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(回答先: Re: 釈尊が最終的に目指したものは法華経-方便だと思います 投稿者 ああ、びっくり 日時 2003 年 10 月 24 日 23:54:37)
びっくりさんのことをうっかりして勘違いしていました。
何々菩薩といった存在等のことを信じていて、その上で作り話とそうでない話とがある
というふうに主張されているのかと思っていました。
話がかみあうはずがないですね。
>>妙法蓮華経が成立したころには、お釈迦さんは、事として、存在していないので、
>>妙法蓮華経とお釈迦さんというはずがないと言うことですよ。
日本語では妙法蓮華経を省略して法華経と呼ぶということなのでしょうが、
原語ではどうだったのかがちょっと自分にはわかりません。
しかし、びっくりさんのこの質問ではっきりわかったことがあります。
前回のレスでも感じたのですが、びっくりさんは「法華経」をちゃんと
読んだことがないのではないですか。
そうでないとびっくりさんのような疑問は生まれません。
>>言葉ではなく、実体ということですね。月は、月という言葉じゃなく、
>>月本体のこと、ということですね。
これもたぶんわかってないという気がするんですが。
それから仏教研究者の話ですが、紹介した本の著者は
小乗教というのが釈迦に問いを為した特定の個人に合わせた内容であって、
そのために普遍性のある教えではなく、また小乗教では悟れないと主張しています。
普遍性があり、かつ悟れる内容が含まれているのは大乗教の教えなのであって、
それなのに明治以降は例えるとそろばんや和算(小乗教)でもって数学を考え、
高等数学による研究成果の伝承(大乗教)を一笑する態度を取っているのと同じだ
というようなことを本の中で述べています。