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(回答先: Re: 家族と国家とフェミニズム(つづき) 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 03 日 10:00:04)
律さん 不躾なレスにフォローいただきありがとうございます。
引用が前後しますが
>十分に咀嚼できていないので、適切にコメントできないのですが、「中性」になろうとすることは、
>結果的に「父の娘」=男性になろうとすることと同じだ、というような転換でしょうか。
あれで咀嚼しろというほうが無理なのでお詫びしますが、大意は汲んでいただけたかと。
ほとんど柄谷行人モードになりますが、しゃらくさい言い方ですが「日本的言説空間」では「近代の不徹底」
という問題があって、かならず話が二重底三重底にならざるを得ない。特にジェンダーについてそれが顕著
になるというのは岩井克人的に言えば女性性が「内なる遠隔地」であり、「遅れてきた近代人」(上野千鶴子)
だからです。ボーボワールのような「第一世代」は近代的主体を信じていたし、近代を徹底すれば女は解放され
る、究極はテクノロジーに依存した「子宮からの解放」です。ようは男と同じになれば良いということです。
実際いまでもある意味で近代は必要で、イラク反戦運動に参加する女性でも「いのちを育む女性のやさしさは
戦争を認めない」とか言うわけです。それはそれで立派なことですが、おとこ=ますらおぶり おんな=たおや
めぶり というジェンダーに全く無批判です。田中美津らの「リブ世代」は「なんで女だけが、やさしくしなく
てはいけないのか」と思うから、そうした「俗情に結託した」言説にはとても乗れないし、「第一世代」が
男性中心主義を裏返した「危険思想」だということも判ってしまった、「近代」を要求するけれど「近代」を
批判しなくてはならない一人二役を演じなくてはならない「立場ならぬ立場」に立たなければならなくなったと
思います。一意性に還元できない立場であることは重々承知の上なのに、外から「一刀両断」されたらかなり
「ムカツク」だろうなとは推定します。「理解できる」などとは決して言いませんが(笑)
政治化して言えば植民地の共産党が「民族独立」というようなものです。周りは買弁階級ばかりで打倒しよう
にもまともなブルジョワジーがいないのですから。ですからジェンダーはいわゆる「ポスト・コロニアル」
なフレームと必ず重なりあって語られてきたともいえます。
たとえばチョン・ヨンヘさんという韓国民主化運動の活動家であった女性が「男の活動家は集会やデモが終わる
と集団でキーセンの買春に出かけた、自分はそのことに物凄く傷つけられたが「大義」の為だと思って見て見ない
振りをしていた」と書いていました。「運動を分裂させる、弱める主張」は慎むべしという抑制が働くわけです。
桐野夏生の「ダーク」で光州蜂起について触れていましたが軍隊が学生活動家を教室という公衆の面前で
拉致して、勝手に殺して山の中に埋めてしまうような状況があり、まず軍事政権をなんとかしなければ
フェミニズムもなにもないという「例外状況」が背景にあったわけです。
特に韓国で言えば「戸籍法」の問題は、ねじれまくっていますから臨機応変というかフットワークで考えていく
しかない。
70年代のアメリカで、にいわゆる「第一世代」のWASPの女権拡張論者の知識人女性がリブの女性たちから
吊るし上げられ顔面蒼白になったわけです。「あんたは公民権運動に対してなにをしてたのか」「男から勝ち
取った諸権利のリソースは第3世界から盗んだものだろう」ということです。被差別者がある位相では差別者に
なりうる。人間は「関係の束」だから一意性に還元不能なわけです。
笑うに笑えない冗談ですが「女性でレズビアンでマイノリティでかつカラード(有色)が最強」の立場に
なってしまった。どこからも批判できないわけですから。しかしこれって「支配−被支配構造」をヘーゲル
左派的にひっくり返しただけで構造自体はまったく変わっていない、「言説」と言えば聞こえは良いが波及力
は全くないわけです。アメリカには本物の「知識人」はいるけど、スーザン・ソンタグを知っている人間なんか
一握りしかいません。(その中の一人がにヘンリー・キッシンジャーですが)
ですからそういう「垂直概念」を一旦バラバラにして水平に広げて、そのなかにあらためて「差異」を
発見していこうとしか言えないと思っています。
>だからこそ、「家族」をあまりにも「実体視」するのは危険ではないかと思ってしまったりしているのです
>けれどもねえ。
アホどころか逆に判りやすく整理していただいて恐縮です。
「この私」で言えば10歳?ぐらいで子どもとの「濃密な関係」は終わった、あるいは終わったという断念
のもとで新しい関係を考えるしかなくなった、と考えます。親から子どもへは「一方的な贈与」です
が、私は幸いにしてある期間「濃密な関係」を持ちえた、そのことで「返礼」された、互酬が成立した
と思っています。あとは「余剰」を噛み締めていくしかない。(笑)
子どもも「関係の束」ですから強弱ではなく親とのフェイズ(位相)が変化したのだと思います。
当然、子育てが一段落すると同居人同士で「この人いったいなんだろう」という話になるわけです。
まぁ、私は既に情報としてフロイトを知っていて「無意識」に話を構成しているかもしれないので
この辺で止めますけど、あっという間に通り過ぎてしまう「濃密な時間」をそれと気づかずに「返礼」
を受けなかったとすると、かなり辛いものがあるように思います。
>共同体の重なり合いの中に一人の人間は存在しているので、内・外、中間などの枠が意味をなさない
>ということでしょうか。厳密にはそうでしょうね。
逆に「外とはなにか」と考えてみるとはっきりするかもしれません。
ウチの町内会では定期的に周辺道路や公園の清掃を全世帯でやるわけですが(誰がいつ決めたかも
不明ですがとにかく共同体のルールですから)、終わった後に冷たい飲み物を頂きながら世間話
しますが今回は、参加者の一人が草取り中に車と接触しそうになりました。「見張りが必要」
から「事故があったときの責任」とか「保険」「業者に頼んで金で解決」とか雲行きが怪しく
なってきました。つまり「車」というのは「利害の一致しない入れ替え不能な赤の他人」な
わけで、そこには贈与ではなく「契約」という概念が必要になります。契約というと実務的、打算的
と錯視しますが、ようは「おれは約束をまもるが、相手も守るだろう」という根拠のない思い込み
です。「理念」といってもいい。よく「そんなの理念で現実的じゃない」とかいう人がいますが
柄谷の口真似をすれば「おっしゃるとおりです。それがどうかしましたか」です。
内部というものがあったとしても、それと関係なく外部はあり、文字とおり車という「交通」
によって侵食され変容するものと思っています。
ダジャレの上塗りですが「道」とはまさに「他者が往来するところ」ですから。
>ただ、人が強力な活動力を発揮する場合、「内集団」所属の観念を持って行動する場合が多いですよね。
>あっしら様にいわせれば、そのような「実体視」が危険だ、問題だ、というのだろうけれども、そうだとしたら、
>思わずそう思ってしまう人をどうしたらよいというのか。
「みんなが同じように考えれば世の中は良くなるのに」という言説にはその「考え」の中身以前に生理的恐怖
を覚えます。こうした考えは「世の中が悪いのは不心得者(不信心者)がいるからだ、説得してもだめなら
よそに行って(消えて)もらおう」と同義だからです。
カール・シュミットではありませんが例外状況において本質が露呈するとすれば国民国家はまず「外」に対して
国家であり、内部に対して等質性を要求します。はじめに等質性ありきではないわけです。
別スレで「社会も共同体」として「集合」で説明しようとしましたが、社会は無数に分節された共同体と
共同体の加算でもそれらの要約でもありません。その「あいだ」にあるもの「道」の様なものと思って
います。非常に雑駁ですが「道」が途絶え共同体が自閉したときに内部に対する「同調圧力」が生まれ
「差異」が「差別」になると思っています。
>性差に基づいて編成されている社会的な関係構造(性差に直接関係ない「支配−被支配関係構造」と
>いってもいいですが)をほっておいて、表面だけ変えても状態は何も変わらないということですよね。
>(そのことを言いたかったんだけどなんか叱られてしまった)
私の勘違いならよいのですが「叱った」と思われたならお詫びいたします。上野千鶴子は「逃げろ」と
言っていますし。
シカゴ大学のフリードマン直系の自由主義者は「社会福祉など止めてしまえ」と言っています。ようは
「アメリカに生まれたというだけで、なんのコントリブもなしに特権を享受するのは不合理だ」という
ことです。これだけだと日本のバカな「規制緩和論者」が喜ぶだけですが、「じゃあ税金払わない」と
言われたらひとたまりもありません。これから先は宮台信司先生の「口寄せ」になりますが、欧米では
納税時にその一部をNGOに寄付することが出来る自由裁量が認められているそうです。要は納税者のニーズ
を直接吸い上げようということでしょう。
たとえば納税後何割かを還付して(個人消費に当てるのではなく)DV被害者や自閉症児の家庭のケアを
行っているNGOに寄付するなり、協同組合方式にして出資するなりします。全国レベル展開も可能かも
しれませんが、まず「ある程度顔の見える」地域レベルが基本になるでしょう。スキルを磨いて自分で
立ち上げても良いわけです。当然全くニーズのない活動、立ち上げ当初や信頼に足る活動をしなければ金
は集まりません。いままでみたいに特にサラリーマンは天引きされてどこに消えたかわからないけど、
とにかく政府におまかせ、権利だけ頂戴とはいかないわけです。何に、あるいはどこに寄付(出資)
するか少なくとも一年に一回は真剣に考えるわけですし、身銭を切ったところへのシンパシーや
少なくとも関心は維持しているはずです。当然寄付(出資)したことで発言権(議決権)を行使
できるようにしますし、活動内容は透明性を要求されますが、きれい事ではすまない問題も生じるはず
です。たとえば物凄く困っているが金がない依頼者には本人か身内に「体で払ってもらう」=労働の
提供ですね。では身寄りのない老人の様に金も労働力も提供できない人はどうするかとか...
まぁこう書いても「思いつき」に過ぎないわけで、座っていて実現するわけでもありません。言うまで
もなく。しかしこういうことを考えるのは「楽しい」ですよね。あっしらさんのおっしゃる「補助線」
ではありませんが、逆に問題が見えてくることもあります。これを実行しようとしたら今のレベルの
「地方分権」や官僚機構をバラバラにするくらいのエネルギーが要るかもしれません。
そこまで行かなくても「べテルの家」のようなアプローチは可能なわけですが。
http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4260332104/ref=lm_lb_4/250-7659981-9267457#product-details
あっしらさんの「経済的改善」について他人の私が推測するのは僭越至極ですが、「宗教ももちろん
もろもろを含み込んだ意味での、何か非常に深い思想の力が必要」(by 網野善彦)であろうと
勝手に思っています。
地元のオンブズの方に資料を見せていただいたのですが、地方時自体は、税収が減ってハコモノ行政
への批判があるにもかかわらず「ナントカ改良事業」「ホニャらら地盤改良」とかなんのニーズが
あって、いつ初めていつ終わるかサッパリ判らない土木工事に膨大な予算を申し送りでつぎ込んで
いるわけです。これが「経済的改善」でさらに勢い付かれたら、たまったものじゃない(笑)
ですから納税者として「DV被害者のケアのために金を使え!」と要求するのは全然おっけーだと
思います。さらに言えば「こういうことをやる(やっている)から金を出せ!」はもっとおっけー
です。
確かに地方議員の4割はゼネコン関連の土建国家で、税金がボスに吸い上げられているわけですが
(力点の置き方ですが)それが雇用を生み出して、消費を支えていることも事実です。一説による
と公務員(と名の付くもの)公益法人等々の職員と家族だけで3000万人と言われています。行政改革
と称して彼らを路頭に放り出しても「国内難民」になるだけで生活(たつき)の道などないわけです。
あっしらさんが共産党を批判しておられましたが一納税者ならともかく政党レベルで「金を使え!」
だけというのはいかがなものか?と思います。
>長い話になるということなので、もし、お暇がありましたら、ご意見をおきかせください。
十分ながくなりましたので このへんで