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(回答先: Re: 釈尊が最終的に目指したものは法華経 投稿者 涼風 日時 2003 年 10 月 24 日 21:16:37)
>他人に対して「その部分は作り話だ。」と主張されるのなら
>客観的な判断材料を提示するのがルールです。
>ある人の常識というのは他人から見たら思い込みがたくさん含まれてるいるものですから
>びっくりさんの常識は他人にとっては根拠になりません。
阿修羅さんの投稿されたものに、法華経の一部がありますので、その部分を、私の常識に照らして、
フィクションであると思うところを指摘いたします。
法華経宇宙の旅: http://www.ho-wa.co.jp/hokke_e/hokke_e2.html
1.序品
法華経は「かくの如く、我れ、聞けり。」で始まります お釈迦さまが霊鷲山の山頂にて静かに瞑想に入っておられました。 まわりには、いつもそばにいる舎利弗や多くの修行僧、信者の人々、 さらには観世音、日光、月光、文殊などの菩薩さまが多くのお供を連れ、また、竜神さまや帝釈天などの守護神が多くの家来を連れて集まっています。 これから説かれる教えがいかに多くの生きとしいけるもののために説かれるかということが暗示されています。 やがて天上界から花びらが舞い、大地は静かに震動をはじめ、自然界が感動を現しはじめました。 お釈迦さまの額の真ん中からは光が放たれ、その輝きは東方の遙かかなたの世界までも照らし出しました。 これほどまでの光景は見たことがありません。 多くの人々の不思議な思いを感じて、弥勒菩薩が知恵第一といわれる文殊菩薩に尋ねました。 「いったいこの不思議な現象は何ですか。 これから何が起ころうとしているのですか。」文殊菩薩は、知恵のすべてを引き出して、前世や他の世界のことを思いださせました。 そして「以前にこれと同じようなことが日月灯明如来という仏さまの世界で起こったが、その時と同じ不思議な現象である。 お釈迦さまもこれから「妙法蓮華経」という偉大な素晴らしい教えを説かれるに違いない。」 と答えました。 法華経は偶然に説かれるのではなく、深い深いわけがあって、お釈迦さまがこの世で法華経を説かれるのだということです。
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●観世音、日光、月光、文殊などは、実在しない、事ではない、
観念上の、想像上の存在だと思います。竜神さま、帝釈天などの守護神も古来インドの観念上の創造物だと
思います。天上界も、また、そこから落ちてくる花びらも事実でないと思います。私の常識に照らしてですが、、、
妙法蓮華教が成立したことには、お釈迦さんは(事としての)、亡くなられていますから、
妙法蓮華経を説かれるはずがありません。
これらのフィクションを使って、いかに、妙法蓮華経は、素晴らしいものであるかと、読者に
期待させるものだと思います。●
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2.方便品
それまで深く静かに瞑想に入っておられたお釈迦さまが、いままでの瞑想をとかれ、しかも、お立ちになって、自ら語りはじめられました。これは大変めずらしいことです。 たいていの場合は、誰かの問いに対して、教えを説かれはじめますが、今回はお釈迦さまの方から語りはじめられたのです。 さらに、お立ちになって教えを説かれるというのは、今までとは違う特別な教えを説こうという、お釈迦さまの思いがあらわれています。 いよいよ舎利弗にむかって、説かれはじめました。 お釈迦さまが悟られたことがらは、仏と仏のみがよく理解できるのであり、人々に直接説いても難信難解であって、疑問を持つだろうから、これまでは直接に真実は説かずに、わかりやすい方便のかたちで説いてきた。 さらにこれ以上は教えを説くことはしないというのです。 舎利弗をはじめ多くの人々は大変驚きました。 というのは、これまでお釈迦さまが教えを説いてこられたのは方便 であって、真実そのものではなかったからです。 しかも、その真実を明かさないというのです。 だまってそうですかというわけにはいきません。 みんなの気持ちを代表して舎利弗がお釈迦さまに真実の教えを是非 説いてくださいと三度お願いします。 そしていよいよ、その真実が説かれることになりました。 ここでは、なぜお釈迦さまが悟りを開かれてすぐに法華経を説かれずに、いろいろな教えを説いてこられたのか、さらに、お釈迦さま は一大事の因縁があるから、この娑婆世界において法華経を説かれるのだと、その深い知恵と慈悲を示されています。
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●妙法蓮華経成立以前に、お釈迦さんの説教を聞いて、悟りを開かれた人もいたと思います。
修業中の人たち、一般の人たちの中にも立派に目覚めた方がいたと思いますし、それが可能だと思います。
私の常識に照らして。
法華経で初めて、お釈迦さんが真実を述べてこなかったということは、なかったと思います。
小乗仏典も、多く残されていますから。その中に、十分な真実を述べてきたと思います。もちろん、
小乗仏典の中にも、多くのフィクションが含まれています。私の常識に照らして。
何度も書きますが、お釈迦さんは、妙法蓮華経成立、数百年前に亡くなられております。●
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3.比喩品
お釈迦さまはお弟子の舎利弗が、お釈迦さまがどのような知恵と慈悲で私たちを救済されようとしているのかを、理解したと認められやがて華光如来という仏になるであろうと、成仏の証明をされます。 これを授記といいます。 さらに他の者に対して比喩のかたちでよりわかりやすく述べられます。 昔、大変大きな長者の家がありました。 その家の中では動物や化け物がお互いに殺し合い、糞やウジ虫などがわき、それはすさまじい様子でした。 そんな中で大勢の長者の子供たちが周囲のことを気にも止めずに遊んでいました。 ある日のことです、その家で火事がおこりました。 火はみるまに広がり、家を焼き尽くすかのように燃え上がりました。 長者はいちはやく外に逃れましたが、子供たちは遊びに夢中で火事のことすら気が付きません。 このままでは子供たちは焼け死んでしまいます。 父親である長者は大声で早く外に出るように叫びますが、父親の声さえ聞こえません。 そこで長者は考えました。 「おい、子供たち、以前からほしがっていた羊車、鹿車、牛車が外にあるよ、はやくこちらに出ておいで。」 と、呼びかけました。
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●ささいな、いちゃもんを述べさせていただくなら、声さえ聞こえないのに、子供たちの興味のあるものがあるよと
子供に呼びかけているという翻訳は、おかしいと思います。原典もそうなっているかもしれませんが。
子供が欲しがる物をみせて、子供たちを家の外に脱出させたなら、問題ないです。
有名お話ですね。嘘も方便ということわざにぴったりのたとえ話だと思います。
たとえ話ですから、フィクションでも問題はないと思います。
方便とは、よい方法で衆生をみちびくという意味が基本のようなので(仏教辞典、前出)
こういったたとえ話がいっぱい出てくるんでしょうね。理解しやすくなるので、よい例え話は
ありがたいですね。●
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4.信解品
比喩品で述べたように、お釈迦さまがこの世の衆生を救済されようとしている慈悲と、知恵のことを、迦葉尊者をはじめとする四人のお弟子たちがみずから理解したことがらとして、お釈迦さまに喩え話のかたちで申し上げます。 長者の息子が子供のころに行方不明になり、何年も流浪生活を続け青年になったころに、父である長者と再会します。 父親は我が子と気が付きますが、息子のほうは想像だに出来ません。 無理やり屋敷に連れてきたのでは抵抗するばかりですから、まずは 屋敷の仕事をするように仕組み、だんだん屋敷の生活に慣れさせるために、長者自らが変装して同じような使用人のふりをして息子に 近づき、やがてその能力を認めるかたちで、重要な役職につかせ、 最後に親子として名乗りでて、息子もそれを認め、親の財産を受け継いだ。という物語です。 ここでの父親はお釈迦さまのこと、流浪していた息子はわれわれ衆生のことです。 いきなりおまえは我が息子だといっても信じてもらえず、かえって逃げ出すかもしれない。 そこで次第に気が付かせるように、時間を掛けていろいろな手段を使い、やがて息子も父の存在を認めるようになるわけです。 そのための手段が、お釈迦さまがこれまで説いてこられた方便の教えであり、父親が最後に息子に与えた全財産とは、最高の功徳である法華経のことです。 父親と息子の関係を、方便の教えとお釈迦さまの真実の教えとの関係として説かれています。
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●たとえ話ですね。直接説明しないで、方便でもって、理解させるというお話ですね。
迦葉尊者とは、どんな方かなと辞典を引くと、カーシャパマータンガ(迦葉摩騰)がありました。
同一人物かはわかりませんが、この方は、西暦67年に、中国の洛陽へ行き、お経を中国語に翻訳された
そうです。玄奘さんが現れる西暦600年よりも、500年以上も早く、仏典が中国に伝わっていたんですね。●
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とりあえず、この辺りで、フィクションと思うところを指摘してみました。
涼風さんがこれらをノンフィクションであると思われるのでしたら、
私とはいつまでたっても、かみ合わないと思いますよ。
>妙法という言葉を釈迦が使っていないという根拠(びっくりさんの常識ではなく)を
>提示しないと説得力がないです。
妙法蓮華経が成立したころには、お釈迦さんは、事として、存在していないので、
妙法蓮華経とお釈迦さんというはずがないと言うことですよ。
前回、書き込みましたが、妙法とは、もっともすぐれた法、教えという意味なので、
お釈迦さんが生きていたときに、妙法である仏法(無常、無我、涅槃)とは、おっしゃったかも
しれませんね。お釈迦さんが亡くなられるときに仏法こそ、もっとも大事にすべきあるといったとの話が
伝わっていますから。
妙法の意味を、「もっとも素晴らしい法、教えである蓮華教」という解釈は、間違っていますか。
>紹介した本の著者が言っているのは、どこから翻訳したかということではなくて
>研究内容の問題です。
中村元さんは、ヨーロッパに影響を受けた低レベルのインド思想研究家では、ないと思います。
インド首相からも、何やら賞を受けた方ですし、
友松さんも素晴らしい方だと思いますよ。第2次世界大戦後、NHKラジオで、法句経(人生訓ふうに
書かれたもので、小乗仏教のバイブルらしい)の説明をして、敗戦後の日本人に影響を与えた方だそうです。
>経典の中に書かれている内容ではなくて実体のあるものだから、
>それを「事」としているのだと思います。
言葉ではなく、実体ということですね。月は、月という言葉じゃなく、月本体のこと、ということですね。
了解しました。ありがとうございました。
最後に涼風さんに、質問2つほどがあります。よろしければ、お答えください。
涼風さんは、
1.法華経一途の方ですか。
2.法華経に書かれていることが全部ノンフィクションだと思われているのですか。
もしそうであるならば、その根拠をお示しくださいとは、言いません。