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「隠喩としての病」 と べてるの家
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/611.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 05 日 19:23:10:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 訂正:スーザン・ソンタグさんでしたね(汗) 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 05 日 13:56:54)

律さん たびたびレス ありがとうございます。

引用が前後しますが

>彼女のお名前で検索してヒットした中では『隠喩としての病』という本に興味を持っています。

ビンゴ!です。ソンタグについては別レスで書きましたが政治的発言より、この文脈で考える
ほうが良いかもしれません。勝手な推測ですが『隠喩としての病』はミッシェル・フーコーの
『狂気の歴史』触発された仕事だと思います。
これを受けて柄谷行人(ソンタグと何回か対談している)が『近代日本文学の起源』の中で
「病という意味」という一章を起こしています。
後述しますが病の「意味」を変えようとするのが「べてるの家」の試みでもあるわけです。

>ただ、親子というのもまた、(すべてではなくとも)解体・変容していく関係であろうと
>思っています。当然ながら、夫婦も。だからあんまり「家族」ということを実体のように
>簡単にはいえないのです。

子どもは「他者」ではありませんが「他者性」を持っています。
私の同居人は田舎の比較的大きな農家で育ったのですが、何歳くらいかは判りませんが
「自分が世界の中心ではない、自分の両親は『世界の王、王妃』ではないことに気づいて世界
が崩落するような喪失感を感じた」と言っています。
子どもも社会という道を通って「他者」と出会って啓示を受けたり、断念したりしているのだ
と思います。その過程を親は子どもと同じ視点でトレースすることは出来ません。かつて
は「この私」の切実な問題だったはずなのに、なぜ思い出すことができないのか.....


>ベテルの家については、詳しくはありませんが、ちょっとだけ知る機会がありました。
>事情をよく知る人の話すところによると、主導者になった人の考え方、お人柄によると
>ころもかなり大きく、また浦河のような地域でないと難しいところもあったのでは、などと
>聞きました。このような成功例から学ぶことは多いのだろうと思います。

べてるの「講演会」に参加したことがありますが、林園子さんという分裂症(総合失調症)の
患者さんがいます。彼女は自分の幻聴をキャラクター化して「クドウクドキ君」
と命名して対自化するわけです。(クドウクドキ君グッズも商品開発されたようです。)
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2541dir/n2541_02.htm

彼女が「最近は「丁寧に何度もお願いする」ことによって,クドウクドキも帰ってくれるよう
になってきました。」ということに驚嘆したのです。
柄谷行人が昔「現代思想」に「スピノザの無限」という題で書いていましたが
「スピノザの考えでは、情念の原因を知るということを目指すとしても、完全にそれを知ることは
出来ないし、しかも原因を知ればその情念を超えられる、というわけでもない。ただ、原因を知ろう
としているあいだは、情念から自由である。つまり人間は身体という自然を超えるような自由意志
はないのだ」とすれば彼女の生き方はまさに「スピノザ的」であるわけです。


>わたしも理解は浅い者ながら、そのような印象を持っています。アホながら、一体どうするん
>だろう??という素朴な疑問があったのです。

中上健二という作家がいました。今年が13回忌になりますが。中上は「小説でドイツ・イデオロギー
を書く」と言って『枯木灘』という本を書きましたが『紀州 木の国、根の国物語』という
ルポルタージュでこう書いています。
「寺社に詣でる人が神仏を信じているわけではない。もし神仏などというものがあるなら自分の
ような悲惨な境遇があるわけがない、という『知恵』を(現実と折り合うために)なだめにくるのだ。」
つまり「宗教は幻想だ」などと言ったところで消えるわけではない。それどころか民衆は
無知蒙昧だが自分ひとりは覚醒しているという別の宗教になるのがオチだということです。
誤解されていますが「宗教は阿片」というのは18世紀啓蒙思想がオリジナルです。マルクスは
「宗教批判は現実の批判へと向かわなければならない」と言っていますが上記の文脈です。

しかしこれは一種の循環論法です。世の中が変われば人の心は変わる。しかし世の中が変わるために
は人のこころが変わらなければならないわけです。
岩井克人という「経済学者」が「関係の論理と生成の論理の間にはすさまじい断絶がある」と書いて
います。どういうことかと言うと、「社会なり経済を関係と捉えて記述することは難しいことでは
ない、しかしそれがどういう現象形態をとるのかを記述することは困難である」ということです。
以前宮台信司氏の某講演会で生質問をしました。「宮台さんはウェーバーを引いて『心情倫理』
でなく『結果責任』と言うけど『結果責任』を取るためには行為と結果の因果関係を定量的に評価
する必要があるが、社会学にそういうフレームワークはあるのか?」
お答えは「そんなものはない」ということです。はっきり言ってバカみたいな愚問でした。

余計わからなくなったかもしれませんが「この生きられる世界にある生の矛盾」は言葉は良くあり
ませんが「主体」とか「能動性」でしか突破できないわけです。
つまり岩井は「現実が循環しているのだから理論が循環するのは当たり前だろう」と言う訳です。
「完結した理論なんか全部ウソッコだ」ということです。つまり理論的に完結するためには
能動性とか主体を全部ぬいてしまえばいいわけです。「経済学者」のくせにこんなこと言っている
から別スレであっしらさんに怒られてしまうわけですが、この件については別スレであっしらさんに
きちんとお答えしたいと思っています。

はぐらかしたようですが「真理をつかんだものが勝者になる」という宗教をまず捨てなければならない
というのが当面の結論です。上記のスピノザではありませんが「結論が出ないという結論」が
判っていてもあえて語らざるを得ない「過剰」を抱えているわけです。しかしそのなかで何か
線が引けるかもしれない。きれい事に過ぎるとは思いますが、そこに「実践」と「理論」とか
を超えたアクチュアリティーを考えたいということです。

律さんのご意見等あればレスするつもりですが、この流れのスレッドについては、よろしければ
一旦収束させたいと考えております。長々書いておいて勝手なことを言って申し訳ありません。

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