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(回答先: 遠藤周作氏の「キリスト教も日本では西洋のそれとは違うものになる」というような言葉も浮かんだりします。日本ではそれは「マリア」が前面に出てくるのです。 投稿者 ウッチャー 日時 2002 年 9 月 13 日 19:32:55)
共感いただき恐縮です。それにしても、タイムリーに、よくぞ、野村氏のこの文章をここに持ってきて下さいましたね。いつも幅広い情報をカバーされており、今回も驚きとともに敬意を覚えます。わたしも実は彼のこの文章を読んだ記憶があります。海外を詳しく歩いた経験をおもちだったり、海外生活が長い人々にとって、強く共感できるのが彼の文章の以下のこの部分なのです。
『 アジアの後進性を私は言おうとしているのではない。階層が違えば人を人とも思わぬメンタリティを、少なくとも戦後これまでの日本人が否定してきたことの尊さを強調したいだけだ。
「人権」や「平等」といった、最近の日本では軽視されがちな、いやしばしば揶揄や嘲笑の対象になりさえする価値観が、どれほど得難いものであるかを、日本を長く離れてみて初めて痛感するからである。
私の知人に、インドで十余年も柔道を教えている青年がいる。インド北部のその地域では、カースト間の軋轢のほかに、ヒンドゥー教とシーク教との宗教間の対立があり、血なまぐさい抗争もたびたび引き起こしてきた。そのようなカースト、宗教、さらに男女の違いがあるさまざまなインドの子供や青年たちが、彼のもとに柔道を習いにやって来る。
柔道は肌と肌とが触れ合い、息や汗が直接相手にかかる競技である。最初のうち、子供たちはカーストや宗教、性別の違う子供とは、乱取りで組むことすら嫌がったという。しかし、その日本人青年に「柔道場の中ではみんな平等なんだ」と繰り返し説かれるうちに、カーストの違う子供同士も、ヒンドゥー教徒とシーク教徒の青年たちも、男子と女子の生徒も、いつのまにか組み合って稽古するようになっていった。
かの日本人青年は、とりたてて「人権」や「平等」を日本で学んだわけではなかろう。戦後の日本で育つうち、自然と身につけたものであるにちがいない。
だが、それをインドの子供たちに伝えられるほど血肉としている、そのことの貴重さを、われわれ日本人はもっと自覚していい。
日本でも貧富の差が拡大しつつあるいまだからこそ、私たちが戦後半世紀以上をかけて営々と培ってきたものの掛け替えのなさに、もう一度目を向けるべきではないか。』
そう、ここなのです。人権や平等を特段勉強したわけではなかろうに、おのずと平等への指向が出てしまうのは、これは、縄文の意識水脈に連なっているからなのです。もう、サガなんですよ。弥生意識が多少ゆるむ環境(たとえば海外)におかれると、いっそうそれが浮上するといったことがあるかもしれません。
いずれにしましても、戦後日本が達成した平等と社会的格差の無さは、縄文が弥生に乗っ取られてから以降の世界史的パノラマで見たとき、実は奇跡的達成といってよいものなのです(実は、以前指摘があったように、アメリカ先住民の北東部グループが特に12世紀以降に実は圧倒的に圧倒的な自由・平等・民主主義を達成していますが)。
この達成点が、アングロサクソン・中国朝鮮半島系(弥生以降支配層)連合軍の、強者が弱者を武断性を背景に支配する思想=エリーティズム(エリート至上主義)=弱肉強食の論理=平等なき自由への志向などによって。縄文的価値を根こそぎにしようとしているのです。新自由主義のプログラム=経済のグローバル化=経済の植民地化=現代の帝国主義を唱導する超富裕層連合軍が、列島縄文人(日本の一般人)をはげしく喰い散らかそうとしているのです。
その方向での言説が最も先鋭的にでているのは(英文学専門の)渡辺昇一上智大学名誉教授です。この人は、日本人の中に格差をもうけるべし、世界の経済支配層であるユダヤ人を日本にすまわせ特待せよ、貧乏人には教育はいらない、とそれこそ必死の形相でうったえています。血も涙もない、あけすけな論理を組んで言論を張っています。反縄文連合軍のイデオローグの位置にある人物です。
さて、遠藤周作氏の作品はキリスト教とマリアの枠組みを借りながら、実は一般的に母性への敬慕、太母への憧憬うたったものであり、これは、縄文意識の地下水脈に触れて書いていると見ます。縄文は母系性文化なのです。縄文土器の美術的価値(彼らは原始人などではなく、高い美意識を持っていた、非常に高等な人々ではないかと、はじめて発見し訴えた人物である)岡本太郎氏などの母親礼讃にもそのようなものを強く感じます。彼の作品は縄文人を想起させるタッチを持っていまして、彼など、思想内容からみても縄文人の現代的謀反のように思える痛快な人物です(ちなみに、近現代芸術の歴史で、初めて純粋抽象画を生み出したのは、一般にいわれているカンディンスキーではなく、彼であり、近現代アートの展開の中で決定的な仕事、歴史的仕事を行ったのが彼なのです)。宇宙的で母親的なのが縄文、地上的で官僚的で父親的なのが弥生(中国朝鮮半島系)なのです。中国にはTaoism以外、形而上哲学が育たず、形而下のものしかない理由は、そこにあります。