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さて。気を取り直して妄言を再開しようかと思います。(ヒマだからです。)
先日、
常在妄想
http://www.asyura2.com/0502/lunchbreak5/msg/161.html
投稿者 フニャコ 日時 2005 年 1 月 28 日 14:07:08:HkLT.faSehtSA
にて、「相対的にアホな私が目立ってしまうので自粛するYO!」と発言しました。
しかし、“地べたから物申したい”という想いもありまして(ヒマということもありまして)前言を撤回しようかと思っております。
と、言いますのも
「たとえ稚拙なものであっても、知って考えて意見を何らかの形で表明する」
と言う事を娯楽として広める必要を感じるからです。
私たちが「マスコミと大衆」ではなくて「マスコミと個人」という形に分断されつつあるというのは★阿修羅♪投稿者、読者であれば、
言わずもがなでありましょう。
確かに、所謂「世間」によってプライベートな領域干渉されるような事は御免蒙りたいですが、分断され、支配者側(この場合企業含む)にとって都合のいい情報しか与えられず、支配されやすい思考に誘導される事は避けたいところであります。
「『個人』を重視しながら一体となる」を実現させたいと考えます。
知識は全く及びませんが、これはあっしら氏の「開かれた共同体」と見ている方向は一致しているはずです。
ね。まさちゃん。
【参考】
あっしら様の遺稿は?
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/418.html
投稿者 まさちゃん 日時 2005 年 2 月 03 日 11:16:11: Sn9PPGX/.xYlo
(あっしら氏不在であっても、我々で続ければいいじゃないですか。遺稿など要らないと思います。)
(氏に頼らず、我々でやったほうが意義があるんじゃないですかね。私はそう思っています。)
抽象的な物言いですが、我々はこれまで生まれては死んでいった多くの先人達の死体の山の上に立っています。
そして我々は、いずれ自身の死体をその山に積上げていきます。その上に次の世代が立ちます。
こんなイメージはおどろおどろしく思われるかもしれませんが、等しく引き受けなければならないものです。
我々は、様々なものに縛られています。
まだ縛られていない「自由」はいくつも残されていますが「最大限享楽を貪る自由」が時とともに前に出つつあります。
しかし、そんなものはさして大切なものでは無いと考えます。
本当に大事なのは
「いつ、どこで、何のために死ぬか」を選択する権利だと思います。
これは裏返せば勿論「何のために生きるか」権利でもあるはずです。
“死体の山”で言えば、「どの部分に自らの死体を積むか」でしょう。
この山の底辺は、食物連鎖の中にいた頃の人類です。この山が崩れれば、原初に戻るでしょう。
崩れぬように、自分なりに「良い場所」を選び、そこに積上げる自由。それは未来に対する権利です。
(それがどんな結果になるにせよ、それ自体は関係ありません。いずれにせよ積上げざるを得ませんから)
ただ闇雲に高く積めば崩れてしまいます。ですから場所を選ぶのです。
私はこれから、そこかしこで意見を表明してまわり(漫談とも言います)本分を全うするつもりです。
予定ではあと60年ほどありますから、少しはいい位置に積めるのではないかと希望的観測をしています。
それぞれが知り、考えて表明する社会は、支配する側とされる側が対等な社会だと思います。(支配が容易で無いという意味で)
個人間で意図的な連携がなくとも、次世代への想いさえ共有できていれば、良い山が築けるのではいかと考えています。
想いを共有するには、まず考え、表明するところから始まるのではないでしょうか。
考える事を娯楽レベルまで落として(或いは引き上げて)それを楽しむ人を増やす事が私の「いつどこで何のために死ぬか」という権利
の行使です。
もっと言えば、多くの人が多くを考えるようになれば、変革への導火線になりうるのではないかと考えています。
「急にわけの分からん事をぶちあげてなんなんだコイツは」と思われたかもしれませんが、これを決意表明とさせていただきます。
batlh bIHeghjaj !