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(回答先: Re: 本論に入る前に、まずこの問題についてご意見をお聞かせください。 投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 04 日 09:23:23)
乃依様 横レスで申し訳ありません。
>『我が「自己」を、他のすべての「自己」から、区別すること』
>(我思う故に我あり)
>は、いまだに物理学を支える
>哲学の柱なのですが、
これは、バグの一種のような物のように思います。
>(『「思う」のは、私という「実存」だけなのだ、』という哲学(Kogito elgo sum)>は、
>あくまで、(幼年期の未熟な物理学を支えるための便宜的なテーゼに過ぎないのであっ>て、それが現実であるというわけではありません。デカルト自身もそう思っていたで>しょう。)
@私も前に違った形で書き込みを入れましたが、「我思うゆえに我あり」は違った見方をしております。まず一点
>あくまで、(幼年期の未熟な物理学を支えるための便宜的なテーゼに過ぎないのであっ>て、それが現実であるというわけではありません。デカルト自身もそう思っていたで>しょう。)
ここでとんでもない間違いをしております(幼年期の未熟な物理学を支えるための便宜的なテーゼ)
この部分です
私の考えでは、地球上に人間が存在する限りこの言葉は永遠につながっていくと考えています。
@を入れた見解。人は生まれたときから死ぬときまで自己のおかれた社会から知識を受け取ります。知識以外のことでは、自己が経験したことを通して知識イコール認識となります。つまり本当の自己が知っているものそれは見る・聞く・触る等の現実に遭遇した社会から得たもので、後は本で読んだ知識であり、親から聞いた知識・学校教育で得た知識であり。それらの知識を通して得た経験であるとき。自己とはいったいなんだろうという疑問が出てきます。ただ疑問を感じない人も数多くいますが。
そのとき自身が持っていた自身のものであると思っていたものが、他人から得たもので
あり、他人の知識だという気づき、そこからすべてを疑うというデカルトの懐疑論が出てくるわけです。
つまり「私は何を知りえよう」何も知らないということの気づき、それが哲学の出発点に当たるわけです。そして疑うことが出来ないものが一つあります。それが「我思うゆえに我存在す」という私が考えていること、内容は疑えたとしても、考えていること、思うことは疑うことが出来ない。ということになります。
このことから物理学の初歩ではないといえます。人間がこの地球上に存在する限りいつでも人間に問いかけているものだといえます。