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(回答先: 南朝正統派って何だったのか? 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 2 月 12 日 20:46:27)
すみちゃん、Tea・Timeさんへ
あんまり怒涛のように質問されても、実はこの問題は、自分も知識があんまりないし、大正天皇についてのアイデアもなんせ先週末に浮かんだアイデアなんだから。
ところで、話が多岐に渡っているので、今の私のスタンスをいうと、
今は、何が正しいとか、ある幾つかの事実をつなげてみて一定の法則性や結論らしきものを出したりする段階ではなくて、いろいろ事実を集めてみる、ということでいいのではないか、ということ。
妥当だったか、意味があったのか、は別にして日本人が膨大なエネルギーをこれらの問題に費やしてきたことは紛れもない事実であり、そこにはたくさんの誤解やねじれや騙しや手垢のついた議論も含まれているはずだから。
鹿島氏の本についても以前一回読んだだけなのでどんなことが書いてあったのかは自分でも良く覚えておらず、もう一度今度はじっくり読んでから感想を書きたいと思います。
○ 後円融天皇と後小松天皇の親子関係について
皆さんに楽しく読んでもらうために、文章を三流週刊誌的に扇情的に書いてしまいごめんんさい。詳しいことは私も承知していません。これ以上ご興味のある方はご自分でキチンと関係書に当たられることをお薦めします。この部分は、高校教科書では出てこないものの、大学の専門課程ぐらいでは必ず触れる話だと聞いたことがあります。
逆説の日本史室町編に少し書いてあったと思います。
○ 貞成親王の父親が足利義満だとの南朝派(近代明治天皇を代表者とする)の主張
「このことが、南朝正統派の主張だといったって、一方で、南朝だってどこの馬の骨の血が入っているかわからんじゃないの。」といった主張は、当然いつの時代もあった話のようです。(このあたりの明治時代の学者のやり取りは鹿島氏の本にまとめてあったとお思います。)
○ <私としては、
吉田松陰がこういう陰謀に納得したかなあ
という疑いがありました。
この件がもし事実なら、吉田門下生の暴走だと思う。>
我も吉田松蔭との関係は気になっています。その文脈でいけば、特に、松蔭神社が明治15年という極めて早い時期に建てられたことが気になっています。萩の乱を起こした前原一誠が、死ぬ前に「おまえらが何をやろうとしているのか、あの世で松蔭先生に言いつけてやる」と吐いた、といった言葉も胸に突き刺さります。(名指しでそういわれたらおちおち寝られないでしょう。早く松蔭先生をお祭りしなければ、と言う気持ちになったのも理解できる。)
松蔭門下の中で、人を信じることの好きだった松蔭から伊藤がほとんど評価されていなかったことも気になります。伊藤の心の奥底にあるルサンチマンのようなものが、何か将来大きな問題を引き起こすひきがねとなりうることを松蔭は予感していたのかも知れない、等と妄想しています。
(一方で、松蔭先生も自分で海外に行きたいといったぐらいだから、まっさらな純心な人だったわけではなくて、少しはココロにシミがあったんじゃないの、という疑いもまだ捨てきれません。)
○明治天皇をやるんだったら、大正天皇・昭和天皇とその兄弟達も併せてやっちゃったほうが効率はいいような予感がしています。まさに芋掘りしていたら、根っこが地下で横に伸びていて現代までズルズルと引きずって顔を出すだろう、と予感しています。
(今のところの私の直感は、やはり南北南北ときて、今の皇太子は南朝系だろうということです。だとすると、もし可能であれば秋篠宮あたりが(外で?)作った男子が皇太子の長男として発表される可能性が高いことになります。)
尚、この件については、幾つか気になっていることはありますが、しばらく投稿を止めようと思います。(このために今週仕事が遅遅れ気味になってしまいました。)
今までの日本人一般に信じている事実と明確に異なる内容を書いているのは、鹿島氏と原氏の本だけのようですし、阿修羅であってもこの問題を冷静に議論できるか若干不安もありますし、、。
尚、もし私が日本にいて、時間があるようであれば、次の二点から事実関係を洗ってみたいナと思います。
@ やはり一番のかぎは泉涌寺でしょう。歴代天皇の位牌を拝観できればいいのですけれど。天武系の天皇の位牌がない、という事実は確認されているようですが、南朝系の天皇の位牌がどう取り扱われているのか(もしかしたら「ない」のではないか)を知りたいですね。また、お寺の中で、管理が二つに割れていないか(特に明治以降御所から移設されたらしい「本坊」は泉涌寺の本殿その他の部分と別管理になっていないか)、を確認してみたい。(できればお寺の職員にも聞き込みをしてみたい。)
A もう一つの手掛かりは、天皇家の家紋の歴史の周辺を洗うと何か出てくる可能性があるのではないか、という点です。
現在の天皇家の16弁の菊の家紋はもしかして明治時代からしか使われていないのではないか?因みに現在の天皇家の家紋は、南朝時代の16弁の菊(パスポートの表紙のもの)とは微妙に異なっています(16弁に加えてそれぞれの花びらの後ろに花びらが重なっている。合計32弁?)。
南朝派は、我々の家紋を基本的に踏襲したものと主張し、北朝派は、明治になって新たに制定されたものであり南朝のものとは異なる、などど強弁している(解釈している)のではないか。
(さらにいえば、泉涌寺のどこに天皇家の家紋は使われているか、それはいつからか、も調べてみたい。)
あとはそれぞれが納得いく方法でしばらく調べるしか方法はないのでは。
以上、何かまとまったご報告ができるまで、しばらくこの問題からは遠ざかりたいと思います。