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(回答先: 南朝正統派の主張の根拠 投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 12 日 00:42:03)
単なるお家騒動ならば、南朝でも北朝でもどちらでも勝手にやったら、と思っていますが、壮大なる騙し絵図だったとすると、話はちょっと違ってきます。あのような陰謀?は、維新のどさくさでこの可能性は高かっただろうと妄想しています。
現在の天皇家の人々は、イギリス留学する割合が高いですよね。なんで、イギリスばかりなのでしょうか。留学していなかった頃も、外国人家庭教師が付いていたようです。この家庭教師がどこの国の人だったのかを調べると面白いかも知れません。
南北朝合一がなったのは、1392年のことです。
南朝の後亀山天皇(後村上天皇の第二皇子)が北朝の後小松天皇(後円融天皇の皇子)に三種の神器を譲り、決着が着いたとされています。南朝は、後醍醐、後村上、長慶、後亀山の4代で公式の歴史上からは消え去りました。
(そもそも、譲ったとされる三種の神器も本物かどうか怪しいですし、三種の神器そのものも、よく古代からそのまま残っていたな〜と思っています。何度か作り換えられていたのではないかと推測しています。)
南北朝が合一し、南朝が歴史上から消え去ってから、明治維新まで数百年が経過しています。更に、足利義満によって、滅ぼされた皇子皇女も多数います。
南北朝合一当時から南朝の天皇家こそ正統と信じ、いつの日にか南朝系の復活を願って、南朝系天皇の子孫を匿ってきた有力者が全くいなかったとまでは申しません。しかし、当時の時代状況を鑑みると、難しかったろうと思います。
ではここで、仮に匿った勢力があったと仮定して、匿った側の立場になって考えてみましょう。
匿った側からすると、南朝の天皇を正統と信じていたわけですから(上手く利用してやろう、とか、得をしよう、との考えもあったでしょう。)、その目的のためには、歴史の経過によって草々に埋もれさせない、血統を絶やさない、が大事な要素になってきます。
そう考えると、それ相応の処遇をしていただろうとの推測が自然に成り立ちます。
だって、単なる庶民になってしまっていたら、意味がありませんからね。
「南朝」とされている家(大室家)は、どうだったでしょうか。通りすがりさんの投稿を読んだ限りでは、「自称」でしかないように思います。
「北朝天皇家の血筋は、後円融天皇で切れており(以下略)」の論は、直系血縁はもっと昔から何度も何度も切れているのではないかと思っています。
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.htmlの資料でも出てきた猶子とは、所謂、養子のことであり、養子との違いは生家との関係にあります。生家との関係を切らないのが猶子です。昔は子供の死亡率が高かったので、家の存続のために、猶子を迎えることへの抵抗感は薄かったようです。
日本史を見ても明らかなように、天皇家は、その時々の権力者と血縁関係を結ぶことによって、生き残ってきました。これは、天皇家の生き残り戦略と言ってもいいでしょう。
天皇家及び、その周囲の公家達にとって、天皇家が存続し続けることこそが、最重要だったのではないでしょうか。公家達は、天皇家があるおかげで自分たちも良い立場を確保出来、利益を得ているのですから。両者は、利益共同体です。
そうだとすると、後小松天皇が足利義満の血であろうが、なんであろうが、存続出来ればいいわけです。
義満が天皇家を絶対に潰さないとの前提に立てば、陰口の主は、後円融天皇の次の天皇を狙っていた人物から出たのでしょう。
ところで、リーマンさんが
>南朝派に言わせると、「後花園天皇から孝明天皇までは、北朝天皇家などという名前はおこがましく、せいぜい足利天皇家っていってやるぐらいが関の山だ。」ということになります。>
で述べている南朝派って、一体誰のことですか?
孝明天皇が出てくるところを見ると、それ以降の人ですよね。南朝を正統と主張することで、当時の政府に加担していたように思えてなりません。怪しい。
以上の点から、南朝の方が、北朝より血統が守られているとは、言えないと思います。
話変わって
以前ある雑誌(雑誌名は失念)で、江戸時代に庶民の間でも家系図作りが流行ったとの話を読んだ覚えがあります。系図屋と呼ばれた家系図を作ってくれる人たちがいたそうです。
祖先を誰にするかは、依頼人次第でどうにでも出来たそうですし、古めかしくもしてくれたそうです。(w)
そういえば、歴史上の有名人(主に武将)の家系図には、やたらと清和源氏と桓武平氏が出てきますよね。家系図は、いくらでも作り替えられるの典型かもしれません。
自分の祖先は、こんなに立派な人物だったと思いたい心理は、古今東西変わらないのかも知れません。
最後に資料になりそうなURLを載せておきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(系譜〜孝明天皇系譜)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.html
(感想&資料〜幕末からの有栖川宮家資料)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/828.html
【南朝】
(後醍醐天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn096.html
(後村上天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn097.html
(長慶天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn098.html
(後亀山天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn099.html
【北朝】
(光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn01.html
(光明天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn02.html
(崇光天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn03.html
(後光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn04.html
(後円融天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn05.html
(後小松天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn100.html
(後花園天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn102.html
単なるお家騒動ならば、南朝でも北朝でもどちらでも勝手にやったら、と思っていますが、壮大なる騙し絵図だったとすると、話はちょっと違ってきます。あのような陰謀?は、維新のどさくさでこの可能性は高かっただろうと妄想しています。
現在の天皇家の人々は、イギリス留学する割合が高いですよね。なんで、イギリスばかりなのでしょうか。留学していなかった頃も、外国人家庭教師が付いていたようです。この家庭教師がどこの国の人だったのかを調べると面白いかも知れません。
南北朝合一がなったのは、1392年のことです。
南朝の後亀山天皇(後村上天皇の第二皇子)が北朝の後小松天皇(後円融天皇の皇子)に三種の神器を譲り、決着が着いたとされています。南朝は、後醍醐、後村上、長慶、後亀山の4代で公式の歴史上からは消え去りました。
(そもそも、譲ったとされる三種の神器も本物かどうか怪しいですし、三種の神器そのものも、よく古代からそのまま残っていたな〜と思っています。何度か作り換えられていたのではないかと推測しています。)
南北朝が合一し、南朝が歴史上から消え去ってから、明治維新まで数百年が経過しています。更に、足利義満によって、滅ぼされた皇子皇女も多数います。
南北朝合一当時から南朝の天皇家こそ正統と信じ、いつの日にか南朝系の復活を願って、南朝系天皇の子孫を匿ってきた有力者が全くいなかったとまでは申しません。しかし、当時の時代状況を鑑みると、難しかったろうと思います。
ではここで、仮に匿った勢力があったと仮定して、匿った側の立場になって考えてみましょう。
匿った側からすると、南朝の天皇を正統と信じていたわけですから(上手く利用してやろう、とか、得をしよう、との考えもあったでしょう。)、その目的のためには、歴史の経過によって草々に埋もれさせない、血統を絶やさない、が大事な要素になってきます。
そう考えると、それ相応の処遇をしていただろうとの推測が自然に成り立ちます。
だって、単なる庶民になってしまっていたら、意味がありませんからね。
「南朝」とされている家(大室家)は、どうだったでしょうか。通りすがりさんの投稿を読んだ限りでは、「自称」でしかないように思います。
「北朝天皇家の血筋は、後円融天皇で切れており(以下略)」の論は、直系血縁はもっと昔から何度も何度も切れているのではないかと思っています。
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.htmlの資料でも出てきた猶子とは、所謂、養子のことであり、養子との違いは生家との関係にあります。生家との関係を切らないのが猶子です。昔は子供の死亡率が高かったので、家の存続のために、猶子を迎えることへの抵抗感は薄かったようです。
日本史を見ても明らかなように、天皇家は、その時々の権力者と血縁関係を結ぶことによって、生き残ってきました。これは、天皇家の生き残り戦略と言ってもいいでしょう。
天皇家及び、その周囲の公家達にとって、天皇家が存続し続けることこそが、最重要だったのではないでしょうか。公家達は、天皇家があるおかげで自分たちも良い立場を確保出来、利益を得ているのですから。両者は、利益共同体です。
そうだとすると、後小松天皇が足利義満の血であろうが、なんであろうが、存続出来ればいいわけです。
義満が天皇家を絶対に潰さないとの前提に立てば、陰口の主は、後円融天皇の次の天皇を狙っていた人物から出たのでしょう。
ところで、リーマンさんが
>南朝派に言わせると、「後花園天皇から孝明天皇までは、北朝天皇家などという名前はおこがましく、せいぜい足利天皇家っていってやるぐらいが関の山だ。」ということになります。>
で述べている南朝派って、一体誰のことですか?
孝明天皇が出てくるところを見ると、それ以降の人ですよね。南朝を正統と主張することで、当時の政府に加担していたように思えてなりません。怪しい。
以上の点から、南朝の方が、北朝より血統が守られているとは、言えないと思います。
話変わって
以前ある雑誌(雑誌名は失念)で、江戸時代に庶民の間でも家系図作りが流行ったとの話を読んだ覚えがあります。系図屋と呼ばれた家系図を作ってくれる人たちがいたそうです。
祖先を誰にするかは、依頼人次第でどうにでも出来たそうですし、古めかしくもしてくれたそうです。(w)
そういえば、歴史上の有名人(主に武将)の家系図には、やたらと清和源氏と桓武平氏が出てきますよね。家系図は、いくらでも作り替えられるの典型かもしれません。
自分の祖先は、こんなに立派な人物だったと思いたい心理は、古今東西変わらないのかも知れません。
最後に資料になりそうなURLを載せておきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(系譜〜孝明天皇系譜)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.html
(感想&資料〜幕末からの有栖川宮家資料)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/828.html
【南朝】
(後醍醐天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn096.html
(後村上天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn097.html
(長慶天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn098.html
(後亀山天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn099.html
【北朝】
(光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn01.html
(光明天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn02.html
(崇光天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn03.html
(後光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn04.html
(後円融天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn05.html
(後小松天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn100.html
(後花園天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn102.html