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(回答先: 大正天皇関連・とりあえずのまとめ 投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 10 日 06:42:17)
幕末史には詳しくないのだが、あしゅら投稿ですり替え説を読み、薩長方に都合よく進んだ歴史年表を眺めながら、あり得ない話ではないようにも思えた。
その流れから、大正天皇も、『自称.南朝系』だとばかり思っていた。だから、リーマンさんの『大正天皇北朝説』は意外な感がして、そこで、孝明天皇の系譜を調べてみた。
第121代.孝明天皇(天保2年(1831)〜慶応2年(1866)は、僅か36歳の若さで没す。まずは、孝明天皇の両親と兄弟姉妹から。
孝明天皇の父は、第120代.仁孝天皇。母は、藤原(正親町)正子。(後に藤原(鷹司) 祺子皇太后の養子となった。)
孝明天皇には異母兄弟が多数いたが、夭折した方々が多く、皇女和宮が将軍家に輿入れする時には、和宮を入れて、わずか3人(孝明天皇.淑子内親王.親子内親王=和宮)になっていた。
14将軍家茂が20歳の若さで慶応2年(1866年7月20日)死亡したため、和宮には子供はいない。(その後、和宮は薙髪(ちはつ)して静観院宮と称した。)
淑子内親王は、第五代閑院宮愛仁親王と婚約していたが、婚約者が死去。記録では、その後、結婚し子供をもうけた記述は見当らない。
(猶子を除く)
次に、孝明天皇の皇子を。
孝明天皇の皇子達も、明治天皇以外は、みな夭折している。
となると、北朝系は猶子の子孫から連れてきたことになるのだろうか?遠縁などで探せば、いないことはないだろうが、上手く生き残った旧北朝系は、自称南朝方に何らかの意味で組みしたからこそ、生き残れたのではないかと思えるのだが。そうであれば、わざわざ北朝系を連れて来る意味がないように感じられる。
最後に、資料を収集している中に、面白いものを見つけた。
第13代徳川家定の妻は、薩摩藩藩主・島津斉彬の叔父の娘で、斉彬の養女として家定に嫁がされた天璋院篤子(1835〜1883)である。14代将軍の正室和宮とは10歳しか違わない。結婚後、わずか1年7ヶ月で家定は、35歳の若さで病死している。嫁となった、和宮とは10歳しか違わない。暗愚といわれた家定と違い、篤子はしっかりものであったという。ちなみに篤子は、一橋慶喜を嫌っていたとも言われているが、幕府が薩長軍によって敗北色が濃くなると、実家である島津家と徳川家のパイプ役になったそうだ。
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【孝明天皇兄弟姉妹】
母
<皇后>:藤原(鷹司) 繁子 →安仁親王(1820〜1821)).皇女(1823翌日夭折)
<皇后>:藤原(鷹司) 祺子 →皇女.女二宮(1829〜1831).孝明天皇(養子)
<女院>:藤原(正親町) 雅子 →皇子鎔宮.のりみや(1825〜1827).統仁(孝明天皇;在位(1846〜1866).皇子幹宮.もとみや(1833〜1836).皇女恭宮ゆきみや(1837〜1838).(猶子)浩宮・喜久宮
<典侍>:藤原(甘露寺) 妍子 →皇女成宮(1825〜1826).淑子内親王(1829〜1881).皇子三宮(1830〜1831).皇女総宮(1832〜1833)皇女経宮(1836〜1836).(猶子)尊応入道親王(後の久邇宮朝彦親王)
<典侍>:藤原(橋本) 経子 →皇子胤宮(1844〜1845).親子内親王(和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室.1846〜1877)
<典侍>:藤原(中山) 績子 →(猶子) 純仁入道親王(後の小松宮彰仁親王)・公現入道親王(後の北白川宮能久親王)
<掌侍>:藤原(今城) たつ子 →皇子(1832.即日夭折)
【孝明天皇の皇子】
母
<皇太后>:九条 夙子 →順子内親王(1850〜1852).皇女≪富貴宮≫(1858〜1859).「実子」としての養子)明治天皇 (生母・中山慶子)
<典侍>:中山 慶子 →睦仁(1852〜1912:明治天皇;在位1867〜1912)
<典侍>:坊城 伸子 →皇子(1850即日夭折)
<掌侍>:堀河 紀子 →皇女寿万宮(1859〜1861).皇女理宮(1861〜1862)
<掌侍>:今城 重子 →子供なし
【中山慶子:1835〜1907】
父:中山忠能 母:園愛子
1851年(17歳)孝明天皇に入侍
1852年(18歳)中山邸で祐宮(明治天皇)を出産
1866年(32歳)孝明天皇、36歳で没、明治天皇即位
1868年(34歳)従三位.三位局の称と食禄500石と屋敷地を賜る
1870年(36歳)東京に転居、従二位を賜る
1979年(45歳)嘉仁親王(大正天皇)の養育係となる
1907年(73歳)青山の屋敷にて死去
【堀河紀子:1837〜1910】
父:権中納言 堀河康親 母:さじ 異母兄弟:岩倉具視
1852年(16歳)孝明天皇に入侍
1862年(26歳)宮中を退下
1863年(27歳)束髪を命じられ、霊鑑寺に退去
1866年(32歳)孝明天皇没、明治天皇即位
1968年(34歳)処分を解かれ、掌侍隠居に復帰
1910年(74歳)死去
※公武合体派として攘夷派から排斥を受けた。今城重子・岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直とともに四奸二嬪と呼ばれた。