現在地 HOME > 昼休み5 > 242.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: ダブルスタンダードというか面従腹背というか使い分けというか。 投稿者 フニャコ 日時 2005 年 2 月 13 日 14:48:39)
「道の一部」というのが何だろうと思ってネットの上をほろほろ歩いてたんですが、人類誕生以来というか宇宙開闢以来というか、ずーっと流れてきているその流れの一部のことですか。別に人がいてもいなくても宇宙は何の関係もなく流れているという。
もしそうなら深沢七郎氏ですね。自分あるいは人間そのものがそういう流れの中の一部なので、蛆虫と特に区別することはない。
話が飛びますが、有名な(らしい)ところでは、
討つ者も討たるる者も土器(かはらけ)の砕けたあとはもとの土くれ
三浦一族(三浦半島にいた一族ね)の誰かの辞世の歌。
いつも死ぬ用意がないとチャンバラはやってられませんよね。
武士にかぎらず、大家族制だとおじいちゃんが死におばあちゃんが死に近所の老人が死にこれが昔なら赤ちゃんも死にちょっとした飢饉でおとなも死に、のべつ死人が出てたんでしょうし、しょっちゅう死人を見てるとちっとはいいのかも知れませんが。
今は異常に死を遠ざけてる感じがしますね。衛生第一健康志向。何でもかんでも抗菌とかいって。
で、例によって健さんですが。
話が飛びがちですがいちおうフニャコさんのをふまえて書いてるつもりです。もともと儒教も道教も構造主義もなーんも知らんし、頭の中に詰まってるのは釣りのデータ都はるみその他少々の人間なんでお許しを。
健さんがなぐりこみをする時はもちろん一宿一飯の義理というのもあったりしますが、つまるところ、義によって立つ、ということだったと思います。荊軻もそうやったんと違うんですかね。私としてはそう思ってました。とにかく高校の教科書で「風蕭々兮易水寒 ・・・」を読んだ時以来のファンです。先年の映画はおもしろくなかったですけど。
妲己がどういう死に方をしたのか知らないんですけど、60年代のベトナムの大統領夫人が独裁に抗議して焼身自殺をした坊さんを人間バーベキューといったそうで、ほとんど妲己の再来みたいな人もいたようですが。
ヤクザ映画における健さんの人気というのは、世の中で義の値打ちがさがっていったことと関係あるような気がします。1970年前後は高度経済成長で人々の中でお金の価値は上がっていったんでしょうけど。あ、フニャコさんはまだおられなかったんでしたか。失礼。失礼ですがついでに(なんでついでやねん)このまま続けます。で、同じころに寅さんも出てきて、これは情の方ね。要するに義も情も値打ちが下がっていった時代。
その二つの値打ちがさがることに人々は抵抗したかったので、人気があったんでしょう。
義理がすたれりゃこの世は闇なんですが、その代りにお金が多くの人々の中を占めた。金ピカに光って闇を照らすわけですな。
『水滸伝』でも義によって108人が立つわけですが、最後は何か上のほうの政治に利用されただけのような印象でした。具体的な誰かが利用したわけではなくても、義というのは個人的なやつだし、所詮は何か社会的に大きな力には飲み込まれてしまいそうですね。
で、昨日思いついた暴論ですが。乏論というべきか。
一木一草にいたるまでそれらに神を認めるわれわれの社会は大きく見れば競争社会ではなかったと思いますし、おまけに何でも取り入れてしまう習性があるわけで、勝ち負けに異常にこだわる連中とぶつかれば、それはやられてしまうでしょう。どうぞお入りください、といったら相手はどんどんはいってきて母屋まで全部自分の物にしてしまう。そうなっては困るから考え方を切りかえて行こうとしてても、2千年来やってきたことがそう簡単に変えれるわけもなく、古京すでにあれて新都いまだならず、の状態のところにはいってこられたら勝負になりません。その後新都ができたとしても時すでに遅しでもう支配されてしまってる。とにかく今は新都の工事中。私はいりませんけどね、そんな新都。で、その新都の実態は、というと。
キリスト教というのも知らんので申し訳ないんですが、個人個人は神と直接つながってるだけで他人とは神を通じてつながるのだ、ということを聞いたことがあります。これを無理やり今の日本に当てはめてしまうんです。なんでやといわれても困る。そうしたい。
んで。
過去の日本は他人とは義とか情とかで(つまり健さんと寅さんね)つながってたのが、それらがすたれてしまって、お金で(それを発行する)中央政府を通じて他人とつながるようになった(注)。キリスト教の神には教えとかあるけど、その教えに相当するのがお金で、したがってああしろこうしろという指示は書いてなくて、そしてなんと、中央政府が神に相当する(!)。で、汝の隣人を愛せよ、なんて教えは一万円札のどこにも書いてないから、他人というのはただの取引相手であってその個人の人格には何の意味もなく、自分と利害関係がなければ無縁のものである。したがって基本的に無関心である。いつぞやのように、皇居のお濠で溺れてる人を何十人かの人間がただ遠巻きにしてじっと見てるだけ、というおぞましい状況まででてくる。
(注)他人との関係でも損得ばかり考える奴が増えてるような気がするのは錯覚でしょうか。昔は旅の恥はかきすてても自分の村ではそんなことなかったようですが。今は身近の共同体がこわれて、近所の畑からスイカをぱくっても誰も怒らん。私は怒られる常習犯でしたけど。自慢できるのはこれくらいというナサケない人間です。すいません。だから損得をいわないのは家族ぐらいか。それもだんだんあやしいという話もありますが。
ついでにいえば、他人を批判しようとすれば神である中央政府の立場にたってやるのが権威があってよさそうである。神がこういった、というかわりに、政府がこういった、という。
こういう新都ができつつある状態。
もともとはダブルスタンダードかぁと考えてたんですけど、全然違う方向に行ってしまったのは、考えるということをふだんからしないので車に乗ったことのない奴が運転してるみたいなもんなんで仕方がない。ということにしておいて下さい。
上のほうに
>「たとえ稚拙なものであっても、知って考えて意見を何らかの形で表明する」と言う事を娯楽として広める必要を感じるからです。
と書いておられるので、お言葉に甘えさせていただきました。もちろん3日後には全然正反対の意見を表明してる可能性もあるのでご承知おき下さい。