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2004,05,11, Tuesday
宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜発言録(前半)
この前参加してきた『宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜』の発言録の前半を作成しました。とても参考になると思いますのでご利用ください。
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【発言概要メモ】
仲正
・人質の方たちはまだほとんど語っていない。
・政府に自衛隊を撤退せずに人質を見殺しにするのか、自衛隊を撤退して人質を助けるのか、という二者択一をすべきではない。
・メディアはなぜ人質の家族を出演させて自衛隊撤退という政策的な判断を聞いてしまうのか?家族なら撤退と言うに決まっている。そのように選択肢をなぜ狭めるのか。
・自衛隊撤退しなかったら人質は殺されると主張していた団体ばかり。
・パウエル発言をメディアが持ち上げたのが不可解。よその国人質が解放されて悪く言うわけがない。
・人質の3人を日本政府がやれなかったことをやっている聖人君子のごとき扱いも問題。
・反政府的な活動・言説を行う人は、どこまで政府のやっていることを認めて、どこから反対なのかをはっきりさせなければ支持を得ることすら難しいだろう。
・批判すべきは人質の方々でもその家族でもなく、彼等を変な風に祭り上げてしまっている左翼側の人間。
宮台
・人質の責任を問うとすればどのようなリーズニング(理屈・理由)に基づくのかという基礎的な教養がメディアにも一般の日本人のも欠けている。
・軍隊を送れば当地の自国民のNPO・NGOは大変な危険にさらされる、事実上妨害活動になる、というコストがある。この場合の自己決定・自己責任原則は自国軍を出すことのコスト・デメリットを計算するべき送る側(国民・政府)にあるということは国際的常識。
・NPO・NGOの活動をする人間に対してあるいは個人ジャーナリストの人々に対して、われわれは立場の入替え可能性を想像することができない、そのようなハビトゥス(態度)がない。
・政府とNPO・NGOの関係を考えると、一般的にはパブリック・セクター(公共的な部門)には、成熟社会以降の近代社会では、政府のガバメント・セクターと市民のシビル・セクターがあるのだと考えられている。
・NPO・NGOが自国軍と連絡を取り合い情報やリソースを共有するいうことが普通に存在する。
・日本ではNPO・NGOの人間が自衛隊と情報・リソースの共有をするなどということがありえない非常に貧しい状況。
・理論的処方箋として、NPO税制を敷いて万人がNPO・NGO活動にモティベートされるような状況にしてNPO・NGOがサヨだらけという状況をなくす。
・自己決定・自己責任問題については日本における右と左の観念があまりにも稚拙。
・再分配を肯定するか否定するかということが右・左を分ける。肯定すれば左、否定すれば右。
・日本の場合、左というと赤色旗に一体化する輩らしく、右というと日の丸に一体化する輩らしい。これは目糞鼻糞。
・日本のメディアは驚くべき国辱的ルールをイラクに輸出して適用。
・解放された人質に対して日本メディアには共通感覚を抱けないが、外国人記者たちは共通感覚をいだいていた。外国人記者クラブの人たちから見ればその態度は本当に国辱的。
・政府が何をしていようが、自らの信念で様々な行動をする、違法でない限り(法律で禁止されていない限り)、政府の国策が何であろうが、自らの信念を貫き通すということが、近代国家の市民としての当然のアクティビティであり、まさに近代市民国家で保護されるべき市民・国民の最たる者。
・極右というのは国家の介入を廃し、自らの共同体的自己決定を是認する立場。
・これに対して社会福祉政策が崩壊して以降の、あるいはスターリニズムに敵対するタイプの左翼は基本的には共同体的自己決定を主張。
・極右と極左は国家権力に対して革命件を主張するという点においてもよく似た思想。
・超越的な次元を否定するのが極左、肯定するのが極右。そうすると宮台氏は極右と言う他はない。
仲正
・互換可能性について日本の政府側とNPO・NGO側で利かないというのはその通り。
・宮台さんと政策的立場が違うとすれば、そんなに互換可能性というものを信用していないという点。
・アダム・スミスの共感論に遡れる様に、政策においてはそれは必要だと思う。
・個別の人間が行動するときにそれが行動原理になりうるかというとそれについてはちょっと疑問。
・日本の左翼運動はどうも正義をすべて引き受けなければならないようになっているという論理構成がある。
・個別の問題が起こって住民運動なり市民運動なりで政府がやっていることは反対だと抵抗するときに、どこまで自分が正義を引き受けなければならないのかと考えなければならない。
・不公正だからなんとかしてあげたいと思うのだけど、それを政策の次元に上げるときに今のやり方がダメだから全部やめろというと迷惑する人が必ず出てくる。
宮台
・リベラリズムというのははっきり言えばウソ思想。インチキ思想。
・なにゆえウソ思想かといえば、私が言うまでもなくローティが言っているが、バウンダリー(境界)問題。ローティは「誰が『人間』か問題」と言っている。
・「人間」とは誰か?ということ。これを先験的に答えることができない、事実性を超えることができない。いつも誰が人間なのかは事実性でしかない。
・しかし、だが「しかし」が重要。
・この社会が成り立つために制度が成り立つためにどんなウソが必要なのか考えるのが社会科学者の社会学者の本分・本義。
・アメリカの限界に対処するにアメリカの徹底をもってするほかなく、ウソの限界を突破するにウソの徹底をもってするしかない。
2004,05,13, Thursday
宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜発言録(後半)
この前参加してきた『宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜』の発言録の後半を作成しました。
後半の宮台氏の問題提起に対しての仲正氏の回答には正直感動。僕は仲正氏に関しては彼の著書『不自由論』を読んでいただけだったのだけど、その読後感以上に彼の言説に共感できたように思う。すでに今回語っていたことは2002年の時点から主張されていたようで、自分の不明ぶりを思うばかり。
>> 仲正昌樹さんインタビュー
仲正昌樹さんに聞く(上):大上段から「正義」押しつける左翼な人々
仲正昌樹さんに聞く(下):脱構築的に発想し、実践はプラグマティックに
>> Amazon.co.jp:
・「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 仲正 昌樹
・ポスト・モダンの左旋回 仲正 昌樹
・『人体実験』と患者の人格権 仲正 昌樹 その他
・〈法〉と〈法外なもの〉 仲正 昌樹
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【発言概要メモ】
仲正
・制度論的な部分、全体的には宮台さんとほとんど意見は違わない。違うのは「言い方」。
・私はどうも自分でウソだと思ってることを本当らしく語ることがなかなかできない。
・宮台さんの場合ここからここまでは誤解されてもしょうがないと言い切られている感じだけれど、私はそこのところで何かいちいち言ってしまう。
・私は正義というのはお互いに手の内を出すって事が重要であると思う。
宮台
・みなさん目糞鼻糞なんでたいしたことない、あるいはせいぜい五十歩百歩かってこと。
・みなさんの反応を見ながら戦略を立ててコミュニケーションするというのが僕のやり方。
・ちょっと気に入らないことをすぐ言う、ウソだと思ったら即、言う、というのは私のとる立場ではない。
・話をしたりものを書いたりするということの意味が本当によくわからなくなってきている。
・社会を変えたいとか動かそうと思えば、政治家に会って説得するのが一番早い。
・人間が無謬ではないのは当然だが、私は何もしないほうがよいのだろうか。実存の問題になると制度論などでは全く掬い上げることができない私にはよくわからない問題があふれている。
・日本はなんでこういう風に低い民度で甘んじてしまっているのか。
・最近の同和対策特別措置法の打ち切り問題が頭に浮かぶ。
・日本が成功した社会主義国であるがゆえに自律的相互扶助のインフラがどんどん簒奪されていくという、廃藩置県以降の日本近代化のプロセスの縮図が沖縄や同和地区で起きている。
・沖縄が日本人として完全に均並みに扱われるようになり、琉球人であることが意識されなくなることが我々の目的となりうるのか。いわゆる部落民も律令制下以来おそらく千数百年に及ぶある種の自律的相互扶助の伝統を簒奪されてよいのか。
・日本は70年代前半の田中角栄政権以降、「日本列島改造論」において地域の弱者の自己決定が共同体の共同性を簒奪し解体するように機能するという事態に直面してる。
・彼等の言い方を自己決定という言い方で尊重していいのかどうか。
仲正
・自分が権利を得るということはどこからか他人の権利を潜在的に奪っているという可能性が十分ある。
・実は今はこういう風に配分してこれがあんたの正当な権利だとやっているんだけど、そのときはそれでよかったのかもしれないけれど見方を変えたら時代だとか地域だとか変えたら、それがとんでもない不正になっている可能性がある。
・正義を行うときは一体どの不正に対してどういう正義を行おうとして、そのときにどこから取ってきているのか。
・正義を権利に転化した場合にそれをずっと制度的に恒久化するところに問題として出てくる。
・ユダヤやイスラエルの問題では、イスラエルの論理としては、自分たちが常にホロコーストの時点まで遡って考えるんだと思う。
・あのときはあるいは正義であったかもしれないけど、それを恒久化することにおいて抑圧が生じてきたので、今はそれをもう一回見直さないといけないということが生じている。
・これまでは見直すべきサイクルが長かったんだと思う。いったんこっちのほうが私は正義だと思うっていう風に決定した人が生きている間はそんなに変更する必要はなかったんだと思う。
・社会の変化がすごく早くなると見直すべき期間がすごく早くなって、20年前言ったことと違うことを、20年前は私はこう言ったけれど今の段階で見ると抑圧になってると言わないといけないかもしれない。
・プラグマティズムで発想するとはそういう意味。
・ドイツの戦後補償問題でヴァイツゼッカー元大統領が40年記念の演説の中で、ドイツ民族が過去の結果に対して集合的責任を負っているわけではないと、ただし自分たちには過去の帰結に対して責任があるという言い方をしている。
・ドイツの民族は個人に集団的罪というのはありえないし、それは法的に追求するべきものではない。ただしドイツという国家が出来上がったその成り立ちの帰結というものを享受しているのでそのことに対しては責任があるという言い方をしている。
・各場面ごとにおける自分の立つべき正義とそれに対して受けるべき責任というものを限定することによって話を拡散しないように、その場その場での自分なりの正義の基準と言うものを見つけていくしかない。
宮台
・「脱構築」もプラグマティズムも私にとってはそういう思考の源泉はイエス。
・戒律に従える人間は暇人、はじめから救われた人間だけ。とすれば全能の神ヤーヴェがかかる不合理な契約を継続するはずがなかろうというのがイエスの「新約」というメッセージの意味。
・イエスが示した態度はまさにデリダ的「脱構築」。戒律に従わないのが神に従うことになるのだと。こういうメッセージの意味を十分に理解することができるかどうかというところに、おそらく近代社会を形成する人々の民度というものもあるのだろう。
・人為には限界があるので絶えず機会主義的に線を引き直さなければならないが、どこに線を引くべきなのかは、イエスの生きたユダヤ教社会もそうだったが、流動的な社会になればなるほどどんどん恣意的になっていく。
・その恣意性にも関わらずある種決断主義的に選択をせざるをえない者たちが、どうしても必要としがちなのは「超越」という審級であろうし、ブッシュが夜な夜な聖書を読みたがる気持ちもよくわかる(笑)。
・単に超越を否定するような未通女い振舞いをすると、必ず超越的なものあるいは超越的なものに帰依する者に裏切られるのだということを肝に銘じていただきたい。
仲正
・自分で超越的なものがこういうものだという風に語ることは私は否定的。
・機会主義的に対応してたら何でもありになってしまうじゃないかと考えられるが、そのときにこそ責任と言うものが出てくる。責任という言葉が生きてくる。
・決定するときはそれは唯一の正義だと思っているだろう。そのときは客観性はない。ただそのあと私はこういうのが超越して見えたんだと、そういうことをいう責任はあると思う。
・自分で正義だと思ったことであるならば、自分がどういう基準を選んで、これが自分にとっての超越であったのかと、それを自分で整理できないのであったならば、たとえそのときの動機はどうであれ、もう正義であると主張することはできないと思う。