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(回答先: Re: 家族と国家とフェミニズム(つづき) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 02 日 18:53:37)
バルタン星人様、はじめまして。
レスありがとうございます。
「男らしさ」「女らしさ」についてですね。
あっしら様もおっしゃってましたが、結構笑っちゃう区分もありますけど。
バルタン星人様********************
ジェンダーが身体性ではなく「文化的概念」であるということなら同意いたします。
しかし、「実母と一緒にヨメをいじめるマザコン男」にこの区分が有効か?という疑問が
あります。酔っ払ったリーマンのオヤジが「いやーウチはカアちゃんが強くて...、
頭上がんないよ」と言いながら実は少しも恐れていない、「オレが養ってやってるんだから」、
面倒なことはとりあえず避けるが文句を言われても殴れば黙ると思っている。ところが本人は嘘をついているつもりは全くないわけです。
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私は「ジェンダー」は「文化的概念」と定義しています。その文化的概念が身体に結びつけられて、身体性をも規定されてしまっているということは否定できませんが。
(ついでにいうと、ジェンダーをなくすという考えは持っていません。それは不可能でしょうから。ただ、内容はすこしずつ変わっていくと思っています。これまで少しずつ変わってきたように・・・・望ましい方向かどうかは不明ですが)
「実母と一緒に嫁をいじめるマザコン男」がこの区分に当てはまらないなら、「男」ではないのではないでしょうか。というか、現実的にこの区分に当てはまる男などおりませんよね。女もね。
私たちは女であれ、男であれ両義性の中に揺れ動いて生きているのであって、両方の極にいるということはほとんどない。それなのに「観念」としては、文化的に規定されている「男らしさ」「女らしさ」に従っていると思っているか、あるいは従わなきゃと思っているかという状態に陥っているというのは否定しがたい殊のように思えるのですよね。
いくら「人それぞれ」と思いこもうとしても、その「人それぞれ」の考えの基盤となるものはどこから与えられたのよってことですよね。それを無視して、「人それぞれ」だと切り捨てることはできないと思うのだけれど・・・・・・
バルタン星人様****************************
別スレでも書いたのですが広松渉的関係主義で言えば「『人間の本質は社会的諸関係の総体』ならば、人間は関係の束であり、具体的諸個人はその結節としてある」わけです。社会自体も共同体ですが家族も含む無数の共同体に分節されています。共同体を「集合」と考えれば家族の一員である子どもは小学校というクラスのメンバーである「1年2組」というクラス(面倒ですね)のメンバーでもあるわけです。子どもはそのクラスという共同体のルールに従い、ふさわしい振る舞いをしなくてはいけません。「家ではご飯はお母さんが食べさせてくれた」などと言ってもダメでグズグズしていると空腹のまま午後の授業を受けなければならないからです。
主婦である律さん(すいません、あくまでも例です。)はお姑さんが最近口を利いてくれないのに悩みます。それは同居してなくても「血縁共同体」のメンバーだからです。ここで言っている共同体とは経済的な贈与−互酬のシステムというより「あれ」とか「これ」といった極度に抽象的な言語か身振り、手振り、顔つきなどの非言語的なコミュニュケーションが意味をもつ範囲のことです。
これらの共同体は不変なものでなくテクノロジー(携帯電話、インターネット)によって地理的、空間的制限を受けず絶えず流動し再編成されています。
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アホなので(笑)、おっしゃっていることを全部理解できているかわかりませんが、家族をはじめとする共同体は、経済的な贈与−互酬のシステムという枠だけでは捉えられない、「ルール」の網の目の中にあるということでしょうか。そして、その「ルール」の内容や組み込まれ方は、様々な環境要因によって常に再編成されているものだと。
そういうことなら、同意します。
だからこそ、「家族」をあまりにも「実体視」するのは危険ではないかと思ってしまったりしているのですけれどもねえ。
バルタン星人様****************************
>個別の家族でできることは限られていますので、やはり困難だと思います。
内、外、中間というカテゴライズがそもそも成立しないのではないかと思います。
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共同体の重なり合いの中に一人の人間は存在しているので、内・外、中間などの枠が意味をなさないということでしょうか。厳密にはそうでしょうね。
ただ、人が強力な活動力を発揮する場合、「内集団」所属の観念を持って行動する場合が多いですよね。あっしら様にいわせれば、そのような「実体視」が危険だ、問題だ、というのだろうけれども、そうだとしたら、思わずそう思ってしまう人をどうしたらよいというのか。
バルタン星人様********************
>性差や人種、民族、宗教、階層などなどの問題を捨象した形で「支配−被支配関係構造」を解消できる
>と考えるのは夢想です。
「すべてをジェンダーでは語れないが、すべてをジェンダー抜きに語ることは出来ない」(by上野千鶴子)ということであれば同意します。
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そういうことです。
バルタン星人様********************
>たとえば、男女雇用機会均等法に応じて、「総合職」「一般職」という風に性差に関わりない職域区分を
>もうけたけれども、けっきょく大部分は従来の男性・女性の区分と変わりないという状況になってしまったように。
男と同じ様に過労死するまで働くか、一人でも抵抗するかという問題になりますね。
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性差に基づいて編成されている社会的な関係構造(性差に直接関係ない「支配−被支配関係構造」といってもいいですが)をほっておいて、表面だけ変えても状態は何も変わらないということですよね。(そのことを言いたかったんだけどなんか叱られてしまった)
バルタン星人様***********************
>(この点に関する私の考え方は、熊沢誠さんに近いです。「性差」の論理より、「企業の論理」のほうが強いと思っています。
これには疑問があります。「ポスト・モダン社会」では事実上労働力としての「性差」は極めて小さくなっています。(もちろん例外はありますが、生産現場でも「5Kg」以上は手で持ってはいけないというルールもありますし)男性社員を首にして女性のパートに差し替えてもなんら支障のない仕事は沢山あるはずです。
ところがそうなっていない。(スーパーや百貨店ではパートの女性に権限を与えて売り場の中間管理職を整理するというのは始まっていますが)やはり「経済外的要因」があるのだと思いますがこのズレが埋められないほどキツクなっています。
私の同居人の友人の女性で資格もスキルもある有能な人ですが、ある会計事務所にパートで勤めていたのですが「残業代を払ってください」と言ったところ「忙しいときには協力してくれないと。あなたには特別眼をかけて他の人より高い自給を払っているのにがっかりした。もう来なくていい」と言われたそうです。要は能力はそこそこで言うことだけ聞いて長時間「サービス残業」が出来る人間がよいということでしょう。
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そうですね。企業の論理としても現段階は「女性」の方が切りやすい存在、コストのかかる存在と認識されているということで、これは全く「性差」の問題です。
ただし、「女性」の方が切り捨てるのに「コスト」が「男性」よりもかからないという、企業側のインセンティブを変更する「女性」も「男性」もコストは変わらないという状況が生まれれば(あるいはもっと有効なコスト評価軸が出てくれば)、「女性」を切り捨てるという方向は棄てるのではないかということです。
ただし、「性差」が有効な軸でなくなっても、「性差」にこだわる合理的でない経営者もいるかもしれません。ここは「性差」の問題として残される部分になるでしょう。
ただし、おっしゃるとおりに、発展途上国のみならず、先進諸国においても「女性の貧困化」の現象は深刻であり、この劣悪な経済状況は改善されるべきなのでしょう。このような問題を解決しようとしたときに、「性差」の問題が無視できるとは思えません。
(経済には全く詳しくないので、間違ったことを言っているかもしれません)
バルタン星人様*********************
別スレで「「ポスト・モダン」に至るにはモダンの徹底が必要」と書いたらあっしらさんに、あっさりとかわされてしまいましたが..
大変失礼かもしれませんが「ボーボワール世代」と田中美津、クリステヴァ世代との
パラダイム・チェンジを連想しました。(同居人は後者ですが)この話は長くなるので
とりあえず切ります。 ご容赦ください。
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十分に咀嚼できていないので、適切にコメントできないのですが、「中性」になろうとすることは、結果的に「父の娘」=男性になろうとすることと同じだ、というような転換でしょうか。
長い話になるということなので、もし、お暇がありましたら、ご意見をおきかせください。
無理をなさらないよう。