『極東国際軍事裁判』

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:06:48:

回答先: 【7】南京占領 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:05:12:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【7】南京占領 つづき

『極東国際軍事裁判』

東京戦犯裁判としても知られる極東国際軍事裁判(IMTFE)は1946年5月3日に日本の首都、東京に創立され、裁判の範囲は唖然とするほど広大なものになりました。IMTFEは全49000ページ、1000万語におよぶ裁判騰本、779の宣誓供述書と証言録取り書や4336の証拠物件を含める20万人以上の観客と419人以上の目撃者を引き寄せました。「世紀の裁判」と言われたこの裁判は最終的にニュルンベルク裁判の3倍にあたる2年半の月日を要しました。実にIMTFEは歴史上、最長の戦犯裁判と言えるでしょう。
IMTFEはこの裁判に告訴されていたのが28名だけの日本軍人や政府役人だったにもかかわらず、慎重にメディア関係や法律上の配慮を指導しました。法廷は毎回、裁判官、弁護士、外国通信員、ニュース映像カメラマン、法律家、MP、速記者、通訳者たちを含める1000人以上の人々で一杯でした。報道員席左側には、11カ国の連合国からの裁判官が被告人たちを右にして、隆起している演壇上に座っていました。観客たちは階上席に腰をかけ、その下で弁護士や補佐官や書記官がピットに立っていました。裁判が日英両カ国語で進行されるため、全員、イヤホンを着けていました。
アーノルドバラックマン著の「The Other Nuremberg」という本に、「IMTFEで1000に上る放任主義の実態が明らかになりました。」という文章が書かれています。裁判中に日本軍がアジアで犯した何千件に上る恐ろしい詳細事項を暴く大量なニュース記録や報告書や統計や目撃者の供述書が集まりました。IMTFEは南京大虐殺の永続的な口頭の歴史記録を創造しただけでなく、南京大虐殺が戦時中に日本に行われた全虐殺のほんの一片に過ぎないことを立証しました。他の虐殺に関する告訴の中には、日本人が捕虜を医療実験に使用したことや、深刻な病気であったり、飢えている捕虜たちを衰弱させて大量に殺害したこと(悪名高いバターン死の行進としても知られています。)や、Siam-Burma鉄道工事の背景にある死に至る過酷状況や、内臓が破裂するまで犠牲者たちの鼻や口から水や灯油を注入する日本兵の「水処理」についてや、間接が受け口から完全に裂けてしまうまでPOW(戦争捕虜)の手首や腕や足を縛って吊るした事実や、鋭利な道具上に無理矢理ひざまづかされた犠牲者についてや、指の爪がはがされる非常に耐え難い拷問についてや、電気ショック拷問や、火の点いた木炭の上に裸で座らされた女性たちや、創造できる限りの殴打や鞭打ちの類(憲兵隊士官がよくやった拷問方法の中には、彼らが遠回しに「三倍攻撃」、あるいは三方向からの集中攻撃と呼んでいた捕虜たちを木に縛り付けて取り囲み、死ぬまで蹴り回すというものがありました。)や、さらに生体解剖や人喰いなどの詳細事項がありました。POWに対して日本兵が犯した行為は、後にナチスよりも残虐であると決定が下されました。ナチス下の監禁で1/25のアメリカ人捕虜が死んでいることと比べて、日本軍下では1/3の死者ということが判明しています。
おそらくIMTFEのハイライトである南京大虐殺は、この戦争の全期間を通して、日本人が犯した振る舞いの比喩として表されるものでした。新聞団体の若い記者としてIMTFEを取材したバラックマンは、「南京大虐殺は全戦争に共通する一事件などではありません。これは計画的に政策として実施されたことです。これは東京の中でも知られていました。この事実は世界の新聞の一面記事の載せられていました。これは、IMTFEが意味する全てです。」と指摘しました。この証言は裁判上で紹介され、弁明する日本人たちを大きく動揺させました。また数名の国際安全委員会のメンバーがそれぞれの日記を読み上げるために東京へ飛んできて、独自の調査結果を発表し、南京大虐殺に関する質問に答えました。IMTFEの評決は明確に南京での日本人犯罪を公然と非難し、「日本兵たちは街を冒とくする野蛮人の群衆のように放任されていました。」という観察者の意見を取り上げました。またこの裁判で、南京の虐殺を日本政府は熟知していたという結論も下されました。犯罪はやはり明らかに日本領事館の視野の中で実施されていました。国際委員会は状況を報告しようと毎日のように日本外務省や日本領事館の代表者を訪れ、最初の6週間は一日に二件の割合で抗議文を提出していました。東京のアメリカ大使だったジョセフグリューはこの虐殺を知らされるためにヒロタコウキを含める日本人高官たちと個人的な会談をしました。さらに1937年から1938年にかけて中国での全般的な日本の大臣をしていたイトウノブフモもまたヒロタ宛に中国における日本軍の乱暴行為についての報告書を転送していました。
南京大虐殺に対する非難の矛先は、マツイイワネにふりかかりました。当時、日本の中国支那方面軍の総司令官だったマツイは明らかに最有力の標的に選び出されました。マツイは南京侵攻の一ヶ月前には自分の作戦が南京政府と無礼な中国人たちを折檻するものだと自負していました。1937年12月17日に彼は兵士たちが喝采を送る中、栗色の馬にまたがり、偉大な壮観と礼式と共に街に入城しました。しかしマツイが南京大虐殺のスケープゴート(贖罪のヤギ、他人の罪を負わされる身代わり)としての役割を果たしていたのではないかと歴史家たちの中には想像している者もいます。結核に悩まされ、病弱でひ弱な男であったマツイは、南京が陥落した当時、街にさえいませんでした。
この問題についての文献が不足しているため、南京におけるマツイの責任問題はより一層の調査と議論の対象になりました。しかし形跡となるものからは、この結核将官が全エピソードを通じて紛れもなくアサカが指導権を掴んだ後に日本陸軍の指導権を存続できなくなり、著しい罪悪感にかられていたことがそれとなく示されています。マツイは南京の罪を償おうと、東京から海沿いに約80kmほど行った場所にある海岸観光地、熱海の実家の丘の上に自責の念を掲げる神社を建てました。揚子江の土手から持ち帰った土は日本土着の土と混ぜられ、刻んで焼かれて、仏教の慈悲女神カノン像にされて上塗りされました。そしてこの像の前で祈りを詠唱する尼層を雇い、中国戦争の死に対して涙を流しました。
しかし自分自身に鞭を打つ公共芝居の中では、過った全く別の裁判を求める意志が働くことがあります。この日、IMTFEでのマツイの態度は動揺していました。彼は供述中、皇室一族を巻き込むことを懸念して南京で起きた全貌を暴露しませんでした。代わって嘘と不定期な自分自身の非難の中間ほどの曖昧な態度を示し、南京の虐殺を弁解しようとしたり、時にはそれを完全否定し、仏教や日中交友の性質について漠然と回りくどく論じて検事当局を苛立てました。しかし彼は一度として皇室一族を非難したり、指摘するような事は言わず、それどころかアサカ親王や天皇に対して適切な手引きになれなかった自分自身を非難し、彼らのために死ぬのは自分の義務だと検察官たちに告げて、こう言いました。「私はこのように終わりを遂げる事を幸せに思います。私は本当にいつでも喜んで死ぬ覚悟です。」
彼の願いは達成されました。裁判所は南京大虐殺が「密かに指令されて起きたか、組織的に実行されたかのいずれか」と言う結論を下し、マツイに死刑を宣告しました。そして彼一人だけではなく、日本外務大臣ヒロタコウキを含める7人の日本人A級戦犯たちもIMTFEから有罪判決が下され、後に東京巣鴨刑務所で絞首刑に処されました。


不幸にも南京大虐殺の上官被告人や、皇室権力を行使して虐殺を止めることができたかも知れない権力者たちの多くが結局、裁判に一日として出頭することはありませんでした。
ナカジマカサゴ中将は日本が敗戦した後、まもなく死にました。中でも最悪な南京を踏みにじる行為を犯した軍隊を指揮していたこの男は、尿毒症と肝硬変で1945年10月28日に亡くなりました。一方で、ナカジマはアルコール中毒で自殺を犯したと言う噂がありますが、化学兵器の研究と教育に従事した時に身をさらして気体を吸入したこと原因で病気になったと彼の長男が言っています。偶然、アメリカ人MPが戦争犯罪についてナカジマに尋問するために家の前に到着したと同時に、医者がナカジマの死を告げました。ナカジマが、南京で「捕虜を取らない」方針をとっていたと考えている伝記作家キムラクニノリは、「たとえ生き延びても、父は死刑から逃れられなかったでしょう。」と言うナカジマの息子の言葉を引用しています。
またヤナガワヘイスケ中将も1945年に死にました。しかし彼は心臓病で亡くなる直前に友人のスガワラユタカに数回に渡る会見に応じており、スガワラは7冊のノートを使用して、この会見を本にしました。この本は主にヤナガワの軍事功績を賞賛するもの(スガワラは、「彼は希薄な男で、すばらしい才能の持ち主です。」と書いています。)でしたが、中には南京大虐殺問題について話しかけているものもありました。ヤナガワは単純にこの全エピソードを鼻先であしらい、兵士たちの虐殺行為に関する報告書は、「事実無根の噂」だとスガワラを安心させました。それどころか、南京での彼の配下の兵士たちは、中国人の家に宿営した時もスリッパをはかせてやり、厳格な軍の規律に従っていたと自負していました。
ヒロヒトは、日本が降伏した後も長く生きましたが、戦時中の自分のした活動に対する道徳的な説明を問われることはありませんでした。アメリカ政府が降伏の代わりに日本の天皇である彼の裁判免除を許可していたので、被告人としてや目撃者としてさえも呼び出されることはありませんでした。降伏条件が皇室一族全員を免除するということだったので、ヒロヒトの叔父のアサカ(彼の指揮下で「全捕虜の処刑」指令が偽装されました。)もまた裁判から逃れ、IMTFEに全く出頭しませんでした。
戦争責任に対してヒロヒトを免除し、さらにそのまま王位につかせ続けたこの決定は結果的に第二次世界大戦の犯罪における日本人自身の歴史的な自覚を邪魔することになりました。著明な日本学者であるヒロヒトの伝記作家ヘルベルトビックスによると、「忠義を尽くして奉任される天皇が自分の発言や行動に対する責任を全く持っていないのであれば、皇室一族を大量虐殺事件の侵略や殺人の共犯者だとする証拠を見つけることは困難でしょう.......。」ということです。マッカーサーは昭和天皇にかつての力を与えないという戦後君主体制に変えることで、これからの日本の保守的な演出の基礎準備を援助をしました。
また南京大虐殺におけるヒロヒト天皇の役割に関する詳細事項は有望な資料や文献が不足しているため、論争の主題として留まったままです。連合軍に没収されてマイクロフィルム化され、後に戦争犯罪に関する有力な証拠物件として活用されたナチスの記録書と違い、日本軍の戦時機密書類は、マッカ?サ?元帥が到着する前に、その大半が計画的に破棄されたり、隠されたり、偽造されました。1945年にアメリカ占領軍が差し押さえた日本最高軍事記録書は、10年後に厳密にマイクロフィルム化されないまま、理解しがたいほど無責任にアメリカ政府の手で返還されました。このような訳で南京の虐殺はヒロヒト天皇が計画したものなのか、認可したものなのか、またはそれを知っていたのかさえも今となっては証明できるものはありません。
おそらく南京虐殺とヒロヒトの関わりあいを説明している英語本は、デビッドバーガミニが執筆した「天皇の陰謀」しかないでしょう。バーガミニは本の中で、日本は世界征服の複雑な青写真を打ち立て、そして南京侵攻の決定を下したのは、他ならないヒロヒト自身だったと書き記しています。また中には南京を悲劇へと導いた事件の一連を説明して入る驚くべき説話を述べているものもあります。(これは明らかに日本人の最高機密メッセージを引用して仕上げられています。)しかし不幸にも、このバーガミニの本は、名高い歴史家たちに単に全く存在しない情報を引用していることや、実証できないのに驚嘆したと発言する不可思議な無名の密告者たちを持ち出していると指摘されてひどく批判されました。
日本帝国に世界を征服する陰謀があったかということは、混同しながら学者たちの間で討議されています。何年間にも渡り、タナカギイチ首相が、当時の日本の野心を含めている「タナカ請願書」として呼ばれる1927年の極東会議中に提出した機密報告書が信じられていました。伝えられるところでは、この報告書にはこのように書き取られています。「世界征服にあたり、我々はまず中国を征服しなければなりません。しかし中国を征服するには、まず満州とモンゴルの征服が必要です。中国の征服が達成されれば、残りのアジア諸国も我々を恐れて降伏するでしょう。そして世界は東アジアを我々のものだと認識し、我々の権利を敢えて侵害はしないでしょう。これは明治天皇が我々に残された計画であり、これを達成することは我々の国家存亡に賭けて必要不可欠です。」
現在、この報告者は偽造されたものだと一般的に学者たちの間では考えられています。しかしこの請願書が1929年9月に北京で初めて暴露された時には多くの者が、中国に対する日本の侵略は地球征服のために調整された策略の一部だったと考えました。そしてタナカ請願書の英語訳が、後に上海新聞上に載せられたり、役者ジェームズキャグネイが日本の極秘計画書を盗み、世界を救う典型的なハリウッド映画「ブラッドオンザサン」で表されることもありました。現今もまだタナカ請願書は無視できない想像上の世界の書類とされています。多くの中国人の歴史家たちはタナカ請願書が確実な物件だと考えており、英語新聞や電報サービスの記事と同様に中国の百科事典や辞書にはこの請願書が歴史事実の一環として引用され続けています。
現在、日本の名高い歴史家たちの中に、日本が世界征服の陰謀をあらかじめ計画していたと考えている者はいません。1920年代から1930年代にかけての日本国家管理の無秩序状態に関する調査からは、この陰謀の見込みがないことが示されています。日本陸軍は海軍を嫌い、東京の最高司令部は手後れになるまで満州の関東軍が現地で何をしているのか知らず、さらに外務省と軍部間は静かな冷淡な関係でした。
しかし多くの学者たちがヒロヒトは南京大虐殺を知っていたと考えています。(ヘルベルトビックスは個人的に、南京大虐殺はヒロヒトが知らなかった「思いもよらない」事件だと考えています。)第一の理由に、この出来事は世界の新聞の一面記事に掲載されていました。第二に、ヒロヒト自身の弟がこの流血を漂わせる事件の詳細事項を話していたかも知れないと考えられる事実があります。1943年、ヒロヒト天皇の一番下の弟ミカサタカヒト親王は、日本帝国陸軍の中国派遣軍の南京本部で事務士官として一年間を過ごしました。ある日、生きた中国人の捕虜が新兵訓練のため、銃剣の練習台にされていることを青年士官から聞きました。またこの士官は「これは勇気を習得するための訓練です。」とミカサ親王に告げました。これに対しミカサはぞっとして「虐殺としか称することが出来ない誠に恐ろしい情景」とこの練習方法について記述しました。そして戦争を終結に導く命知らずな望みを全うしようとこの親王は、戦争についての意見を求めるために、若い事務士官たちにアンケート用紙を配付し、中国における日本軍の侵略を公然と非難する講演準備を始め、「日中戦争に対する一日本人からの意見書」と題された報告書を作成しました。報告書の作成は激しく議論される極めて危険な行動でしたが、ミカサは彼の持つ皇室の血で身を守られ、執筆を妨げられることから逃れました。後に日本軍はこの原稿の大半を没収して、破棄しましたが、一枚の原稿が後に、国民議会制度公文書のマクロフィルム収集の中から残存して、発見されました。
この話がもし日本人の戦争裁判中に明かされていれば、戦犯の悪行情報が届いた時点で断固たる処置を取らなかった皇室一族を軍部同様に巻き込めたかもしれません。(ミカサは兄である天皇に中国の状況についての「一部」を報告し、さらに中国における日本人の虐殺行為を映し出したニュース映像を天皇と一緒に見た事実を認めています。)しかしこのミカサの告白は、IMTFE終結後、約半世紀が過ぎた1989年まで表に現れませんでした。
おそらくヒロヒトが虐殺当時の南京について、どのような報告を受けたのかを知ることはもはや出来ないでしょう。しかし記録書からは彼が非常にこの南京の一連を喜んでいたことが示されています。この中国の首都が陥落した後にこの天皇は、皇后の大伯父でもある陸軍大将カニン親王へ「過度の満足」を表し、代わりにこの親王がマツイイワネへ「歴史始まって以来、このような途方もない軍事偉業を成し遂げたことはない。」と祝電を送りました。さらにヒロヒトはマツイ、アサカ、ヤナガワを夏の別荘に招き、皇室の菊が彫られた銀の花瓶を贈呈しました。
最終的に皇室一族は裁判の監視下から逃れただけでなく、余暇と国民崇拝の人生を引き続き与えられました。一族の一人、アサカはヒロヒトと共に週間ニュース映像を見て、血縁の親王会議の席に座り、最後を迎えるまでゴルフを楽しみました。(アサカはスポーツに秀でていただけでなく、ゴルフコースの開発にも活発に関心を持ち、日本の東海岸にある箱根観光地にダイハコネカントリークラブと言う高原ゴルフコースを建築しました。)ヒロヒト自身も平和に人生を送り、崩御する1989年まで威厳を保ちました。





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