投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:58:57:
回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【4】戦慄の六週間 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:58:00:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【4】戦慄の六週間 つづき
南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。
おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。
そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。
さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。
家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。
日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。
しかし簡単に捕まらない女性たちも数多くいました。その大半は燃料庫の中や、積み重ねられた草や麦わらの下や、豚の檻の中や、ボートや無人家の中で何カ月間も日本兵に見つからないように隠れていました。地方の女性たちは日本兵が踏みつけて見つけようとした地面の下にある隠れ穴の中に隠れました。ある仏教尼僧と小さな少女は死体で満たされた溝の中に横たわり、5日間、死んだふりをして強姦や殺人から逃れました。
女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。
しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。実際に敵に戦いを挑む女性はほとんどいませんでしたが、抵抗して追い散らしたという話も実在します。ある学校教師は射殺される前に5人の日本兵を銃撃しました。そして有名な話の中に、日本兵に抵抗して37箇所の銃剣刀傷を受けながら奇跡的に生き残り、60年近くもこの話をたくましく語り、演じて活動している李秀英という女性の話があります。
1937年、当時18才だった李秀英は軍事技術者の男性と結婚していました。政府が南京から避難したと同時に、彼女の夫は中国兵でぎゅうぎゅう詰めの汽車に乗って街を去りましたが、李秀英は当時妊娠6、7カ月の状態で、混雑した列車に乗ることの危険を懸念して後に出発する予定でした。
李秀英と彼女の父親は南京の他の大勢の中国人たちと同様に、外国人に守られている安全地帯内に逃げ込み、避難キャンプとして改造された小学校の地下室に隠れていました。しかしこのキャンプも地帯内の他の場所と同じく、日本兵が点検や侵入を繰り返し行う支配下にありました。12月18日に日本兵の集団が学校に侵入して来て、まず若い男性たちを外へ引きずりだして行きました。そして翌朝になると再び女性たちのために戻って来ました。日本兵が妊娠中の人妻に何かすることを恐れた李秀英はある衝動的な決心をしました。彼女は地下室の壁に向かって頭をぶつけて自殺を犯そうとしました。
意識が回復した時、彼女は地下室の床にひかれた小さなカンバスの上に寝かされていました。日本兵は数人の若い女性を引き連れて、既に立ち去っていました。ベッドの上で呆然としていると狂気じみた考えが頭をよぎりました。「この建物から逃げ出すと日本人の強姦魔の中に身をさらす事になるかもしれないが、何もせずにただ待っていれば、おそらく日本兵は自分のために戻って来るだろう。」しかし李秀英は結局、そのままそこに残ることにしました。「日本兵が戻って来なければ、全て丸く収まるが、戻って来た時は死ぬつもりで戦おう。」
まもなく三名の日本兵が階段を駆け降りてくる重い靴音が聞こえ、その内の二人が数人の女性を襲い、叫ぶ彼女たちを部屋の外へ引きずり出して行きました。残った一人がベッド上で静止して寝ている李秀英を一心に凝視していました。誰かが李秀英は病気だと告げましたが、その兵士は部屋にいる他の全員を廊下へ追い出しました。
ゆっくりと兵士は前後に歩きながら彼女を鑑定していました。すると.........兵士が何が起きたのか気づく前に彼女が行動し始めました。ベッドから飛び出して兵士の銃剣を引ったくり、身を壁に向けて投げました。李秀英は「彼は混乱していました。女性が反抗するとは考えてもいなかったんでしょう。」と述べています。兵士は銃剣を握っている彼女の手首を掴みましたが、李秀英は空いた手で襟首を握り、懇親の力で腕にかみつきました。兵士が完全武装しているのに対し、李秀英は動きにくい絹のChipaoを身に着けていましたが優勢に戦い続けました。そして兵士が劣勢に陥り、助けを求めるまで、そのまま掴み合い、蹴り合いを続けました。
仲間の日本兵が駆けつけて来ると、信じ難い光景がそこにはありました。彼らは銃剣で彼女めがけて突進しましたが、同志が邪魔になり効果的に突き刺すことが出来ませんでした。李秀英が戦っていた兵士は背が低くて小さかったので、彼女は彼の足を完全に浮かし、突きの攻撃をかわす盾として使用しました。しかし最終的に彼女の頭部へ銃剣の狙いを定められて、顔を切り刻まれ、歯を折られました。口内が目に入るほどの血で溢れました。「血が壁やベッドや床上などのあらゆるところに飛び散りました。私の心に恐怖心はなく、ただ激怒があるだけで、一心に戦い彼らを殺すことだけを考えていました。」と李秀英は述べています。結局、兵士の一人が彼女の腹に銃剣を突き刺し、全てが暗闇になりました。
兵士たちは彼女が死んだと思い、その場を立ち去りました。李秀英の遺体は父親の元へ運ばれてきましたが、彼は彼女が息をしている感覚をとらえられずに最悪の事態を想定しました。父親は学校の裏へ彼女を運び、誰かに墓穴を掘ってもらうように頼みました。しかし幸運にも埋葬される前に、まだ息があり、口から血の泡を吹いているのを誰かが気づきました。友人たちが直ちに彼女を南京大学付属病院まで運び、37箇所の銃剣刀傷を医者に縫ってもらい助かりました。しかしその日の夕方の意識不明中に子供は流産になってしまいました。
彼女の夫はこの知らせを聞くと直ちに軍部へ3カ月間の休暇と南京へ帰る費用借用を願い出ました。そして1938年8月に彼は戻り、顔が腫れ上がって網目状に縫われ、頭髪を刈られて髪の毛を逆立てた彼女の姿を見ました。
李秀英は生涯取れることのない傷跡の苦痛と困惑に苦しんだことでしょう。この一連の期間、彼女は鼻水を垂らして涙を流し続けました。(李秀英は日本兵に銃剣で白目を突き刺されていたにもかかわらず、奇跡的に失明から逃れました。)彼女は何度の鏡をのぞき込み、あの1937年12月19日のひどい日を思い出させる傷跡を見ました。南京のアパートを訪問中に彼女は私に言いました。「58年後の今になり、ようやく皺が傷跡を覆い隠す様になりました。しかし若い時に顔にあった傷跡は目立ってひどいものでした。」
この日本兵に対する逆襲行動を李秀英は自分の性格と独特の家族背景が原因だと考えています。若い頃からおとなしくする様に教えられている一般的な他の中国人女性と違い、彼女は女性らしい影響を全く欠いている家族で育ちました。李秀英は13才の頃に母親を亡くし、その後、屈強の軍事家族の男性の中で暮らしました。父親や兄弟や叔父たちは皆、兵士か警察官のどちららかという影響もあり、おてんば娘に育ちました。また若い少女の頃は父親が敢えてカンフーを教えなかったほどの短気者で、近所の男の子を恐れることなど全くありませんでした。南京大虐殺から60年近く経った今でも李秀英は多くの子供や孫たちに囲まれて、病的な短気の評判も兼ね揃えて健康に人生の情熱を保持し続けています。一つ後悔することは父親からカンフーを教わらなかったことだと彼女は言っています。教わっていれば3人の日本兵全員を容易く殺せたかもしれません。
『死で打たれた鐘』
一体、何人の人々が南京大虐殺で命を失ったのでしょうか?極東国際軍事裁判(IMTFE)中に南京大学史学部教授だったマイナーシールベルツは死者数の推定について問われた時にこう答えました。「規模が大き過ぎて、どこから始めたら良いかわかりません.......。虐殺は測定不可能なぐらい大規模なものでした。」
中国軍事専門家のLiu Fang-Chuは430,000人の死者数だと発議しました。1946年、南京大虐殺犠牲者追悼記念館の役人や南京地方裁判所の訴訟代理人たちは最低300,000人が殺害されたと主張しました。IMTFE裁判官たちは260,000人以上の人々が虐殺されたと最終結論を下しました。日本人歴史家のフジワラアキラは約200,000人という数字を出しています。正確な計算をせずに、虐殺が終結する前の2月に南京を離れたジョンラーベは50,000人?60,000人が殺害されたと推定していました。日本人作家のハタイクヒコは死者数は38,000と42,000の間だと主張しています。また日本内には3000人ぐらいだと言っている者たちもいます。しかし1994年に満州の前日本私有鉄道会社から1938年1月からの3カ月間に残忍な一分隊が南京で30,000人以上に上る死体を遺棄していたことを暴露する公文書録が見つかりました。
おそらくこれに関してJiangsu社会科学学校の歴史家Sun Zhaiweiほど徹底的に統計を出している者はいないでしょう。彼は1990年の「南京大虐殺と南京人口」と見出しされた学者論文で、1937年、日本と中国が交戦する前の南京人口は国税調査において100万人を越えていたと発表しました。
Sunは中国公文書資料や中国軍の役人たちの回顧録や赤十字会南京支部の記録書などの調査に基づき、日本軍占領時に街の中には最低500,000人の長期南京居住民(残りの半分は既に街を離れていました。)と90,000人の中国兵と10,000人の移住民などの約600,000人から700,000人の人々が残っていたと確定しています。
Sunは二つ目の論文で死者数を推定しています。南京公文書や中国第二国家公文書の中には個々の家族や地元の慈善事業団体や日本軍下で操られていた中国政府に提出された記録書があります。Sunはこの記録書を入念に調査して、死体埋葬活動を南京の慈善事業団体が最低185,000人、個別が最低35,000人、日本軍支配下の地元政府が7,400人以上をしていたことを見つけました。(埋葬記録書の中には犠牲者の性別や埋葬された場所などを詳細に記しているものもありました。)Sunはこの中国人埋葬記録書に基づき、227,400人以上の死者数が南京大虐殺でもたらされたと算出しています。
しかしこの統計上の風船は、Sunの論文が書かれる約40年以上も前に、ある日本人捕虜が告白した驚くべき要因を考慮すると、さらに大きく膨れ上がります。1954年、日本帝国軍の少佐だったオオタヒサオはLiaoning北東地方の戦犯収容所で自分の裁判を待つ間に、日本軍が虐殺死体の処分方法として、焼却したり、投げ捨てたり、埋葬したことを告白している44ページに上る報告書を提出しました。これによると、遺体の大半は南京北西部の川近郊の地域江口からのもので、日本兵は波止場に停泊している各々のボートに50体の遺体を積み上げて川の中に投げ捨てたり、またはトラックで火葬や埋葬が出来る場所まで遺体を運び、虐殺の証拠隠滅を図りました。
1937年12月15日からの3日間に処分された遺体数は、オオタの部隊が19,000人、近隣の部隊が81,000人、また別の部隊が50,000人を南京の川へ投げ捨て、計150,000人に上りました。Sunは最終的に先ほどの埋葬記録の集計にこのオオタの数値を足して、南京大虐殺の死者数は思わずよろめく377,400人に上ると結論を下しています。この数値は広島、長崎で投下された二つの原爆死者数でさえ上回るものです。
たとえこのオオタ説が疑い深い嘘で無視されたとしても、南京では少なくとも200,000の範囲で虐殺の鐘が打たれたと埋葬記録書に基づき確証されていることを心に留めておくべきです。Sunのこの調査は私がIMTFE記録書(表4.1参照)から見つけだした裁判証拠物件によって確証されています。裁判所は最終的に慈善事業団体の作成した埋葬推定記録書(後にSunの論文で発表されました。)や個別の人々に数えられた遺体数(Sunの論文では述べられていません。)を集計して、約260,000人の人々が南京で虐殺されたと結論を下しました。しかしIMTFEが出したこの数値は日本人の作成した中国人死体埋葬統計記録が含まれておらず、さらに300,000や400,000の範囲へ届く可能性があることは頭に入れておくべき重要なことです。
(南京の日本人による推定虐殺犠牲者数)
崇善堂 -------------------- 112,266
紅卍字会 -------------------- 43,071
下関地区 -------------------- 26,100
魯甦証言 -------------------- 57,400
李、張、揚証言 -------------------- 7,000 or more
伍証言 -------------------- 2,000 or more
無名の被害者の碑文 -------------------- 3,000 or more
合計(おおよそ) -------------------- 260,000
第1702番書類、第134番書箱、IMTFE記録、裁判証拠物件、1948年第二次世界大戦戦犯記録収集、第14番登録、第238番記録グループ、国家公文書
現在、学者たちの多くがSunの説を支持して、南京で打たれた死の鐘は300,000人を越えるという論を信用しています。例えば南イリノイ大学歴史名誉教授のWu Tienweiは自己論文「南京大虐殺を全世界に知らせよう。」の中で、陥落前の南京人口は厳密でないが相対的に630,000人ぐらいだろうと推定し、そして遺体集計調査の歴史編集書に基づき慎重に数値を考察した結果、虐殺で打たれた死の鐘は、集団虐殺190,000人、個々の殺人150,000人の計340,000人で300,000人を越えるものだという結論を下しました。
作家のジェームズYinやShi Youngも独自の調査を行なった結果、これと同じ様な規模になる「約355,000人」という数値を出しました。しかしこの数値が既に究極に大きなものであるにもかかわらず、YinとYoungは実際の死者数は記録上からだけでは見いだせないものも多くあるので、さらに上に昇ると考えています。また一説の中には死者数統計が重複して出されており、日本兵が川へ投げ入れた遺体の大半は再び沿岸へ押し寄せられて埋葬されているので遺体数として二度計算されているものが多いという論説がありますが、彼らはこれを否定して、川から陸地へ押し寄せられた遺体は普通、川から離れた場所よりも川近郊に埋められる確率が高いが、調査結果、埋葬地の大半は揚子江土手から遠く離れた場所にあったことを指摘しています。死体は発覚後、腐敗するまでの段階に丘や山や草原へ運んで埋葬されるのが常識だという考えに挑んで、彼らは論争しています。さらに強姦や殺害された一家の犠牲者たちは通常、直ちに埋められて上司へは埋葬報告されていなかったこともYinとYoungは生存者会見を通じて知りました。YinとYoungは自分たちが出した説は集団虐殺の記録書だけを参考にしていて個人に対する手当たり次第の殺害を除いたものだったので、最終的に南京大虐殺の死者総数は少なく見積もっても400,000人に上ると考えています。
また日本兵自身が虐殺当時に300,000人近くの人々が南京で命を失ったと考えている注目すべき証言もあります。そしてこの証言は日本兵自身にされたというだけでなく、それが虐殺が終結までまだ時間のあった最初の一ヶ月目にされたというところにも重要な意義を持っています。1938年1月17日に東京にいたヒロタコウキ外務大臣は米国首都ワシントンにいた連絡員に次のような伝言を送りました。これはアメリカ情報部員の手で傍受されて解読され、1938年2月1日に英語翻訳され、その原型に挿入語句を入れたものです。
私は数日前に上海へ行き、南京やその他の場所で日本陸軍に犯された虐殺記録を調査した。信頼できる目撃者たちの証言や信用性の高い個人からの手紙は、日本陸軍がまるでアッチラ王やフン族の様な流儀をふるまい、今現在も行なっていることを証明する説得力がある。30万人を下回らない中国市民が虐殺され、そのほとんどは残忍に殺された。
もし蒋介石が11月中に政府を明け渡し、軍を撤退さして南京から立ち去っていれば、大規模な虐殺はあるいは回避できたかもしれないという説があります。しかしこの説は非常に薄弱なものがあります。日本軍は南京へ向かう道のりでも組織的に、やはり全村々や街を破壊して他の場所でも同様な虐殺を繰り返して前の数カ月間を過ごしました。彼らは明らかに活動上で中国人たちに挑発されたくなかったのかもしれませんが、市民の中に隠れている兵士を除去するために、連続処刑は必要だったという日本人の言い訳の下に中国兵を欠いた街が破壊されたことは紛れもない事実です。彼らの行動が変わっていたのではないかと暗示させるものは何も存在していません。
また、もし蒋介石が非常識な土壇場の南京撤退指令を慎み、代わりに街を救う最後の男となって戦いに挑んでいれば、街の運命は違ったものになっていたかもしれないという説もあります。しかしよく考えて見てください。正面から立ち向かう戦闘は間違いなく具合良く行きませんでした。日本軍は大きく優れてた武力と訓練をもって、いつでも中国軍を打ちのめせる状態でした。しかしゲリラ戦を用いて長期戦に持ち込んでいれば、あるいは日本軍をまごつかせ、その間に中国軍を隆起することが出来たかもしれません。そうなれば、さらに多くの日本兵が中国兵と戦って戦死し、激しく抵抗することで中国兵に対する彼らの横柄さはもっと和らいでいたかもしれません。