世の中で誤用が一般的になると、その言葉の持つ意味が変わることがある。たとえば経済学でいえば「マネタリスト」という言葉がそのひとつだ。従来の経済学では、マネタリストとは貨幣の量をコントロールするだけでは経済実態に影響を与えられないという議論をする人のことであった。つまり、貨幣は別問題だと切り離して論じる人々のことであった。しかし、今のマネタリストは貨幣の量をコントロールすることで景気が良くなると信じている人々を指すかのようである。つまり貨幣こそが問題の中心であると考える人々のことになってきている。
「デフレ対策」という言葉も同じような転移を見せている。従来の考え方では、インフレやデフレはあくまでも表面的あるいは名目的・貨幣的な現象にすぎず、実質的な経済の実態を指すものではなかった。この使用法においては、インフレだが不況の場合もあるし(スタグフレーションという)、デフレだが好況の場合もあるはずだった。ところが、今はデフレが必ず不況とセットで語られている。表題のデフレ対策も、本来は不況対策であるはずだった。それなのになぜが混同されて使われているうちにデフレ対策という言葉が定着してしまった。
問題なのは、デフレという言葉の古い意味を知っている一部のエコノミストが敢えてこの混同を引き起こしているということかもしれない。彼らはまさしく新しい「マネタリスト」であって、貨幣量のコントロールで経済が動かせると信じている。だから、彼らからすれば古い意味のデフレ対策を行えば、それは景気にも影響するので不況対策と同義にみえるのである。
だが、この議論は先のように、デフレと好況という組み合わせの存在を否定しているかのようでもある。知らない人々に対してはデフレそのものが悪であるという印象を強く印象付ける結果にもつながっている。そしてまた、問題の解決が貨幣量の増減だけで行えるという錯覚を起こさせてもいるのだ。純情な政治家はそれを信じ、日銀の責任を追及している。そして、あざとい政治家はこれを利用して日銀に責任を転嫁し、自らの政治責任を逃れようとしている。
不況の対策は本来、貨幣面以外の手段で行うべきだ。私個人は旧マネタリストではないし、一部に貨幣と実態経済の相互作用があることも認めうるものだが、それとこれとは別問題だ。貨幣は信用によって維持されるものであり、その本質を忘れて信用をむざむざ失墜させようという政策はあまりにも危険であると言いたいだけである。
デフレが問題になる点として、賃金の下方硬直性とか、税収の累進性が指摘されるが、そのためにだけインフレを起こすべきかをよくよく議論すべきである。これだけの不況下で賃金も全体的には下方シフトしているように思われる。税収が減少するのは、そもそもの制度がインフレ下において自動的に増税ができるような国民を欺くシステムを組みこんでいたことにこそ問題がある。インフレによる税収の自然増を図るよりは、国民と正々堂々とした議論をして必要な増税を行うべきである。(その方が歳出の無駄が省かれて、より効率的な民間への権限委譲が進むかもしれない。根本的なデフレ対策になるであろう。)
インフレによって債権者から債務者に対して所得移転が行われることも、債務者救済のためには良いかもしれない。国民資産が1400兆円といわれる中で、国民のその資金をちゃっかり頂戴してしまいたいという思いは債務に苦しむ企業にも、そして政府にもあるだろう。しかし、それは債権者や国民を騙そうという発想でしかない。インフレによらずとも、債権者から債務者への直接的な交渉(不良債権放棄)によることもできるし、国民から政府への直接的な交渉(増税とそれに対する選挙行動)によることもできるはずである。その直接的な交渉に対しては債権者や国民から反対が出ることは避けられないし、そのことによって解決までの時間がかかることを危惧する面も当然にあるだろう。しかしながら、日本においてはこうした問題を陰で解決しようとしたことがむしろ問題の根本的な解決を先送りし、責任を転嫁することにつながってきたのではなかったのだろうか。
確かに人間は必ずしも経済学的には正しい行動をしないし、インフレになって名目的な売上高や収入が増えるとなんとなく気持ちが高揚するという面はあるだろう。それも「茹で蛙」の寓話と同じである。物価のわずかばかりの上昇は気持ちがいいかもしれない。しかし、インフレが更に進み、これは熱いと気がついた時には既に茹であがっているのである。
ある人はこれに反論するかもしれない。「デフレが進行して、気がついたら水面が凍り付いていたらやっぱり蛙は死ぬでしょうね」 それも真実である。だが、蛙は本来、冬を越す場合には冬眠という技を持っている。冷凍庫に入れて急速に温度を下げれば蛙も逃げようがないが、季節が移り変わって気温が下がれば、それなりの対症法を知っているものだ。これに対しても人間が不況に対応して冬眠してしまったら経済はもっと冷え込むのではないかというご指摘もあるだろう。だから不況対策は無用だとは言わない。しかし、対策はデフレ対策である必要はないだろう。蛙の寓話は相応しくなかったかもしれない。しかし、蛙が生き続けるためには水温を上下させることもあれば、蛙自身に耐熱・耐寒具を着けさせたりもできるし、蛙自身が進化することもあるかもしれない。意図的にビーカーの湯温を高めていって、いつでもその湯温をコントロールできるサーモスタットがあれば良いが、信用という熱量変換装置は一旦加速し始めるととめどなく暴走する装置でもある。制御技術の開発が先にありきである。
海外からは著名な経済学者を始めとして、日本にデフレ対策を取るように求める声が多いのも事実である。しかし、彼らははっきり言って無責任な第三者である。日本の失政を批判して、新味のある政策を声高に唱えれば目立てるというだけの場合も多い。それが将来結果として失敗しても彼らには関係はない。失敗が明らかになるまでに彼らは講演料や原稿料で富を築けるし、日本がインフレになったところで自分の財産は毀損しない(むしろ価値が増すかもしれない)。デフレ対策を主張する人々には、ぜひとも自分の資産を国債に投資してもらいたい(今の利回りだと可哀想かもしれないが、彼らが主張するインフレ率2-4%以上の利息を与える必要はない)。そうでもしないと、無責任な議論が横行しそうだ。