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(回答先: 大正天皇が北朝系と主張する資料とか歴史家はおられますか? 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 2 月 08 日 13:10:35)
すみちゃん、Westerflussさん、今晩は
前回は、興奮してしまって、途中経過を省いた書き方をしてしまい、わかりにくくてごめんなさい。整理かたがたこの週末私が考えたことを書きたいと思います。
大正天皇周辺の話で頼りになる本としては、原武史「大正天皇」(朝日選書)があります。
手元にあるこの本の奥付を見ると2000年11月25日第1刷発行、2001年2月25日第7刷発行となっていますから、この手の地味な本にしては、たった3ヶ月でかなりの部数がでたことになります。(相当な関心を呼んだのでしょう。)
私が、この本を買った動機は、「大正天皇の写真が見たい」からでした。
そもそも、今の日本人で、写真を見ながら「この人が大正天皇です。」といって、日本人以外の人にきちんと説明できる人が何人いるでしょうか?おそらく100人中99人が大正天皇の顔を知らないのではないでしょうか?(私もこの本ではじめて知りました)
自分の王国の二代前の王様の顔をほとんどの国民が知らされていない国って何だかヘンだと思いませんか?
外人に「どうして大正天皇の事を日本人は知らないのか」と聞かれて、自分は本人の顔すら知らないのに、苦し紛れに例の遠めがね事件を面白おかしく聞かせるのが関の山ではないでしょうか。
自慢できない事柄はなるべく隠しておこうという日本人の悪い癖、という説明だけでは納得いかない特有の「うさんくささ」の匂いが大正天皇の周辺にはぷんぷんしています。
この本を読んだときには、初めてまともな大正天皇に関する文章を読んだような気がしました。そしていくつかのことが気になっていました。地方巡行に出て、京都に行った際に孝明天皇のお墓のある「泉涌寺」に何度も立ち寄っている事などもそのひとつです。ただ、ぼんやりと明治天皇すり替え事件説を前提とした際に「孝明天皇と大正天皇を結びつける出来事」だと思っていただけでした。
(泉涌寺に関する知識は、「明治以降天皇家が仏教とのかかわりを捨てた事から、一般人が泉涌寺の中を覗くことが出きるようになったが、実は天智天皇から孝明天皇までの位牌のうち、天武天皇から称徳女帝までの天武系の天皇の位牌が存在しない事が明るみに出た。従って、白鳳・奈良朝の天皇家は現天皇家とつながりのない家系である、ということが分かった。」というショッキングな説明を読んだことがあったため、覚えていただけでした。)
ところが、Westerflussさんのレスで、泉涌寺が、真言宗である事を知り、「ハテ、おかしいな。南都六宗や天台宗ならまだしも、真言かあ。」〜と思って、泉涌寺のホームページを開けてみたのです。
http://www.mitera.org/html/royal/index.html
<皇室との特殊の縁故は、(中略)南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院をここに御火葬申し上げてから前後九代の天皇の御火葬所に当てられた。さらに第百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院(御菩堤所)と定められた。当山のシンボル霊明殿(れいめいでん)には、歴代の御尊牌を奉祀し、(以下略)>
以上の記述でわかる通り、「皇室」の檀家寺というより、「北朝系」の檀家寺といったほうが正確だということです。
従来天皇家だけを檀家としてきたにもかかわらず、明治以後は、廃仏毀釈の影響で、戦後は、信教分離の為、寺の維持が困難になります。
現在の寺の状況について、以下の通り説明されています。
<しかし、時代の変動につれて、御下賜金と解脱会の奉納金だけで御寺を維持することは、とうてい出来なくなってきた。ここにおいて寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、前経団連会長・新日鐵相談役会長斉藤英四郎氏を会長として、開創以来七百五十年の伝統と由緒をもつ、格式の高い御寺維持のための努力が今も力強く続けられている。>
神仏分離・廃仏毀釈以降、建て前上は、天皇家に檀家制度は無くなってしまった。それは南朝系統の天皇家からすれば、当然の処置であった。(赤の他人の先祖祭りをする義理は無いですよね。
)
ところが、北朝系統の天皇家の人々からすれば、先祖の祭祀を絶やすわけには行かない。かといって、檀家の人間であることをあからさまに世間に出す事も出来ない。
そこで、「御寺泉涌寺を護る会」なるものを作り、事実上の檀家の筆頭代表者を会長としてきた、ということでしょう。そしてその代表者が、初代三笠宮崇仁親王であり、二代目の現在が秋篠宮である、ということになります。
「ある家の隠れた歴史は、檀家寺の住職に聞けば世間で語られている内容とは異なる話を聞くことができる」、ということは、横溝正史の小説を読まなくとも、なんとなくわかることなのかもしれませんが、天皇家の内情についても、お寺を巡る事情からある程度実情を推測できる、ということなのでしょう。
ところで、原氏の大正天皇に戻ります。
実は、Westerflussさんの最初のご先祖さんについてのレスを読んで衝撃を受け、この週末読み返してみました。そして、1度目とは全く異なる感想を持ちました。
「この著者は、まだまだ大正天皇と彼を巡る様々な事柄についてたくさんのことを知っているはずだ。しかしその内容を一般書の中に書くことは、自分の学者生命にもかかわることであり、憚られる。
しかし、学者(この人は新聞記者から昭和天皇逝去を契機として学者に転進した)の良心から、書いても問題無いと思われる事柄を何点か指摘するにとどめ、残りについては、なんとなく気づいている人が注意深く読めば「はは〜ん、なるほど」と感じ取れる事実を本文中にさりげなく盛り込んでいくと言う手法をとったのではないか、ということです。
私が気がついた項目を以下あげてみます。(一部個人的な妄想を含む)
1. 大正天皇の生後昭憲皇太后は、実の親ではないが、同じ北朝系統であり、(いわば南朝系に国譲りした側の立場から)「オオクニヌシ・出雲大社」に安全祈願を行っている。(なお、伊勢神宮(南朝派後援)と出雲大社(北朝派後援)は、明治神道の教義の中身について争いを起こしている。(当然伊勢派の勝利))
2. 大正天皇は、大隈重信(反薩長派・非すり替え加担派)が首班格であった明治12年の生まれ。
3. 幼少時、中山家(すり替え事件に加担したと見られる貴族?)で育てられたが、病気勝ち。(あえて毒とは言いたくないが、体に良くないものをあえて与えた?)
4. 20歳になって、結婚すると、夫人の監視をくぐって毒を与えることが難しくなったのか)幼少時とは見違えるほど健康になっていく。
5. また、上記事実は、従来の中山家が東宮で影響力を失い、(北朝家の代表的な宮家である)有栖川宮の息子(威仁)が東宮を管理・掌握するにつれて、顕著になる。
6. 東京にいると、なぜか病気勝ちであるが、数十日単位で、国内の巡行旅行に出かけても、それほど体調を崩さず、むしろ元気。(毒を盛りにくくなる?)
7. 最初の巡行は、有栖川宮が東宮職関係者には一切相談せず、極秘に計画を進めた。(どうしてそのようなことが必要だったのか?)
8. 数回に渡る孝明天皇陵墓参(既出)
9. 天皇時代は、大隈重信や原敬などの反薩長閥の首相を極めて信頼していた。(北朝の皇太子を明治12年に発表するに際しては、大隈の相当な政治権力基盤がなければ不可能だったはず。大正になってから大隈が首相に就任するのはこのときの論功行賞だった可能性あり。この皇太子事件が明治14年の政変(大隈が薩長閥(南朝派)から追い出される)のきっかけになった可能性もある。
尚、泉涌寺は、明治15年に焼失しており、これも南朝側のしわざの可能性は高い?
10. 山県有朋、山本権兵衛等は、お互いに海陸・薩長の双方の面で対立する立場の人間であったにもかかわらず、大正天皇問題では、奇妙に歩調がそろって、反大正天皇派であった。特に、大正天皇は、山県有朋とは極めて関係が悪かった。
11. 原敬が東京駅で撃たれてから、1ヶ月もしないうちに後に昭和天皇となる皇太子が摂政に就任している。
12. 大正天皇は、皇太子の摂政就任について了承しなかったが、無理やり了承した事にされた可能性がある。
13. このあたりの段取りは、大久保利通(南朝派・すり替え加担派)の次男である宮内大臣・牧野伸顕が段取りを整えている。
14. 原敬暗殺前は、大正天皇の病状につき、回復の希望があるかのようなトーンで発表されていたが、暗殺後は、脳の状況は無論の事ながら排便の状況まで公表するというやや悪意に満ちた報道がなされ、なるべく大正天皇の記憶が薄れる一方で、昭和天皇が明治天皇の再来であるかのような一種のマスコミ操作が行なわれていった。
尚、有栖川は本来北朝であるにもかかわらず、何故明治天皇の時代に力を振るうことができたのでしょうか?
彼は、幕末はコチコチの攘夷主義者だったようですが、一方で当時京都で政治的に色々動いています。そして、戊辰戦争・西南戦争では、朝廷側の総大将として活躍しています。(宮さん、宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな)で出てくる、宮さんのことです。彼は明治天皇にも信頼があつかったといいます。
彼は、北朝出身者でありながら、明治天皇すり替え事件に加担する側について、明治クーデターを成功に導くのに大きく貢献したのではないでしょうか。
そんなこともあって、「南朝北朝かわりばんこ」の密約が交わされたのかもしれません。
尚、有栖川宮家は、それまで10代以上続いたにもかかわらず、大正時代に息子の威仁で血統が絶えます。
しかし、このとき、大正天皇の三男である高松宮が「皇室典範により、名前は有栖川を継げないけれども、有栖川系の女性を嫁に貰って、事実上有栖川の財産を相続する」といった措置が取られます。(北朝・南朝の融和をはかったものでしょうか。但し、この夫婦は最初から破綻していたようであり、子が出来ませんでした。)
三笠宮は、残りの三人(昭和天皇・秩父宮・高松宮)とはやや年が離れて、明治天皇の死後生まれました。三笠の宮は、北朝系とはいえ、大正天皇が即位後かなり体調が思わしくなくなったあとに生まれていますから、大正天皇の直接の血筋とは言いがたいのではないでしょうか。
最後に泉涌寺が、現在どのような年中行事を行っているのかを再びホームページから見てみましょう。
御例祭法要・御合祭法要 一月六日 新年御参詣
一月七日 昭和天皇御例祭法要
一月十一日 英照皇太后御例祭法要 (孝明天皇の皇后)
一月十七日 新年御合祭法要
一月三十日 孝明天皇御例祭法要
四月十日 昭憲皇太后御例祭法要 裏千家献茶 (明治天皇の皇后)
五月十七日 貞明皇后御例祭法要 表千家献茶 (大正天皇の皇后)
七月十日 盂蘭盆御水向法要
七月十七日 盂蘭盆御合祭法要
七月二十九日 明治天皇御例祭法要
十二月二十五日 大正天皇御例祭法要
十二月二十九日 歳末御参詣
この寺が何故現在も孝明天皇の法要を行うのかは、もう自明だと思います。北朝系の天皇として特別のポジションにいるからであり、孝明天皇が怨霊とならないよう供養しているのだと思われます。合わせて、この寺は、南朝北朝の融和を図るために孝明天皇以降のすべての天皇皇后の供養をしているのでしょう。(世間体から、北朝だけの天皇を供養するわけにも行かないでしょうが。)
最後に気になっていることについてもう一言。
数年前に高円宮(三笠宮の子ども。北朝系)が1ヶ月ほど前までぴんぴんしていたのに突然心臓病で亡くなった、という背後にも何かあったのでしょうか?