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ドーキンスの唱えた説、利己的遺伝子を、皆さんも、ご存知だと思います。かいつまんで言えば、生命誕生から、今日の高等動物まで、利己的な振る舞いをする遺伝子を考えると、その生命現象が、おおよそ説明できる、ということです。遺伝子は、自らを再生産するという目的の為に、様々な戦略で、生命活動を展開するのだ、ということです。(ここで、目的、戦略は、意識的なものではありません。)
チンパンジーの乱婚に近い、交配も、ゴリラの一夫多妻も、(傾向としてですが)、彼らの環境と、彼らの能力のもとで、彼らの子孫を、より多く残す(遺伝子を残す)戦略として、とられているのだ、という、説です。(子孫を残す率を求める、シミュレータもあります。)とうぜん、群れの間における、縄張り争いも、メスをめぐる争いも、より多くの遺伝子を残す、という観点から、論じています。
ところで、縄文ビトさんからの引用 −−−
今私が書こうとしている縄文時代という社会では、現在よりも文明が無く原始に近い状態でしたが、どういうわけかその社会の人たちは、動物で言うところの生存競争はありませんでした、その社会はピテカントロプスから数えると百十万年という長い時間戦争も無く、つまり人間同士の生存競争もなく、日本では二千三百年前まであった社会なのです
−−− 引用終わり
どのような前提条件、食物を得る環境、個々の人間の能力、子育ての期間など、を立てると、ここに引用したような、社会が維持できるのでしょうか?遺伝子は、それを残すからこそ、その残し方 = 生活の仕方、つまりは生命現象のやり方が、残っていくのです。与えられた環境で、他より、多少でも良い環境適応性を見出した集団が、他を圧倒していく方が、遺伝子としては、残っていくのですがね。
利己的遺伝子の、利己、というのは、誤解を生むかもしれませんが、意識的な利己、ではなく、生命として備わっている性質、ということです。より多く、遺伝子を残すものが、その遺伝子の発現の仕方とともに、より多く残っていく、ということです。
遺伝子の残し方が、生命のあり方であり、人間であれば、生活の仕方、ということになります。
仮に、縄張り争いをやめることが、遺伝子的にビルトインされた生命が、人間であれば、今日でも、縄張り争いはしません。現在の人間と、縄文時代の人間が、遺伝子的に同じであれば、生存のあり方に、縄張り争いは、遺伝子の発現として含まれています。
縄文時代を通して、遺伝子のひとつの性質 −− 縄張り争い −− が発現しなかった、のであれば、よほどの条件がそろっている必要があります。ブッシュマンのような環境でしょうか?
しかし、縄張り争いは、すべての生命、というか、遺伝子の出発点に組み込まれています。したがって、よほど稀有な条件がそろっていないと、遺伝子のいわば命令 −− 競って、より多くの遺伝子を残す −− から、逃れられないのですが。
(一人っ子政策も、社会全体が残るため、つまり、全体として遺伝子を残していく、という観点から見れば、分かります。少子化も、分かります。)