつあることです。われわれ縄文人としては、特に、来るべき、WTOのサービス分野での貿易自由化協定(秘密裏に進行中)と、それに連動しているマスメディア規制法、住基ネット、有事法、司法改革などが既成化しないよう縄文人が総力を挙げていかない限り、この連合軍に飲み込まれ、縄文は隷属し、縄文文明が途絶える可能性があるのです。
人間の平等と自由、自然界への畏敬、超平和主義を1万7500年前から主張していいる縄文人が、中国アングロサクソン連合軍の思想体系(強者が弱者と自然を支配する)を超克し、世界に現代型縄文モデルを提示普及できないなら、惑星地球の生き生けるものは全て崩壊し、死の星となりましょう。縄文人である日本の一般人の歴史的使命は巨大なものがあるのです。
わたしたちの意識の最も深い層で脈打っているのは縄文人の感受性なのです。それを思い出し、感じることが決定的に大切になると思っています。日本の伝統を守れなどといっている人々はあくまで弥生以降の、しかも明治政府下の無理やりつくった支配者側の価値体系を守れといっているのです。