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(回答先: 「サラエボでゴトーを待ちながら」とアメリカ的正義 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 05 日 00:19:48)
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/594.html
の続きです。
(承前)
ソンタグのインタビューを見ると「それに爆撃でも、それほど多くの犠牲者は出な
かったと思います。」とか言っているわけですねぇ。100人死ぬのは善、10000人
死ねば悪ということなんでしょうか?
「なんだ、全部しょいこんで落とし前をつける覚悟もなかったのか」という意味で
傍で観る者さんがおっしゃっているようにソンタグが「アメリカ的正義の人」で
あることは疑い得ません。しかしこれは簡単に批判できない。
たぶん近親憎悪だと思いますが(苦笑)ヨーロッパの「ポスト・モダン」な知識人は
もっとゆるせない訳です。屁の様な言説をでっち上げた挙句「そらみろ、世の中は複雑で難しい
んだ」とか今でも全く傷つかす涼しい顔をしているわけです。醜態をさらして後者の戒めになった
だけソンタグの方がマシ...というのはあまりに皮肉にすぎるでしょうか。
もちろん「50歩100歩だろう」というのは判ります。そんなに差があるかと言ってもあくまでも
メタファーですから。その50歩の差をどう見るかというところに「近代」という罠がある
わけです。戦前の三木清を初め「善意な人」の屍累々です。私もソンタグ的なアメリカ的正義
という「俗情と結託」することに手を縛るつもりはありません。何でもアリですから、だから
私も屍累々の一塊となる可能性は大いにあるわけです。
ジェンダーの話に少し戻しますと、ナチスは「人倫の基礎」としての「ドイツの家庭」を
掲げてましたから、どんなに戦況が苦しくなっても「家庭婦人」は動員しなかったわけです。
日本ではご承知の様に軍需工場等々に女性を動員しました。しかしこの背景に大政翼賛会に
参加していた市川房江ら青踏社の流れの女権拡張論者が関与していたことは上野千鶴子が
実証的な検討を行っています。「銃後の守り」=前線の兵士の士気が崩れることを恐れて動員を
渋る軍部に対して「嘆願書」まで書いています。(事実、「社会参加」した家庭婦人の「不倫」
三角関係などの問題が噴出したようです。)
さて市川房江は戦争に協力したのか妨害したのか議論は分かれるところですが戦後の市川房江の
「偽善」を告発しようということではありません。(私の同居人は「だから管直人はろくな奴
じゃない」とか言ってますが。ろくな奴じゃない事には同意しますが)
しかし問題はそうした「事実」が消去されていることです。「やむを得ないとはいえ、振り返ると
胸が痛む」でオシマイ。高村逸枝の著作が戦後夫君によって大幅に「改稿」されたことも周知
の事実です。何が言いたいのかというと「思想が変わって改稿するのはいい、でもどう変わった
か判るように、原本を残せ」という「司法取引」をもちかけているわけです。感情的に告発
しても「隠す」だけですから。真摯な自己批判などという「善意に依拠したシステム」は必ず
崩壊すると思っていますし。
ついでに言えば(ついでが多いですが)この逆を行ったのが永井荷風です。荷風は「断腸亭日乗」
に「米国よ、速やかに起つてこの凶暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」等と書いたのですが
憲兵による臨検(文学報国会にも参加しなかった)を恐れて一旦墨で消しますが、そのことを
恥て、記憶を頼りに全てを復元します。しかし荷風は自由になった戦後、出版にあたって上記の
下りを全て削除します。「断腸亭日乗」がオリジナルのまま出版されたら荷風の戦後思想史
的な位置は全く変わっていたかもしれません。しかしそれを察知しあえてその位置から降りた
わけです。荷風は自分の書いたものが「自己満足」に過ぎず「不作為の罪」はまぬがれない
ことを知っていたからでしょう。しかしオリジナルは廃棄されておらず、故磯田光一氏による
考証等で知ることが可能であったわけです。
ソンタグがどう思おうと、その言説の「事実性」は消すことがないわけです。「テキスト」
ですから。問題はその言説が果たした役割が消去され「万事中庸が肝心」という毒にも薬
にもならない、したり顔の超歴史的真理が繰り返し語られることです。いわば「不作為の罪」
は必ず免罪されるわけです。
仏教では「機縁」とか言いますが、「ステーキを食っている人間が、牛を殺すことを
野蛮だと非難することは出来ない」わけで善悪の彼岸を越えたものだと思います。
親鸞の話になるとまた終わらなくなるので止めておきますが、しかし歴史は「言ったか
言わなかったか」「言ったとすれば何を言ったのか」の事実性以外にないわけです。
テキストとして残ればその歴史的文脈を推定したり「脱・構築」も可能なわけです。
誰もが全てを超越した神の視点で世界を見ることが出来ない以上、何かを語ることは
「生き恥」をさらすことになるわけですから。