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(回答先: Re: 宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜発言録 投稿者 縄文ビト 日時 2004 年 6 月 03 日 19:31:53)
縄文ビトさん、こんばんは。
>「人間とは何か」の間違いではありませんか。
>人間とは誰か、誰がこんな問いに答えることが出来るんですか。この問いでは「あな
>た」なんですかそれとも「私」なんですかと答える以外、答えがないのではないんで
>すか。文章を引用した以上私の問いに答える必要があります。
>そして「人間とは何か」「人間はいかに生きるべきか」ということでしたら私が答え
>ますが。
Q太郎さんが転載した内容を読めば、「「人間」とは誰か?」であり、「人間とは何か」の間違いではないことは明瞭です。
一箇所だけではなく、「ローティは「誰が『人間』か問題」と言っている」と複数回使われていることや、「いつも誰が人間なのかは事実性でしかない」と意味深なことも書かれています。
縄文ビトさんは、誰かを好きになったとき、「人間」を愛しているのですか?、それともある個人を愛しているのですか?
また、誰かを心底憎く思って殺すとき、「人間」を殺した思うのですか?それともこのゲス野郎を殺したと思うのですか?
一般的にも、人間であるはずのある人に対して、「あんなひどいことをやるなんて、あいつは人間じゃない」といった判断がされることもあります。(あいつはサルだと言われている大統領までいます(笑)サルに失礼ですが)
ある人に対して「あいつは人間じゃない」という判断が有効だとしたら、「人間とは誰か?」という問いも有効であるはずです。
近代では、人権思想に代表されるように、抽象的な概念である「人間」があたかも現実的存在であるかのように取り扱われてしまう傾向があります。
「人間」なるものを安易に持ち出すと、生身の個々の人が消えてしまうとまでは言わないまでも、ぼやけてしまう危険性があります。
「人間とは誰か?」という問いは、ヒューマニズムや人権思想が横溢している現実ではそれなりに意味があると思います。
「文章を引用した以上私の問いに答える必要があります」と言う前に、自分で正否を探る努力をされるべき問題だと思っていますので、失礼なタイトルでレスを付けさせていただきました。
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宮台
・リベラリズムというのははっきり言えばウソ思想。インチキ思想。
・なにゆえウソ思想かといえば、私が言うまでもなくローティが言っているが、バウンダリー(境界)問題。ローティは「誰が『人間』か問題」と言っている。
・「人間」とは誰か?ということ。これを先験的に答えることができない、事実性を超えることができない。いつも誰が人間なのかは事実性でしかない。
・しかし、だが「しかし」が重要。
・この社会が成り立つために制度が成り立つためにどんなウソが必要なのか考えるのが社会科学者の社会学者の本分・本義。
・アメリカの限界に対処するにアメリカの徹底をもってするほかなく、ウソの限界を突破するにウソの徹底をもってするしかない。