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(回答先: Re: 私見 投稿者 調和人 日時 2004 年 4 月 29 日 16:20:14)
調和人さんレスありがとうございます
> 死というものは、人間にわかるはずはない、非科学的だ、負の意識だと言って心を閉ざしてしまって、逃げているのが現状です。
逃げる必要はないのではないでしょうか。
生があって、はじめて生きることができるし、死があってはじめて生を楽しむこともできる。
死を見つめ、把握し、議論し、共に真理に近づくことが人生にとって最も有意義なことだと私は思っています。
まさに書かれたことはそのとおりだと思います。《自分が死ぬと分かったとき》人はどのような行動を取るでしょうか。人によっては絶望から逆に死を選んでしまうという不条理の行動をとる人と、死を真剣に見つめ諦観という観念の中で逆に一秒でも生きてやろうという人と二通りに別れるかと思います。
「ともに眞理に近づく」
ここに大きな問題があります、なぜなら、人は死ぬのだということを逆に武器にして自己の考えを押し付けてしまうやり方。
私もある新興宗教の人と渡り合った経験を数多くもっています。彼らの言うことは真理といいながら組織を広げているだけと私の目には映りました。そして私が言ったことは「宗教を理解している人を連れてきてください」という返事でした。そのことから何回か私のところに来た人でも結局は、宗教を理解していないということが解かってしまいました。
宗教は哲学ですから「人間とは何か。人間はいかに生きるべきか」その回答が宗教と唯物論という二つの道に分かれると思います。私は前の書き込みにも入れましたが唯物論で解釈をしてきました。
ベルグソンの「哲学的直感)という本の中で「深く潜れば潜るほどより多くのものを引き出してくる」という一文があります。当然それはサルトルが「嘔吐」という小説の中でロカンタンという人物に語らせていることだといえます。
たぶん 調和人 さんも「覚醒」ということではこの意味かと思いますが。
それともう一つ、私は歴史の中で宗教が果たした役割を人の支配に使っていたということで、宗教を否定するのではないのですが、やはり人間社会においては「政教分離」ということが重大な要素を持っていると考えています。
最後に 調和人 さんに「人が人を使って利潤を得てもいいという権利、人はそれを誰にまらったのか」という問いを出します。当然私の回答では人間不平等の発生を「その権利を《神》から貰ったという人間が現れたことから、現在の不平等社会にもつながってきているという答えですが。