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(回答先: 大きな物語も小さな物語も終わった 大上段から「正義」押しつける左翼な人々 投稿者 Q太郎 日時 2004 年 6 月 02 日 18:13:39)
本質主義的思考はやめよう
脱構築的に発想し、実践はプラグマティックに
金沢大学助教授 仲正昌樹さんに聞く(下)
2002-7-25
マイノリティ、望んでなったわけじゃない
アイデンティティ・ポリティクスの問題
「一般の人に教える」という傲慢
革命から暫定的改良へ
(上) 左転回はじめたポスト・モダニスト
救世主に立候補した柄谷行人
マイノリティを代弁するという欺瞞
仲正昌樹さん
マイノリティ、望んでなったわけじゃない
――大きな物語、小さな物語といった問題は、欧米にも存在する問題なのですか。
★欧米でも、だいたい同じような傾向になっているようですね。ただし日本と違うのは、昨年と今年アソシエ21で招いたドゥルシラ・コーネルやナンシー・フレイザーといった小さな物語を批判する研究者がいて、ある程度支持を受けているところです。
日本では、大きな物語(既成マルクス主義)が崩壊した後、なんか雰囲気でみんな小さな物語に行ってしまった。その小さな物語をやっている人間を、こんどはどっかの大きな左翼が利用しようとする。
日本の爺さん左翼は、小さな物語をやっている連中をわりと好む傾向があるんですよ。理由ははっきりしています。例えば宇野経済学の人間は、マイノリティ問題をやっている人間なんかと話が合うわけがありません。でも、マイノリティの問題をやっている人は経済のことなんかわからないから、一番肝心なところに文句はつけてこないと思っているわけ。それで補完勢力と見なせるらしい(笑)。
大きな物語と小さな物語の人々が共存し、妙に癒着しているところが、なんとも日本的だと思いますね。欧米の左翼は、文化系と経済系、小さな物語と大きな物語の両陣営に分かれて論争しているのに。
――論争の中身はどんなものなんですか。
★小さな物語批判の論客の一人で、先ほども名前を挙げたドゥルシラ・コーネルは、イマジナリーな領域に対する権利という話をしていました。「イマジナリーな領域に対する権利」という言い方をすると、従来の左翼的な発想をする人は現実に苦しんでいる人がいるとかとすぐに言いたがる。でも、そんなことは百も承知で言っているのです。
イマジナリーな領域とはどういう概念か。そもそも権利概念というのは、マルクス主義も含めてカント以来全て権利主体は自分がどうしてほしいのか分かっているという前提で議論してきました。コーネルは、それがまずだめだと言う。
マイノリティ運動をやる人は、マイノリティとしての自覚を持つべきだという言い方をします。部落に生まれたら部落民としての自覚を持つべきだとか、在日の人は在日の自覚を持つべきだとか。しかしどんなマイノリティ問題でも、必ずしも本人がそのマイノリティを選んだわけではありません。それなのに、いや、お前はこのマイノリティのはずなんだと言われてしまうと、その人はマイノリティのなかで、さらにはずれることになってしまう。
どういうアイデンティティを持つかはその人が自分で決めることです。普通の日本人になりきりたいと思っている人もいるかもしれない。そう思っているのに、横からいやあなたは日本社会に毒されているだけだなんて言うのは、本当に大きなお世話なんです。
私たちが訳した『自由のハートで』でドゥルシラ・コーネルが例としているのは、売春をやっている有色人種の女性の話です。その女性は、麻薬中毒でもあるのですが、自分ではそういう生活を辞めたいと思っている。でも辞められない。彼女は子どもの頃、お母さんがシングル・マザーで、おじいさんと同居していた。ところが、そのおじいさんに近親相姦を強要されていた。嫌だったんだけれども、その時おじいさんは、必ずあめ玉をくれた。それが快感で、自分のアイデンティティのパターンになってしまったというんです。思い出すと自分がこういう生活をしているのは、それを引っ張っているんだろうという。
この女性のケースでは非常に顕著なのですが、たいていの人間はそういうネガティブ・アイデンティティを持っています。自分では何かはっきり分からないのだけれども、どっかで歪んだ何か≠ェ自分の中に入ってしまったように感じる。でもだからといって本来の自分というのは、どういう状態なんだと言われると、それは分からない。
この女性にいきなり、売春辞めさせてまともな生活をさせてやる。だから、お前は本当はどうしたいんだ? と聞いても、おそらく答えられないでしょう。もちろんどうにかしてあげたいと考えることは必要なんです。けれどもその時あなたはどういう人だ? 自分で決めろとやるのは全然だめですね。むしろ、自分がどういう存在に本来なりたいのかをもう一度自己再想像していくために、そこを権利の領域として考えるべきだとドゥルシラ・コーネルは言うのです。
自分がどういう人間になりたいのか、理想像を完全に持ちきっていない人間に対して、もう一度、選択の余地を与え直すということです。当然、赤ん坊には戻れないし、他人にはどうにもできないこともある。けれども、社会的制度上の障害を取り除くことによって、ある程度もう一度自己再想像=リイマジネーションすることが可能な領域というものもある。それがイマジナリーな領域に対する権利という考え方です。
ドゥルシラ・コーネル自身は、自分はカント的自由主義者だと言っています。カント的自由主義にいくための前段階として、イマジナリーな領域に対する権利が必要だと主張するのです。
アイデンティティ・ポリティクスの限界
★今年のアソシエ21の総会で講演したナンシー・フレイザーも、ほぼ同じ問題を考えていました。最近の傾向だと、大きい物語=再配分の話と、小さな物語=承認の話は両立不可能である、あるいは両立不可能とまではいかなくとも、相互に独立しているかのように語られることが多い。けれども彼女は、そうではなかろうと主張します。
フレイザーは、アイデンティティ問題が問題をややこしくしている。だからそれをステータス、つまり地位の問題に置き換えた方がいいと提案します。アイデンティティというものがその人の本性になってしまうと、社会的な制度のなかでこういう本性を持っている人にはこういう価値があるとパターン化されてしまう。それを変えることの方が大事だと言うのです。
フレイザーが例として言っていたのは、フェミニズムでよく問題になる性器切除の問題です。アフリカやイスラム圏では女性の性器切除が行われてきました。普通フェミニズムはそれを女性に対する人権の侵害だと反対します。ところが反対運動が効果を発揮するようになると、今度は結婚できない女性が増えてしまう。普通のフェミニストは、そうした逆の影響までは考えていない。あるいは、社会福祉制度で、シングルマザーに対して公的扶助を行うと、あれはダメな女だとレッテル貼りされて、シングルマザーに対する社会的差別はかえって高まってしまうという現象も見られる。
アイデンティティという言い方をすると、とにかくその人間の個性・集団的属性を認めればいいんだろうという話になりがちです。それよりもむしろ社会的な地位=ステータスがどのように文化的にコード化されているのか、あくまでも文化的コードによるパターン化の問題として論ずるべきだというのです。アイデンティティの問題として論じられてしまうから、経済の問題と折り合いがつかなくなってしまう。
ナンシー・フレイザーとドゥルシラ・コーネルの両者に共通しているのは、アイデンティティ・ポリティクスはもう限界にきているという観点です。つまり、人間の本性をいったん規定した上で、こういう本性の人には、こういうことがためになるんだというかたちで政治を展開するのは無理がある。
私もそれを問題にしたい。小さい物語ばかりやっている人たちというのは、結局のところこの人たちはこういう人たちなんだから、こういうふうに扱ってやらなきゃだめじゃないかという態度を取る。だがそうした言説こそが、かえって人々を不自由にしているのではないか。
「一般の人に教える」という傲慢
★私に言わせれば、大きな物語の人も小さな物語の人も、どっちも自分は絶対的な社会正義を握っている、お前らは何も分かっていないんだと考えている。左翼啓蒙主義的で、押しつけがましい。小さい物語の方は左翼啓蒙主義ではないことになっていたのですが、今ではむしろ、小さい物語を押しつける左翼啓蒙主義がはびこっている。
小さな物語は、アイデンティティ・ポリティクス的な面と、自分たちがマイノリティを代弁しているという特権的な態度を捨てなければ、もうどうしようもないでしょうね。そういうことを誰かが言わなければならない。
ある学会の席上で、70歳を過ぎたおばあちゃんの学者さんが、私たち知識人は一般の人たちに現実を教えてあげる使命があるんですと発言したのを耳にしたことがあるのですが、いい加減にせいと心底思いましたね。
学会でアフガニスタンでの戦争に反対する声明を出さなければならないという研究者もいた。まあ別に戦争反対の声明くらい、みんなが合意すれば出してもいいのだろうけれど、どうして学会の名前で出さにゃいかんのか! 別に『SENKI』がそういう声明を出したって全然かまわないと思いますよ。そもそも反戦平和を掲げる団体なんだから。アソシエ21も半分くらいそういう団体だから、会員のみんなが同意すれば戦争反対の声明を出してもいいと思う。
けれども、何で学会の名前で声明を出すことにそんなにこだわるのか理解できない。そんなに左翼運動をやりたいのなら、学会の名前なんか別に出す必要はないじゃないですか。もちろんアフガニスタン問題の専門家だったら話は別ですよ。あるいはイスラム学会だとか、一般の人が知りようがない現実を専門家が明らかにするというんだったら、別にいいんです。
ところが、そうじゃない。何で経済史だの社会思想史だのを研究している人間が、イスラムのことなんてほとんど考えたこともない人間ばっかりなのに、こんなときだけ声明を出さなければいけないのか。それこそ一般の人に教えるような立場なんかじゃ全然ないわけです。
革命から暫定的改良へ
――では現実を批判する実践はどういった形で可能なのでしょうか。
★簡単にいうと、哲学、つまり純粋に理論的なレベルでは脱構築的な発想をして、それを応用する時には、プラグマティックにやるしかない。
構造を脱構築し続けていくというのは、確かにやっていけばきりがありません。きりがない話をしていると、気が短くなった人が、何かやれと言い出すわけです。しかし何かやるという話は、脱構築とは別の話です。何かやるときには、暫定的に目標を決めて、プラグマティックにやるべきだ。ただしその場合、暫定的に避けておいた問題は、後でもう一度脱構築しておく必要がある。それを同時並行で進めていくべきというのが僕の考える戦略です。
例えば「従軍慰安婦」の問題だったら、日本政府や日本の支配的な人たちが、元「慰安婦」だった人たちの言っていることを聞いていない。聞く能力がない。それを前提に聞く能力を持とうという運動をする。これは有効だと思います。
だがその一方で、人は人の言うことを本当に聞く能力があるのかという議論も、同時並行的に進めていく必要がある。具体的に聞け、聞けという運動をやっていく一方で、聞く能力というのはそもそもいったい何なんだと考える。同様に、他人の痛みを分かるということはどうなのかと考えてみる。そういう作業が必要だと思うのです。
僕は、この脱構築とプラグマティズム的実践を同時並行的にやるというのは、本来なら高橋哲哉とかがやるべきことだと思っているのです。レヴィナスの他者論などを読むときに、やたらに抽象的なのとやたらと具体的なのがあって、つながらない。脱構築されていく中で新しく見いだしたものを、また具体的な運動の目標の中にフィードバックしていく。これを常に繰り返す。実際にはまだるっこしくて、やりにくいと思いますが、そのやりにくいことをやらざるを得ない。
プラグマティズムの良いところは、最終目標がないところです。最終目標はなくて、出てきた問題に対して常に対処していく。「本質主義的に考えない」のがプラグマティズムです。問題の本質があってそれを解決しないと何もできないという発想はしません。自分が与えられている文脈の中で、当面の問題をできる限りスムーズに解決していける方法を考えればいい。
例えば、「従軍慰安婦」の問題に絞って言うと、日本政府が補償しない法律上の唯一の理由は、大雑把に言って、戦前の「国家無答責の原則」だけと言っていい。現在の国家賠償法は、戦前の国家がやったことに対しては及ばない。あの当時の国家というのは無答責だったはずだと。戦前の国家の責任をいったん認めると、明治時代に国家がやったことも全部賠償しないといけなくなるから、大変なことになる。
なかまさ・まさき
1963年生まれ。1996年東京大学総合文化研究科 地域文化研究専攻博士課程終了。現在、金沢大学法学部助教授。社会思想史・比較文学。著書に『貨幣空間』『〈隠れたる神〉の痕跡』他。