投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:51:27:
回答先: Re: 「Rape Of Naning」⇒レイプ・オブ・ナンキン です 投稿者 ぽよよ 日時 2000 年 5 月 09 日 00:29:53:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)
【序文】
同じ人間に対して残酷な行為を犯す人類の歴史は長く、そして悲しい物語として語り継がれています。しかしたとえこの恐ろしい出来事が事実だとしても、その中にも残酷の度合いというものがあるはずです。第二次世界大戦中に起きた南京大虐殺の強烈さや規模と比較できる残虐行為は世界史上、皆無に等しいでしょう。
アメリカの人たちによる第二次世界大戦は、空母に搭載された日本軍の戦闘機が真珠湾を奇襲した1941年12月7日に始まったと考えられていることでしょう。ヨーロッパの人々はヒトラーのルフトワーフやパンサー軍がポーランドを襲撃した1935年9月1日をその日としていることでしょう。アフリカ人もまた戦争が始まった日はムッソリーニが起こしたアビシニア侵略の初期段階だと考えていることでしょう。しかしアジアの人々にとっての戦争の始まりは、日本が満州大陸居住のために軍隊を東アジアに上陸させた1931年時にさかのぼらなければなりません。
ちょうどヒトラーがこの時から5年後に実行したように、日本人は近隣諸国の規則と統治国家の建設に着手することを目的に当時の最新兵器や、自分たちが優れているという人種優越意識を抱いて満州大陸に上陸しました。満州は満州国政府を設立した日本人たちに急速に陥落され、表向きは中国で廃した皇帝が操り人形として擁されましたが、実権は日本軍に全てにぎられて動かされました。4年後の1935年にChaharや河北省の大部分が占領されて、1937年には北京、天津、上海へと進攻され、ついに南京も陥落されました。1930年代は中国にとり本当にきびしい10年間でした。実に第二次世界大戦が終了する最後の年の1945年まで、日本人たちは中国の土壌から撤退しませんでした。
日本軍によるこれら14年間におよぶ支配は、紛れもなく言葉で言い表せない無数の残酷な事件の足跡を残しています。私たちはこの征服軍下に屈服させられた多くの街や小さな村々で起こった全ての事実をもはや知ることはできないでしょう。しかし皮肉にも当時に惨劇を目撃して外の世界に言葉を送った外国人たちや、目撃者として生き残った中国人たちから南京で起こったいくつかの話を知ることが出来ました。ある一つの事件が抑制が効かない軍部が犯した冒険のちょうど表面下で起こった絶対的な悪の見本となるならば、その瞬間がこの「南京大虐殺」事件の中にはあります。この本はそれを伝える本です。
この虐殺に関する多くの詳細事項は、日本人以外の世界ではまだ未解決のままです。日本は1937年11月に上海を征服した後に新しく設立された中華民国の首都である南京を激しく攻撃しました。12月13日に街が陥落すると日本兵たちは世界史上、類を見ない残虐な乱行を始めました。多くの若者が検挙されて街の外に集められ、マシンガンになぎ倒され、銃剣の練習台に使われ、ガソリンをかけられて生きたままの状態で焼かれました。何カ月もの間、街の通り上には死体がどっさりと積まれ、それが腐っていく悪臭が放たれました。数年後にIMTFE(極東国際軍事裁判)の専門家が、1937年後半から1938年前半にかけて260,000人以上の南京の一般市民が日本兵によって死に陥れられたと推定しました。また一方では350,000人以上と推定している専門家たちもいます。
この本は、かつて南京において日本人によって犯された無慈悲で残酷な行為についてを有りのままに概要するものであり、その目的とするものは、歴史上まれな悪魔事件にふさわしい量的な記録を打ち立てることではなく、この事件から教訓が学ばれ、警告が発されるように解釈してもらいたいということです。しかし、よく程度の違いが本質的な違いとなって反映されるので、読者の人たちへ60年前に南京という名の街で起きた大虐殺の大きさを伝えるために、まずいくつかの統計事例を使用することにします。
ある歴史家が南京で殺された人たちの手をつなぎ合わせれば、南京からHangchowまで伸びる200数十マイル(320km以上)の距離に等しいと証言しています。彼らの血の量を測ると1,200トンとなり、死体を列車に積み込むと2,500台分に収容され、積み重ねると74階建てのビルの高さに届くと言われています。
殺害された人たちの数値だけを取り上げてみても、南京大虐殺はあらゆる時代に起きた残虐行為の中でも類のない最悪な事件だということがわかります。日本人の犯した虐殺は、ローマに滅ぼされたアフリカ北岸の古代都市カルタゴ事件(150,000人のみの死者数。)やスペイン宗教裁判所のキリスト教軍事件や、1398年にデリーにおいて100,000人の囚人が殺され、1400年から1401年にかけてシリアに2つの頭蓋骨の塔が建てられたチムール(アジアの西半分を征服し、大帝国を建てたモンゴル王)の奇怪話さえも凌いでいます。
今世紀に入り殺人兵器が完全に洗練されて、ヒトラーが600万人のユダヤ人を、スターリンが4000万人以上に上るロシア人を殺害したのは紛れもない事実ですが、これらの虐殺は何年にも渡ってもたらされたものです。南京大虐殺の殺害は、わずか数週間の間に実行されたということに注目しなければなりません。
事実、歴史上で起きたどの破壊戦争を例にとってみても、南京大虐殺は最悪な残虐事例と言えるでしょう。その大きさを想像するために、もう少し統計事例を参照してみましょう。南京(中国大陸にあるただ一つの街)で打たれた死の鐘は、全戦争期間を通じてヨーロッパ諸国で亡くなった民間死傷者の数値を上回っています。(イギリスでは計61,000人の民間人を失い、フランスでは108,000人、ベルギーでは101,000人、オランダでは242,000人の命が失われました。)空襲爆撃は破壊するものの中でも、最も恐ろしい道具として考えられていますが、戦争中に起こった最悪の空襲事例でさえ南京での死者数を越えてはいません。イギリスが東ドイツに進攻してドレスデン市を爆撃した時より多くの人々が、南京では命を失いました。(当時、ドレスデンでの死者数は225,000人とされていましたが、現在ではもっと客観的な報告が認識され、死傷者の数は死者数60,000人、負傷者数30,000人以上とされています。)どう考えてみても最も保守的な死者数260,000人から最高350,000人という数値は衝撃的なものです。南京大虐殺での死者数は、アメリカ軍が実施した東京空襲(およそ80,000?120,000人の死者数)や、1945年終わりの広島、長崎への原子爆弾投下(それぞれの街で死者数およそ140,000人と70,000人)での死者数を大きく上回っています。
そして南京大虐殺は虐殺された人々の数値だけではなく、それぞれの人々に与えられた残酷な殺され方に対しても、よく考えなければなりません。中国人の男性たちは銃剣の練習台にされ、首切りコンテストに使用されました。およそ20,000人?80,000人の中国人女性が強姦されました。大勢の兵士が強姦することを超えて、女性たちのはらわたを引き出し、胸を切り裂き、彼女たちを壁に釘で生きた状態のまま貼り付けました。家族たちの見ている目の前で、父親は娘を、息子は母親を強姦するように強制されました。生きたまま埋めたり、去勢したり、器官を切り刻んだり、慣例的に人々を焼き殺しただけではなく、鉄のフックに人々の舌をかけて吊るしたり、腰まで土に埋めてシェパード犬にかみ殺されるのを見物したりするような悪魔のような拷問が行われました。この様な吐き気を催す出来事は、街のナチスさえも震えさせ、「凶暴機関」の大虐殺と宣告された惨状でした。
まだ南京大虐殺は不明瞭な事件として留まったままです。日本への原爆投下やユダヤ人虐殺と違い、南京で起こった虐殺に関することは実のところ、アジア以外の人々にはほどんど知られていません。アメリカ合衆国で出版された歴史資料のほとんどは、この虐殺事件に関しておろそかにしたままです。アメリカ中等学校向けの歴史教科書を徹底的に調査してみても、南京大虐殺についてはほとんど述べられていません。そしてアメリカ社会で読まれる第二次世界大戦に関する歴史書物は、広範囲に渡ろうが、「限定」されていようが、全く南京大虐殺の詳細を論じていません。たとえば第二次大戦に関する写真出版物で長年ベストセラーを続けていた「The American Heritage Picture History of World War II」にもこの事件の写真が全く載っておらず、一文字すら記述されてません。ウィンストン チャーチルの有名な「Memories of the Second World War」(1959年刊行、全1065ページ)やヘンリ ミッシェルの「Second World War」(1975年刊行、全947ページ)においても、この大虐殺について一文字すら見あたりません。ジェルハルド ウェインバーグの「A World at Arms」(1974年刊行、全1178ページ)では南京大虐殺という言葉が2回だけ述べられていました。 ロバート レッキーの「Delivered from Evil: The Sage of World War II」(1987年刊行、全998ページ)だけが、一段落で南京虐殺について「自分たちの勝利を卑しめるヒトラー下のナチスでさえ、マツイイワネ大将下の日本兵たちの暴虐にはおよばない。」と語られてました。
私が初めて南京大虐殺について学んだのは、まだ幼い少女の頃でした。この話はアメリカ中西部の学生街の教師として穏やかな生活を見つける以前に、戦争と革命の日々を体験した私の両親から最初に聞かされました。両親は第二次世界大戦の真只中に中国で育ち、戦後に一族でまず台湾へ行き、そして最終的にアメリカへ亡命してハーバード大学で学び、科学の分野に従事しました。30年間、両親はイリノイ州アルバナ平野の教養社会の中で平和に暮らし、物理学と細菌学の研究を指導しました。
しかし両親たちは断固として日中戦争の恐怖を忘れないばかりか、私にさえも忘れさせないようにし、特に南京大虐殺については記憶に印象づけました。両親はその出来事を見た訳ではありませんでしたが、子供の時に人から聞かされた話を私に告げました。私が聞いた日本人という者は、赤ん坊を2つに切るだけではなく、3つにも4つにも切り裂いていたという事でした。揚子江は数日間、血で赤く染まって流れていたらしいです。戦争中、合計およそ1000万人以上の中国人が殺されたことや、日本人たちが犯した残虐な事件を象徴する南京大虐殺について生き残った人々は激怒し、声を震わせながら語っていたと両親は言っていました。
幼年時代全体に渡って、南京大虐殺は言葉に表せない悪魔の比喩となって私の心の奥底に留められていました。この事件は人間の存在意義や重要性が欠如されています。作り話と事実を区別する一線を引くのは困難なことです。私は学校に通っている間、近くの公立図書館で、この大虐殺の真相について研究しようとしたことがありましたが、何も発見することはできませんでした。そして奇妙な衝撃にぶつかりました。もし両親が言っていたように南京大虐殺が本当に世界史上、類がない人間のした最悪な残虐行為のエピソードだとしたら「なぜ誰もこの大虐殺についての本を書かないのだろう?」。しかし子供だった私は巨大なイリノイ大学図書館の機能を利用して、この真相を追い続けることはなく、この好奇心はすぐに他へ逸れていきました。
南京大虐殺が再び私の人生に影響を与えるのにそれから20年近くが経過しました。この期間中に私は結婚して、米国カリフォルニア州にあるサンタバーバラ市で作家としての静かな日々を送っていました。ある日、映画製作者の友人から東海岸のプロデューサーたちが最近、南京大虐殺のドキュメント映画を完成させたが、映画を配給する資金問題に直面していることについて聞きました。
彼のこの話が再び、私の興味に火をつけました。直ちに私はこのドキュメント映画の二人のプロデューサーたちへ電話をかけました。最初に話したのは邵子平(Shao Tzuping)という人物でした。彼は以前、「紀念南京大屠殺受難者協会」の代表を勤めていて、現在はニューヨーク市の国連で働いている経歴の持ち主です。また彼はビデオ映画「マギーの証言」の製作にも携わっていました。もう一人は湯美如(Nancy Tong)というクリスチョイと共にドキュメント映画「天皇の名において」を監督して、製作したフリーの映画製作者でした。邵子平と湯美如は私を南京大虐殺に関する活動をしている人々の輪に入れる協力をしてくれました。私のような第一世代のアメリカ在住中国人やカナダ在住中国人の多くは南京大虐殺に生き残った被害者たちが生きている間に、ドキュメント記録を製作したり、世間に広告したり、虐殺の賠償責任を要求するためにはこの事件の目撃者が必要だと感じていました。他の人々はこの戦争時の恐ろしい出来事を子供や孫たちへ伝え、北アメリカ文化で忘れてはならない歴史の重要な一部となるように願っていました。
中国社会が中華人民共和国への不満を全世界に公表した1989年の天安門事変は記憶に新しい新興の運動です。この資本主義活動から南京で起こった真実は明るみに出て、複雑なインターネットの環境を通じて果てしない広がりを見せました。サンフランシスコ湾岸地域、ニューヨーク、ロスアンゼルス、トロント、バンクーバーのような中国のあらゆる人口密度の高い街の中心部には、日本人戦犯が第二次世界大戦中に犯した犯罪事実を広める中国人活動家たちの連盟や教育組織が形成されています。彼らは博物館や学校で南京大虐殺の映像やビデオや写真を展示したり、インターネット上に説明や写真を掲示したり、アメリカ大手新聞「ニューヨークタイムズ」の1ページ全体に広告を載せたりするような活動を行なっています。さらに活動グループの中には科学やコンピューター分野に洗練された者もおり、ボタン一つで2500万人に上る世界中の読者にメッセージを送ることができる者もいます。
私の幼年期の南京大虐殺に関する記憶は単に家庭内の話にすぎませんでしたが、1994年12月に、世界的な連盟の後援によって開催された世界抗日戦争史実維護連合会(第二次世界大戦アジア史を保存する世界同盟)の会議に参加した時、この口頭で伝えられた歴史事実は私に大きな衝撃を与えました。会議は米国西海岸にあるサンノゼ市郊外で、シリコンバレーの中心地でもあるカリフォルニア州クーパチーノ市で行われました。会議場で開催者たちは、私が今までに見た何よりも強烈で恐ろしいポスターサイズの写真を紹介しました。南京大虐殺について様々な逸話を聞いていたにもかかわらず、心の準備が何も出来ていませんでした。その写真には、首をはねられた頭や、引き裂かれた腹や、強姦犯たちに全裸で様々な恥ずかしいポーズを強制されて、苦悩と恥辱に表情をゆがませた女性たちなどの有りのままの姿の白黒写真が映し出されていました。
これを見た瞬間、私は命だけではなく、人間の体験の儚さを思い知りました。私たち誰もが死について若い頃に考えます。誰かが突然にトラックやバスに惹かれて事故に遭い、直ちに命を奪われるかもしれない可能性があるということを私たちは認識しています。そして特別な信仰でもない限り、その様にして起きた死は無意味で平等でない不幸な事故として考えられることでしょう。しかしまた一方で、私たちは大半の人間に割り当てられた命の尊さや死んで行く過程についても認識しているはずです。仮にバスがあなたに衝突し、怪我をしている間に誰かがバッグや財布を盗むかもしれません。しかしほとんどの人々があなたの尊い命を救おうと救助に来ることでしょう。誰かが救急車を呼び、誰かが急いで警察官に知らせるために道路を疾走するでしょう。誰かがコートを脱ぎ、あなたの頭の下に敷いてくれることでしょう。たとえこれがあなたの人生の最後の瞬間だとしても、誰かがあなたを気にかけているという小さいが本当の快楽を感じながら息を引き取ることでしょう。クーパチーノ市で壁にかけられた写真には、一人の人間だけでなく何百人、何千人にもおよぶ人々の希望が絶やされ、簡単に死に陥れられ、次の日はそれらの死が全く無意味になっている情景が映し出されていました。しかもこの事実以上にさらに大きく伝えたいのは、これらの死(人類歴史上、無視できない恐ろしい悲劇の死)をもたらし、被害者の面目を失わせる最大の苦痛と屈辱を与えた者たちが、これらの事実を無効にしようとしていることです。私は突然、この人類の進化を逆戻りするような死に対するひどい侮蔑を誰かが忘れないように世界に働きかけない限り、支障のないコンピュータープログラムの突発事故のように処理されてしまうのではないかと混乱しました。
会議中に私は南京大虐殺に関する2つの小説「Tree of Heaven」と「Tent of Orange Mint」(両書共に1995年出版)と虐殺についての写真集(The Rape of Nanking: An Undeniable History in Photographs,1996年刊行)が既に出版されていることを知りました。しかし同時に、南京大虐殺の全過程を詳しく説明している英語で書かれた本がまだ存在していないことも知りました。アメリカ合衆国には常に本のような生の情報材料が存在し、それらを利用して私はこの虐殺の歴史について深く、徹底的に研究しました。当時、中国にいたアメリカ人の宣教師やジャーナリストや軍人士官たちは、それぞれ個人的にこの事件に関する日記や映像や写真などの記録を所持していました。それなのにどうしてどのアメリカ人の作家や学者たちは排他的に専念してこの虐殺についてのノンフィクション本や論文を書かなかったのでしょうか?
私は世界歴史上でこの虐殺がなぜ比較的、論じられていないかという不思議な謎について断片的にでも、すぐに答えることが出来ます。南京大虐殺は、被害者たちが口を固く閉ざして語らなかったために、広島の原爆や他の虐殺ほど世界の意識の中に浸透していきませんでした。
しかしそれぞれの解答がまた新たな疑問となって生まれ、私はなぜこの被害者たちが正義のために立ち上がらなかったかを疑問に感じました。あるいは被害者たちが実際に泣き叫んだとしても、どうして彼らの苦悶が認識されないのだろうとも考えました。そしてすぐにこの沈黙のカーテンを操っている裏に政治が絡んでいるいうことが判明しました。中華人民共和国や中華民国だけでなく、アメリカでさえも、冷戦が根底にあることを理由に歴史上からこの事件を放置していました。1949年に中国で起きた共産党革命後、中華人民共和国や中華民国は日本との貿易や政府承認を巡り争っていたために、イスラエルがドイツへしたような戦争賠償金を要求しませんでした。アメリカでさえ、ソビエト連邦や中国本土の共産勢力の脅威に直面していたために、以前の敵国である日本に対して友好と忠誠を約束しました。この様な冷戦の緊張状態の中で、日本は、第二次大戦中、組織的に中国人へひどい行為を犯したことに対する激しい批判を浴びることから逃れました。
さらに日本国内にある脅迫的な環境が、南京大虐殺を語ることを解放したり、論議したり、事件の真相をもっと公表することを抑制しています。日本国内で日中戦争について独自の思想を表現することは、その人の経歴や人生そのものにも関わってきます。(1990年、拳銃を持った狂人が昭和天皇に対して戦争責任を叫んだ当時の長崎市長モトシマヒトシ氏の胸部へ銃弾を浴びせました。)この普及率の高い危険意識が、多くの真剣な学者たちに日本の公文書情報を検分し、この問題に対する調査を実施することを思いとどまらせています。事実、肉体的な危険にさらされるので、中華人民共和国政府は学者を日本へ旅をさせることをほとんど許可していないということを私は南京で聞きました。この様な状況下で南京大虐殺についてを供述している日本の公文書情報の材料を入手することは、他の国家に属している人々にとって極めて困難なことです。加えて南京大虐殺に参加した数名の日本退役軍人たちが最近になり、当時に犯した追放活動や殺人についての話を勇気を出して公表しましたが、大半の人々は当時の記憶に対して、まだ固く口を閉ざしたままです。
この本を書いている間に当惑と悲しみを感じたことは、この過去の出来事を無効にしようとする日本人の粘り強い拒絶でした。日本はドイツが戦争の償いのために被害者たちへ支払った1パーセント分も賠償しておらず、その上、ほとんどのナチス戦犯が投獄されなくても公的生活から阻害されたのと違い、多くの日本戦犯たちは、戦後も産業界や政治の重要な地位に居座り続けました。ドイツが虐殺の被害者たちに何度も謝罪しているのに対し、日本人は現在も東京で戦争犯罪者たちを宮に納めて大事にしています。これに対してあるアメリカ人の戦争被害者は、「ベルリンの中心にヒトラーの大聖堂を建設する。」ことに等しいと非難しています。これに対して、あるアメリカ人の戦争被害者は、「ベルリンの中心にヒトラーの大聖堂を建設する。」ことに等しいと非難しています。
この長くて難しい問題をくまなく調査する動機が強く与えられたのは、これだけ多くの証拠があるにもかかわらず、南京大虐殺が起きたことを頑固に否定する多くの重要な地位にいる日本の政治家や学者や産業界のリーダーたちのためでした。ドイツでは、歴史の教育課程においてユダヤ人虐殺を飛ばして教えることは違法とされているのに対し、日本人は教科書から南京大虐殺の参照を組織的に何十年間も取り除いています。また彼らは博物館から南京大虐殺の写真を一掃し、自分勝手に事実を書き換えて、現実世界にこの大虐殺が伝えられることを削除し続けています。さらに日本国内にいる権威のある歴史教師たちの中には、南京大虐殺記録を疑わしい物として国家への服従を遂行する右翼グループに属している者もいます。ドキュメント映像「天皇の名において」の中では、ある日本人歴史家が、「日本にとり、たとえ20人、30人の人々が殺されたとしても大きな衝撃だったでしょう。それまで日本軍は模範的な軍隊でした。」という言葉と共に南京大虐殺の全過程が削除されています。この様な歴史事実を歪める意図的な日本人の行動は、私に強くこの本の必要性を感じさせました。
またこの問題と同じぐらい強く、この本は別のことにも応じています。近年、この行動に対する重要性を日本に直面させる誠実な試みは、「ジャパンバッシング(日本非難)」となって形を現わしています。私は今世紀前半に日本がアジアを含めた世界各国の中で、唯一の帝国軍隊だったということを論じている訳ではありません。中国でさえ、隣国に対して領土を拡張しようと企て、ヨーロッパ諸国が前世紀に商業権利を拡張するために中国を分割したように、朝鮮半島の境界線についての議論を日本としました。
重要なことは、南京で命を取られた男性や女性や子供たちだけでなく、日本国内の人々に対してさえも、日本軍の犯した虐殺行為を公的に批判するものは全て国内の人々を酷評すると見なされ、ひどい仕打ちを浴びていることです。この本は日本人の性格や虐殺で犯した行為を明らかにする民族の起源についての記録を伝えることが目的ではありません。この本は私たちの全てが悪魔にされたり、慈悲深い社会抑制の薄い仮面を剥がされたり、またはそれを強化されたりする様な文化暴力についてを述べています。ドイツは今日、ユダヤ人たちが60年近くドイツ人に対して虐殺を忘れさせないようにしているため良い国になりました。アメリカ南部も悪質な奴隷制度やジムクロウ主義が解放へと向かい改善されました。日本文化はわずか50年前に起こした出来事がどうして誤っていたかを世界各国だけでなく、自国が認めるまで前進しようとはしていません。事実、私は海外に在住する数人の日本人が南京大虐殺の会議に参加しているのに対し、驚き、嬉しく思いました。その一人が「私たちは出来るだけ真相を知りたい。」と言ってくれました。
この本は関連するが、個別の二つの虐殺について述べられています。一つは日本軍が敵国首都で数え切れないぐらい多くの無実な市民をなぜ殺したかという南京大虐殺自体についての話です。
もう一つは中国人やアメリカ人が沈黙している間に、日本人が公共社会から虐殺事実を削除し、歴史上に本来おかれる被害者たちの立場がどのように奪われたかについての話です。
この本の最初の部分に書かれている「虐殺の歴史」は日本人小説家、芥川龍之介の短編小説「薮の中」を基に製作された有名な映画「羅生門」の影響を強く受けています。これは10世紀に京都で起きた殺人事件についての話です。本の表紙には話が簡略されて「ある盗賊が旅をしている侍夫婦に声をかけた。妻は犯され、夫の侍は死体で発見された。」と書かれています。しかしこの文章は登場人物たちがこの事件について各々の見解を持って供述することでもっと複雑になります。盗賊と妻と死んだ侍、そして犯行現場を見たという目撃者たちは、それぞれ起きた出来事を違う見解で供述します。この本を読み、全ての回想をまとめたり、部分的に信用したり、疑問を投げかけたり、評価したり、そしてこの過程を通じて客観的に映し出される物よりも主観的に独自の見解をつけるのは、他ならぬ読者自身です。この本の内容は刑事裁判として扱われる課程を含んでいなければなりません。それは歴史の核心をつきます。
この本は3つのそれぞれ違った見解から述べられています。一つ目は日本人から見た見解です。これは日本軍が何を、どの様に、なぜしたかを説明する組織的な侵略についての話です。二つ目は中国人被害者たちから見た見解です。これは中国政府が外部の侵略者から民衆を守れなくなった時に起きた街の運命についての話です。この項目では、本人たちが経験した当時の挫折感や絶望感や背信や生存ということが述べられています。三つ目は欧米人から見た見解です。この外国人たちは、たとえ一瞬でも中国歴史上の英雄にでした。少数の西洋人たちは危険をかえりみず虐殺時の中国人たちを救い、世界に目撃した事実を公表しました。そして本のこの後の部分には、戦後にアメリカ人やヨーロッパ人たちが自分たちの国家に伝えられたことに対して都合良く無関心になったことについてが述べられています。
さらに本の最後の部分は50年間以上も南京大虐殺の出来事を世論意識の中から排除させている陰謀について説明しています。私は最近、この歴史事実を歪める行為が間違いなく実施されていることを証明しようとしています。
率直に事実を報告するには、今世紀の日本人たちの性質と照らし合わせて、人間の集まりとしての彼らがどの様にこの記憶喪失や拒否反応に対して対処し、養育し、持続させて行ったかを明らかにする必要があります。この事に対する彼らの反応は、歴史本上でこの悲惨な事実を空白にする問題以上のものがあります。日中戦争時における日本軍の犯した最も卑劣な面は、日本の学校生徒たちからこの教育を省いたことです。また日本は第二次世界大戦の扇動者ではなく被害者であると、よく出来た作り話をでっち上げ、戦争に対する国家任務を偽装しています。広島や長崎に投下された原爆事件が、歴史上でこの作り話を維持させています。
世界世論の前で日本が戦争時に犯した行動に対して、はっきりと自責の念を抱くまで日本は裏切り国家であり続けることでしょう。戦争直後からドイツは戦争期間の悪夢行為を認識させられたのに対し、日本の首謀者たちの中には、有罪判決を宣告されたにもかかわらず、文明社会の道徳裁判から逃れるように巧みに対処し、裁判を避け続け、他の違う犯罪活動を続けている者もいます。栄誉のある小説家エリー ウィーゼル氏は数年前に虐殺事件を忘れることは二度、殺害することに等しいと警告しました。
私が大きく希望することは、毎年減少している過去の声が永遠に消滅する前に、この本によって他の作家や歴史家たちが南京での生存者たちの話を調査するように奮起してほしいということです。可能ならば日本がこの事件に対する責任を認識する良心を引き起こすことを望みます。
この本は「過去を思い出すことが出来ない者は、繰り返し行うことを強いられるだろう。」というジョージ サンタヤナ氏の心に残る不滅の警告に基づいて書いています。