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(回答先: Re: 私見 投稿者 2000/12/31 日時 2004 年 4 月 29 日 13:23:27)
2000/12/31さん、こんにちは。(鼻曲がりさんこんにちは、横レス失礼します)
見解を読ませて頂きました。
覚醒に至るまでの経緯を読ませて頂いて、素直に感動し、共感しております。
2000/12/31さんほどに思慮深く、注意深く、強く、自立した人間はなかなか身近には現れません。
言われる通り多くの人は、弱く、迷い、そして真理を自ら体験的に発見することはできずに、どうしても他人に依存して生きて行きたいものです。
それが神であったり、宗教家であったり、思想家であったり、科学者であったり、政治家であったり、メディアであったり、親であったり、友人であったりします。
皆が日常的な仕事(雑務)にとらわれるあまり、人間の真理または物事の善悪を考えるなんてことは面倒臭く、なるべく他人まかせにしておきたいものです。
「神という概念」を「必要悪」と言及できる2000/12/31さんは、すばらしいしことだと思います。
ただ(もちろん2000/12/31さんも考えていらっしゃると思いますが)、神(宗教)にすがる人たちを、弱いものだと見捨て、理解せず、自立せよと言い放つことは、私にはできません。そこに矛盾・苦痛・不安があるなら、私なりに、私の経験した知識を使って積極的に助け舟を出してあげたい。
もちろんそれが、依存症を増強させるものではあってはなりませんし、自立(覚醒)してもらうのが最終的な目標です。
また善悪は普遍的である以上、自分の信念を押し付けるものであってもいけませんし、自分の信念が全て正しいとも思ってはいません。常に共に成長(覚醒)あるのみです。
私も、気付きのチャンスを分けてもらいたいし、分けてあげたい。
2000/12/31さんや、白亜さんや、鼻曲りさんがいま話し合っている、善悪の問題や、特に
死の問題は、ものすごく重要な問題で、ぜひとも多くの方(特に何かに依存されていると思われる方)に読んで、そしてそこから共に真理を導き出して行きたいと私は考えています。
白亜さんが「(死というものについて)人はその恐怖に耐えられなくなり・・・」と書いておられました。
人は生まれて、そして死んでいく。
死ぬということが、(痛みを伴うから)恐怖であると断定することにより、その不安から逃げ、誰かにすがり、依存症になり、そして、より一層その対象(依存相手)を大きくして行く結果となっています。
死というものは、人間にわかるはずはない、非科学的だ、負の意識だと言って心を閉ざしてしまって、逃げているのが現状です。
逃げる必要はないのではないでしょうか。
生があって、はじめて生きることができるし、死があってはじめて生を楽しむこともできる。
死を見つめ、把握し、議論し、共に真理に近づくことが人生にとって最も有意義なことだと私は思っています。