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(回答先: 利己的遺伝子と縄文社会の無競争 投稿者 健奘 日時 2005 年 3 月 16 日 19:17:02)
健奘 さん本来の返信が遅れましたが相すみません。
健奘 さん ドーキンスの唱えた説、利己的遺伝子を、皆さんも、ご存知だと思います。かいつまんで言えば、生命誕生から、今日の高等動物まで、利己的な振る舞いをする遺伝子を考えると、その生命現象が、おおよそ説明できる、ということです。遺伝子は、自らを再生産するという目的の為に、様々な戦略で、生命活動を展開するのだ、ということです。(ここで、目的、戦略は、意識的なものではありません。)
健奘 さん チンパンジーの乱婚に近い、交配も、ゴリラの一夫多妻も、(傾向としてですが)、彼らの環境と、彼らの能力のもとで、彼らの子孫を、より多く残す(遺伝子を残す)戦略として、とられているのだ、という、説です。(子孫を残す率を求める、シミュレータもあります。)とうぜん、群れの間における、縄張り争いも、メスをめぐる争いも、より多くの遺伝子を残す、という観点から、論じています。
縄文ビト 非常に危険な考え方ですね、人間はチンパンジーやゴリラとは違います、あくまでも人間です、現在の我々の社会に『縄張り争いも、メスをめぐる争いも、より多くの遺伝子を残す、という観点から、論じています』このようなものを持ち込めますか、しかも現在の人々は数十年前の共同体的意識が崩れているのではありませんか、数百年前、数千年前の人間の社会はもっと共同体的でした。そこにはカネ(通貨)も無く全体の労働で全体が養われていました、そして人を思いやる心がありました。
ところで、縄文ビトさんからの引用 −−−
今私が書こうとしている縄文時代という社会では、現在よりも文明が無く原始に近い状態でしたが、どういうわけかその社会の人たちは、動物で言うところの生存競争はありませんでした、その社会はピテカントロプスから数えると百十万年という長い時間戦争も無く、つまり人間同士の生存競争もなく、日本では二千三百年前まであった社会なのです
−−− 引用終わり
健奘さん どのような前提条件、食物を得る環境、個々の人間の能力、子育ての期間など、を立てると、ここに引用したような、社会が維持できるのでしょうか?遺伝子は、それを残すからこそ、その残し方 = 生活の仕方、つまりは生命現象のやり方が、残っていくのです。与えられた環境で、他より、多少でも良い環境適応性を見出した集団が、他を圧倒していく方が、遺伝子としては、残っていくのですがね。
やはり危険な考え方ですね。今の社会にこの考え方を持ち込んだら叩かれますよ。遺伝子的に劣るものは、生きてはいけないという考え方を言っているわけですから。論理を立てるときは、普遍的な思考をしないと危険があります。
健奘 さん 利己的遺伝子の、利己、というのは、誤解を生むかもしれませんが、意識的な利己、ではなく、生命として備わっている性質、ということです。より多く、遺伝子を残すものが、その遺伝子の発現の仕方とともに、より多く残っていく、ということです。
健奘 さん 遺伝子の残し方が、生命のあり方であり、人間であれば、生活の仕方、ということになります。
仮に、縄張り争いをやめることが、遺伝子的にビルトインされた生命が、人間であれば、今日でも、縄張り争いはしません。現在の人間と、縄文時代の人間が、遺伝子的に同じであれば、生存のあり方に、縄張り争いは、遺伝子の発現として含まれています。
縄文ビト 縄文時代、いや旧石器時代は縄張り争いはありませんでした。残念ながら人間の世界では農耕が発生し牧畜が発生した時から、農耕・牧畜に必要な土地争いによる戦争へと進展したわけです。そして現在はそれにプラスして資源争いへと来ているわけです。
縄文時代を通して、遺伝子のひとつの性質 −− 縄張り争い −− が発現しなかった、のであれば、よほどの条件がそろっている必要があります。ブッシュマンのような環境でしょうか?
縄文ビト いえいえ、ブッシュマンとか、アメリカ・インディアン、カラハリ砂漠の住人、パプアニューギニアの原住民の人とは違った生き方が縄文時代にはあったのですよ。
http://www.capa.ne.jp/a-bank/maruyama/ 三内丸山遺跡です
しかし、縄張り争いは、すべての生命、というか、遺伝子の出発点に組み込まれています。したがって、よほど稀有な条件がそろっていないと、遺伝子のいわば命令 −− 競って、より多くの遺伝子を残す −− から、逃れられないのですが。
一つの点だけを見ないで、人間の生き方は現在までつながっている。という形で捉えてみることだといえます。
これからも宜しく