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(回答先: Re: 死について 投稿者 調和人 日時 2004 年 5 月 01 日 10:20:14)
私は「愛」論を言う方は宗教家と見なしております。私にとってはジョンレノンも宗教家なのです。
宗教と哲学・・・結局自然という真理において、両者の言っていることは同じだと思います。手法の違いです。あなたの「愛」=私の「理性」と同じ事です。なのに名称がちがう・・。
ではその前に、私とあなたの意見は何が違うか?
あなたは「愛が地球を救う」として人々に「覚醒」できるとし、私は完全な「覚醒」や全ての人が「覚醒」することは難しい(事実上できない)としているからです。
では何故意見が割れたのか?
1.あなたは、過ちを犯さないことも、子供を愛することも「愛」(知能)と定義し、私は前者は「理性」(知能)、後者は「本能」と定義している。
2.あなたは、必要最低限の欲求を「本能」、それ以上の欲求を「悪」(知能)と定義し、私は前者を「本能」(あなたと同じ)、後者は人間が高い「知能」ゆえ身につけた「特化した本能」と定義しています。
つまり、あなたは「愛」も「悪」も同じ知能に存在するのだから、「愛」を強く意識することによって「悪」を抑えることができるとし、
私は「特化した本能」は、知能だが本能(自然の摂理)でもあるため、状況下においては「理性(あなたのいう愛)」のみで抑えつけるのは難しい・・・ということではないでしょうか?
そして私は「特化した本能」を、
人間は食物が効率良く生産できるように、知能にて農耕や養殖を確立し、蓄えることを身につけ(リスも冬に備え蓄えますよね?動物にも知能がありますから)、他から奪うこと(ライオンもハイエナから餌を奪いますよね?)を覚え、物物交換によって経済を生み出したのです。そしてそれらが高い知能ゆえエスカレートしていっただけのことなのです。つまりこれらは皆生存するための高い知能が生み出した特化した本能「より強い生存欲」なのだ、と定義していますが如何ですか?
例をあげると、夫から時折暴力を受ける婦人がついには殺人を犯してしまう・・・
婦人は生存していたはずです。しかしそこから開放されたい婦人は、夫の悪行を超える悪行を犯してしまったのではないでしょうか?
生存はしていたが、「より強い生存欲」を発揮しそれを実行に移したのではないでしょうか?
そして全てのその様な環境にいる婦人達(世界中にごまんといる)が夫達に対し「愛」を持ち続けることができると断言できますか?
確かにこの様な環境でも生涯を嫁いそげる夫婦はいたでしょう。しかしそれは婦人が実行に移すだけの実力がなかった、あるいはそこまでの強い意思が無かっただけで、決してその様な環境を喜んではいなかったはずです(「より強い生存欲」により)。
ただし、それでも何とか夫を変えたい〈変わって欲しい)とひたすら耐えた婦人もいるでしょうそれがあなたのいう「愛」ですよね?
しかしそれは自分の環境を改善したい「より強い生存欲」も潜んでいることが解っていただけたでしょうか?
そして環境の度合い{暴力を受ける度合い)や、その人の意思の強さなど状況如何によっては、「愛(理性=知能)」で「より強い生存欲(特化した本能=知能と本能の融合体)」を抑えつけるのは難しい(可能でもないし不可能でも無いゆえに全てが可能ではない)という私の論理になります。
全てが可能ではないという論拠は、今までの話とは全く関係無い別の次元(数学や物理など)の話なのですが、たぶんここが一番の争点なので。
可能だ不可能だと言う言葉は、その言葉の特性上どちらかの選択を余儀なくされます。
しかし可能でもない不可能でもないと言う言葉は融合であり、不可能の可能性がある限り全ての可能は不可能、また可能の可能性がある限り全ての不可能は不可能(つまり全部の可能と全部の不可能はない、一部の可能と一部の不可能はある)と今は説明させて下さい。AND・OR・XORの話です。逆にいえば全部の可能と全部の不可能は相容れないでしょう?
>>全ての人が「覚醒」できないとなぜいえますか?
人は「覚醒」できるかもしれないし「覚醒」できないかもしれない・・・
「覚醒」できない可能性がある限り、全ての人が「覚醒」することはありえない
「覚醒」できる可能性がある限り、全ての人が「覚醒」しないことはありえない
つまり全ての人が「覚醒」することを否定していても、全ての人が「覚醒」する、とはならないでしょう?
全ての人が「覚醒」するには、!!!可能性!!!ではだめだということです。
可能性ではなく「出来る」と断定すると、覚醒「出来る」人しかいないということになります(出来ると出来ないは相容れないため、出来るを選択した場合)。
今現在「覚醒」してない人がいるじゃありませんか。
その人が将来覚醒「出来る」などという断定は、将来・・・が既に「可能性」だということです。
言葉遊びのように思われるかもしれないですが、れっきとした「数学」で解明できるのです。
しかしそれでは悲しいではありませんか?また私のように開き直る人間もでてきますよね?
そこで宗教は、全ての人が「覚醒」できないことを知りつつ、出来る、と説いているのでは?と私は推測しています。
ゆえに私の見解では全ての人の「覚醒」を説くもの=宗教者になるといった論拠です。
私はあなた個人が、全ての人が「覚醒」出来ることを信じることを否定するものではありません。未来があるじゃないですか!しかしあなたが「覚醒」することを全ての人に求め出したとき、失礼ながらあなたを宗教者と表現してしましました。謝罪いたします。
死についての反論は、PCが復旧した後に〈多分)なることを併せて御容赦下さい。