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(回答先: Re: 釈尊が最終的に目指したものは法華経-方便だと思います 投稿者 ああ、やっぱり 日時 2003 年 10 月 25 日 14:40:58)
なんとか菩薩が実在すると思ってると前に書きましたから、法華経に書かれていることは
全部ノンフィクションだと思っていることはびっくりさんには御想像がついてると思うんですが。
もちろん、たとえ話の部分はフィクションだと思ってます。これは言うまでもないことですけど。
それから伝承されてきた内容が文字に落とすまでに変化してしまってる部分があったりしたら
その部分は違ってしまっていると思いますが、でもそれは小乗経典でも同じだと思います。
それからびっくりさんが勉強不足とかいうことではなくて、最初の投稿で紹介した本の引用
(下記のところ)をちゃんと読んでくれて意味が取れているならわかると思います。
ただ下記の引用部分は法華経を読んだことのない人にはよく意味が取れないのかもしれない
とも思ったので、もしかして法華経を読んだことがないのかもと思ったわけです。
それにびっくりさんは誤解されてるみたいですけど、私なんか最後に法華経を読んだのは
十何年以上前です。
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「 法華三部経体系(総論)」( 五井野正著 )
普通、釈迦が教えを説いた後、弟子がこの教えの経の名前は何としますかと言う問いに応じ
何々の教えとつけられた場合なら名前と教えは一致するが、この経のように経典の中の随所に
法華経の存在が説かれている場合、妙法蓮華経八巻そのものを指して法華経と思うのは
経題に囚われ過ぎている事になります。
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「月」という題名のついた本があって、そこに月本体の話が書いてあっても
月という題名のついた本と月本体を取り違える人はまずいませんけど、
「法華経」という題名のついた経典があって、そこにXX本体の話が書いてあって
そのXX本体が法華経と違う名前なら取り違える人はいないでしょうが、
XX本体の名前がたまたま「法華経」という名前だったので勘違いする人が出る
ということです。
つまり、XX本体のことを釈迦が説いて、それが伝承されて文字になった時の経典の
名前をつけるときに、たまたま法華経というXX本体の名前がつけられたわけです。
だから釈迦は法華経のことを知っているはずがない、とはならないわけです。
それで、ここをわかってないと法華経が「事」という話もわかるはずがないと
思ったわけです。こちらの言いたかったことはそういうことです。
それから、釈迦が妙法蓮華経と呼んでいたかどうかですが、「妙法」にあたる部分を
いっしょにくっつけて常に呼んでいたのかどうかとか、私には見当がつきません。
それに釈迦が使ってた言語のことも全然知りませんから。
>>大乗仏教は、小乗仏教を低いものと見ていたことを反省して、小乗を上座部と呼ぶように
>>改めたんじゃないでしょうか。
そういう意見の人が多かったということだと思います。多数意見が正しいとは限りません。
>>小乗仏教が存在して、それをもとに大乗仏教ができたのですから。
そういうことは言えません。釈迦が悟りを得たから大乗仏教があるわけです。
>>我々の日常生活では、たし算、引き算、かけ算、割り算などの基本的な算数で十分やって
>>いけますし、それで、解答を導き出せれば、いいのではないでしょうか。
それもひとつの考え方ですが、仏教本来の目的は違うみたいですよ。
以下の引用部分には仏教の目的と法華経がなぜもっともすぐれているのかと
いうことの説明があります。
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「法華三部経体系(総論)」( 五井野正著 ) P.116
そして智のある人が世間に応じた仏教をたとえ理解できたとしても悟る事は絶対にできません。
しかも世間に応じた仏教は小乗経とも言い、小乗経では悟る事はできませんから、
仏本来の目的は人々を悟らせようとする事にあって、梵天のように法を説くものではないので、
小乗経はその意味から真の仏教とはならないのです。
では小乗教も仏の説いた教えではないのかと問えば確かにそうです。
が、あくまでもその問いを為した人に対し、その時のその問いの状態や因縁等、十如是を
よく知ったところで説いたのであって、つまり一人の為の一時的な教えであって
一般人の一般的な教えでない為に仏教とはならないのです。
経典の冒頭に 如是我聞、一時・・・・ とよく使われますがこの一時とはそういう意味で、
仏が教えを説く時にはその時の十如是をよく知った上で、それに応じた教えを顕わすという
事なのです。それゆえ如是(我聞)というのです。
法華経に如是相、如是性、・・・・ と十如是を明かしていますが他の経典には十如是は
説かれていません。つまり法華経を知らなければ他の経典にも出てくる冒頭の如是我聞の
意味が理解出来ないのです。
もっとも如是でなく仏教の根本思想は法華経なくして理解することは出来ないのです。
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