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(回答先: Re: 新都の話。 投稿者 まんまんちゃん 日時 2005 年 2 月 15 日 13:41:39)
ジャック・どんどんさん、まんまんちゃん、いつも私の妄言に付き合っていただいてありがたく思います。
考えたり書き込んだりする張り合いが出てきます。
今日は仕事の出だしから「お、忙しい。今日は忙しい。たまにはいいなぁ」なんて思っておりましたら、どうやらいつもの調子に
戻ったようです。ヒマです。こんなんで一応食べれててごめんなさい。
ジャック・どんどんさん、毎日かあさんありがとうございます。
こういう笑いの系列をさらっとやってお客を笑わせる芸人さんが減ってきているように思います。
昔は、もっとこの系統の笑いを提供する芸人さんがいたように思いますが、残念に思います。
もっとも、全体的に若いお笑い芸人に面白いのがいなくなりつつありますが。
満腹していただいたようでなによりです。「ジャック・どんどんさんのツボってこのへんかな」と狙いながら書きました(笑)
私の投稿の中では傑作の部類に入ると自画自賛しております。知恵熱出した甲斐がありました。
>まんまんちゃん
「道」なんですが、言いだしっぺの老子自身が「道ってのはこれだ!」とはっきり言っていない事もあって、非常に曖昧な観念です。
すごく乱暴に言ってしまいますと、「無限」と思っていただければと思います。
「無限」が何かの拍子に自らの一部に「有限」という枠をはめてしまいます。
その枠によって、土であったり木であったり石ころ、犬、ネコ、フニャコとなります。
それら全て、またいずれ無限の一部へと帰っていきます。なんかそんな感じです。
ですから「フニャコ=犬=ネコ=土くれ=うんこ」と言えます。(すごく大雑把ですが)
フニャコも「道の一部」です。
>もしそうなら深沢七郎氏ですね。自分あるいは人間そのものがそういう流れの中の一部なので、蛆虫と特に区別することはない。
そうですね。そうだと思います。
脇道にそれちゃって
>別に人がいてもいなくても宇宙は何の関係もなく流れているという。
これですごく考えてしまいました。
もし、観測者がいなかったらそこに宇宙は「ある」のかどうか。
もしや、我々は観測する為にいるんじゃないかとか、いろいろ考えてしまいました。
さらに我々がいなければきっと「時間」も存在しないだろうと、なんだかそんな風に思います。
(これについてはまた他でアホな妄言として書く事にします。)
>今は異常に死を遠ざけてる感じがしますね。衛生第一健康志向。何でもかんでも抗菌とかいって。
そうですね。死と生はどっちがなくても成り立ちませんでしょうから、死に直面していないと生きる事に実感が無くなっていくでしょう
ね。
>その二つの値打ちがさがることに人々は抵抗したかったので、人気があったんでしょう。
きっとそうだと思います。
老子おじさんも「大道廃れて仁義あり」とそんな事を言ってます。
「大道さえみんなが認識しているのなら仁義なんか重視されねぇよ」と、そんなニュアンスだと思います。
仁義が廃れたら、今度はなんでしょうか。はやり金なんですかね。
>神がこういった、というかわりに、政府がこういった、という。
そうかもしれません。
私が以前妄言として神について書いたんですが、(あたり構わぬ妄言でもこういう時に役に立ちますね。はしょるのに:笑)
http://www.asyura2.com/0411/lunchbreak4/msg/261.html
結局のところ、親への幻想って大きいんじゃないですかね。
「〜がそういってた」と人間は言いがちじゃないですか。子供でなく大人でも。
(「お前はどう思うんだよ!」と聞いてやりたくなります。)
政府が神格化されつつある(権威として利用されている)というのは、暴論ではないと思います。
推測なんですが、人間(に限らず群を基本にする動物)が社会を創り出し、これまでに義理(中国的な強烈なものではなく)を重んじていたのは
「集団のほうが生き残る可能性が高いから」
「全員が利他的な行為をしていれば結局は自分の利益になるから」
と言う理由からだっただろうと思います。
功利主義的な判断でそうなっていたはずですから、きっと「それよりも利益のある方法」として拝金主義に走り始めたのでしょう。
しかしそれは間違いだと私は思います。
経済的な利益は誰でも欲しいものですが、精神的利益はもっと重要なものです。
利他的な利己主義が一番、経済的にも(少なくとも生きていける)精神的にも利益があると考えます。
(精神的なほうが大きいですね。私は精神的な利益のほうが“美味しい”と思います)
(確かあっしら氏がそんな事を言っていたような気がしないでもありません。氏の膨大な投稿から探すのは骨が折れるので)
(探しませんが、氏の投稿のほうが細やかなのでお勧めです。)
損得ばかり考えているやつが増えたのは「この生き方の方が効率いいよ」と教えられていないからだと思います。
みんな仲良く助け合うのが結局のところ一番の利益だと思います。
そういう意味で私は「勝ち組」(本当はこの言葉大嫌いなんですけれどもね)です。
>汝の隣人を愛せよ、なんて教えは一万円札のどこにも書いてないから
法律で規制されていない部分(不文律)をどう解釈するかというのが、社会に生きる我々個々人の腕の見せ所のはずなんですが、
どうやら多くの人はそうは思っていないようで。残念に思います。ええ。
>皇居のお濠で溺れてる人を何十人かの人間がただ遠巻きにしてじっと見てるだけ、というおぞましい状況まででてくる。
これ、初耳なんですが、いつの事件でしょうか。
これ、かっこよく助けたりしたらどれだけの恩恵があるか、想像するだにすごいと思うんですけどねぇ。
遠巻きで助けないなんて道義的にも問答無用ですね。
「いかに善く生きるか」を教える必要があるかもしれませんね。
いや、必ずしも学校でなくて、地域住民による、老若男女を対象にした寺子屋みたいなものを無償でやりたいと思っています。
(無償で講義してくれる先生探すのが大変ですけれどもね)
>近所の畑からスイカをぱくっても誰も怒らん。
なんでですかねぇ。相対主義ってやつですか。
自分の領域を侵されたくないから他人に無関心て言うのは、あじけないですね。
>上のほうに
>>「たとえ稚拙なものであっても、知って考えて意見を何らかの形で表明する」と言う事を娯楽として広める必要を感じるからです。
>と書いておられるので、お言葉に甘えさせていただきました。
>もちろん3日後には全然正反対の意見を表明してる可能性もあるのでご承知おき下さい。
甘えるなんてとんでもないです。私にとっても刺激になっています。ありがとうございます。
私も3日後、考えが変わっているかもしれません。
考えるのが楽しければいいじゃないですか。考えがどんどん変わっても。
またよろしくお願いします。
(なんか今日は散発的にお客さんきてまして考えがなかなか纏まらなかったので、あとで色々補足するかもしれません。)
ではごめんなさい。
【妲己について】
妲己なんですが、周の文王や武王なんかが可愛い孤児を宮廷向けに教育して、養女にしてそれを殷の紂王に妾として差し出すんです。
それだけなら普通なんですが、教育する際に嗜虐的な趣味やらなにやら植えつけたんですよ。本人にも気づかせないように。
それが元で殷の紂王が身を滅ぼしたんです。
そして最後は「王を篭絡して世の中を乱した悪女」として処刑されるんですが、本人は全て気付いていたというお話です。
自分の過酷な使命を悟りつつ、無理して嗜虐的な行いをしていたわけですね。(一説ですが)
そんな悲しい話でした。
これに関しては陳舜臣の「小説十八史略」に書いてあったと思います。(書いて無いかもしれません。おぼろげです)