【7】南京占領

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:05:12:

回答先: Part 2【6】世界は何を知ったのか? 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:03:04:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)

【7】南京占領

南京大虐殺が最も大規模に実施された時期は最初の6?8週間に集中していましたが、その後も引き続き虐殺は行なわれました。1938年春に南京の人々は、虐殺が終結し、街が占領されている間の虐殺はもうないことを知りました。南京が日本の規則下に平身低頭すると、次に日本軍は全居住民を服従させる政策を取りました。
しかし最初は服従などほとんど存在しませんでした。ある外国人が書き記しています。「街の秩序崩壊は想像しがたいものです。そこら中に汚物やあらゆる廃棄物が投げ捨てられています。」日本軍は廃棄物や死体の処分を含め、実に何日間も陸軍トラックが水路の下で数十センチに積み重ねられている死体を踏みつけて、日本に抵抗した者たちの無惨な結末を残った人々に印象づけようとゆっくり運転して進んでいました。
 観察者たちによると、日本軍が公共所有物に与えた損害は1939年当時で総計8億3600万ドル、私有物の損失は最低1億3600万ドルと推定されています。またこの数値の中には日本軍に没収された、かけがいのない文化遺産の金額は含まれていません。
社会学者ルイススマイスの指導で国際安全地帯委員会は組織的に南京地域の損害を調査しました。調査員たちはそれぞれ50件ずつ街の人が居住している家を訪問し、また地方ではそれぞれが3つの村で10件の家族を訪れて調査しました。1938年6月に集まった60ページにおよぶ記録書から、スマイスは南京が体験した120の空襲爆撃と4日間の街包囲攻撃は南京入城後に日本軍によってもたらされた損害の1%にしか当たらないという結論を出しました。
街の破壊原因の最大要素は放火でした。南京の火事は街の壁の放火から始まり、それから6週間以上続きました。兵士たちは士官指導の下で、建物に火を点火し、時には火を点けるために特別な化学物質を使用しました。彼らは教会、領事館、デパート、店舗、マンション、小屋、さらに安全地帯内の地域を含めるあらゆる場所で建物を焼き払いました。ポンプや消化器が日本兵に盗まれていたために、地帯のリーダーたちはこの火を止めることが出来ませんでした。南京大虐殺が始まってから数週間後には、街全域の1/3と全店舗の3/4が焼いて灰にされていました。
そしてロシア公使館に放火され、アメリカ領事館が冒とくされ、はっきり国旗や目印が印された外国人の家が略奪されました。特に日本はアメリカ所有地に格別の侮辱を与えました。南京大学では6度に渡り、アメリカ国旗が取り外されて、土の上で踏みつけられ、再び立てようと挑むものは殺すと脅迫されました。さらにドイツ所有地でさえも例外ではなく、日本軍はナチス党旗を引きちぎり、ドイツ人の家や企業に放火し、さらにあるドイツ人が「天皇の写真に捧げるための日本儀式とみなされる驚くべき行動」と書いていたように、ヒトラーやハインデンバーグの写真を盗み出すこともしました。
略奪行為の影響は南京内だけに修まらず、遥か遠くまでおよぶことになりました。日本兵は南京周辺地域を荒らし、藁小屋に火を点け、家具や工具や農具を集めて、煉瓦の家の中へ入れて、一度に全てを焼却して村全体を全焼しました。そして街の近くの地方で飼い慣らされていた家畜動物も一匹残らず奪われました。
さらに日本軍はアセチレンの放火やピストル射撃や手榴弾を使用して、ドイツ人役人や居住民たちの個人預金箱を含める銀行の金庫を爆破して強奪しました。強奪品の中には日本に送付することが許可された物もありましたが、大半の品物は公的使用のために没収されて、収集されました。倉庫内は急速に珍しいヒスイや磁気芸術品や絨毯や絵や金銀の宝で一杯になりました。200台以上のピアノが単一の保管庫に収容され、12月終わりになると、日本軍はこの宝石や芸術品や家具や金属製品や骨董品に至る様々な盗難品を日本へ輸送しようと波止場に積み上げました。
日本の略奪者たちは通常、値打ちのある品を探し求めました。特に外車をほしがっていたので、委員会のメンバーたちは常時、車に乗車していなければ盗まれるとまで考えていました。(死体を回収していたトラックも盗まれました。)さらに南京大学付属病院内にも侵入し、ペンや懐中電灯や腕時計などに至る取るに足らない品物までも看護婦から盗み、何度も安全地帯内に押し入って、家のない人々から寝具や料理器具や食料などを奪い取りました。あるドイツ人の書いた記録書には、12月15日に日本軍が5千人の避難民から計180ドルを奪ったと書き記されています。ジョージフィッチも書いています。「人掴みの汚い米さえも兵士たちに引ったくられていました。死が文句を言った者たちに与えられる必然的な応酬でした。」


1938年1月、南京には軍用備品店と国際委員会の運営する米店以外、一つとして公式に開いている店がありませんでした。波止場は事実上、一台の船も停泊しておらず、日本軍が地方の重工業から雇用者約50名を集めて処刑していたので、街の至る場所で電力や電話や水道が欠乏しました。(水道供給は入浴難を引き起こしましたが、多くの女性は体を洗わずにいると、強姦に狂っている日本兵を追い払えると考えて、いずれにせよ入浴しませんでした。)
街はゆっくり命を取り戻しました。南京の至る場所に点在している荒らされた家から床板や木板がはぎ取られて薪にされ、鉄や煉瓦は運び去られて自分の家の修復に使用したり、通り上で販売されました。安全地帯にある上海通りでは、人々の群衆が戸や窓を含め様々な略奪したと見られる品物を売っている行商人の前に集まりました。この活気は地方経済を盛り上げ、道端の盗品商人の横には次々と新しい喫茶店やレストランが建ちました。
1938年1月1日、日本軍は新しい市政府を発足しました。この政府のことを街の西洋人たちは通称、南京自治政府委員会、または「独立政府」と呼んでいました。自治政府委員会には、街の福祉援助や財政や警察組織や商業や交通などの行政を管理する中国人の操り人形の役人たちが配置されました。春までに南京は外見上、再び正常な街の機能を戻し始めて、水道が流れ出し、電気が点灯し、郵便配達が毎日、されるようになりました。日本の市バスが走り始め、人力車が通り上に現れ、南京から上海までの汽車にも乗れるようになりました。また小さな機関車や馬や車やトラックや他の物が街から浦口近郊まで渡されるようになると、南京は急速に日本人たちの忙しい運送中心地になりました。
しかし職業において冷厳な兆候がどこにも示されてました。中国人商人たちは重税と法外な賃貸掛け金を課せられて、支配している役人へ俸給を融資しました。さらに日本軍は中国市民に金や紙幣を使い果たさせ、価値のない軍の貨幣を代わりに流入させようと軍用店を開きました。操られている中国政府は、たとえ所持者がまだ街にいても、街に残っている貴重品や在庫品を全て押収することで、この貧困問題を解決しようと、「我々は今、認可された略奪をしている。」と皮肉な冗談を言う数人の中国役人たちを向かわせました。
そして税金や押収物を大衆から取り上げることよりもさらに不安を抱かせたことはアヘンが再現したことでした。日本占領以前からアヘンは地下組織の麻薬として、貴族や商人たちに裏舞台で隠れて吸われていました。アヘンは通り上で厚かましく売られていた訳でも、若者たちの目立つところにあった訳でもありませんでした。しかし街が陥落した後から警官の干渉なしに気軽にアヘンの穴場に出入り出来るようになりました。このアヘンの穴場は「公共穴場」と中国語で呼ばれ、公衆の面前で麻薬のプロパガンダがされるようになりました。
人々を麻薬中毒にして、奴隷にするために日本軍は南京の労働者や売春婦への支払いとして麻薬を渡し、ヘロインタバコが10才の子供たちに与えられました。南京大学史学教授だったマイナーシールベイツは独自の調査結果を下に、当時の南京人口の1/8にあたる約5万人の人々がヘロインを使用していたという結論を出しています。
南京陥落後に虐待された多くの市民が、人生の苦難からたとえ一瞬でも逃れようとして麻薬の餌食になりました。彼らの中にはアヘンを一度に大量に飲み込んで自殺を犯した者もおり、また中毒になった者たちの中には犯罪者に成り代わる者もおり、南京中を荒らす野蛮行為の波が高まりました。南京での野蛮行為による被害が熟すと、日本軍は占領を正当化させようと帝国法の必要性を説き薦めました。
日本の雇用者たちは多くの中国人労働者たちを奴隷以下に扱い、よく取るに足らない違反行為で殺害しました。絶え間のない恐怖を生み出すために厳しい環境や気紛れな処罰を中国人従業員に与えることが仕事場では組織的に実施されていたと後に生存者たちは供述しています。工場で働いている時に日本兵に襲われた中国男性が、そこで過ごした数カ月間に目撃した恐怖について記述しています。彼の仲間の従業員は日本人監査人にセーターを盗んだと訴えられ、足の先から喉までミイラのように体を縛られて、煉瓦の山にたたきつけられて殺されました。たたきつけられている最後は体が原型を失い、ロープが絡まる肉体と骨はそのまま犬の餌にされました。また工場から4つの小さな肩パッドが紛失していることが判明し、間もなくそれがトイレットペーパーとして使用されたことが発覚したことがありました。そして当日にトイレを使用したと認めた22才の女性が工場裏に連れて行かれ、ナイフで斬首されました。さらにこの同じ日本人の殺人者に、当日夕方にスリッパ一足を盗難されたと訴え出た10才代の少年も殺害されました。
そして日本人は南京の人々を医療実験の対象にもしました。1939年4月に街の中に施設が開設され、「材木」と呼ばれる人間モルモットの実験が実行されました。揚子江から歩いて少しの場所にある中山東路道上の六話中国病院が改造されて、Ei-1644機関と名付けられた伝染病を研究するための研究所が構築されました。この研究所は軍事空港や芸者地区や映画館や憲兵支部が建ち並ぶ日本軍の中心地近くに置かれたにもかかわらず、存在は厳しく秘密厳守されました。高い煉瓦の壁が建物を取り囲み、頂上に刺のあるワイヤーが引かれたこの施設は常時、見張り兵が巡回しており、職員たちは日本へ送る手紙の中で絶対にEi-1644に関する事項を述べてはならないと固く命令されていました。建物の中にいる研究者たちはアセトン、砒素、青酸カリ、亜硝酸塩青酸、またはコブラやハブやアマガサ毒液などの蛇の毒液を含む物質など、様々な毒や細菌や致命的なガスを中国人捕虜たちに注射したり、食べさし、週毎に10人以上の人々を殺害し、Ei-1644専用の焼却装置で処分しました。
日本軍が1945年8月に降伏したときに、Ei-1644の職員たちは全ての設備やデータを破壊し、施設を爆破して中国軍が南京に到達する前に逃避しました。現在、この秘密施設についてわかっていることは、この機関の研究者たち数名が戦後にアメリカ人の尋問者たちに告白したことしか残っていません。 
肉体的な拷問や日本の医療人体実験や日本軍が抑圧している環境に耐えられずに麻薬に走ることなどから逃れることが出来た南京の中国人たちは間違いなく幸運でした。日本の権力者たちは民衆を支配する方法を支配層に分けるピラミッド式にしました。各10家族の中から一人のリーダーが任命され、各10人のそのリーダーの中から、また別のリーダーが任命されました。このシステムで南京にいるそれぞれの男性は自分の10人と100人と1000人のリーダーの署名がされている登録カードの所持が必要になりました。また家族の中にいる未確認者や無登録者の存在を市政府の地区士官に知らせが届くまでに報告することも必要とされました。このシステムは日本人が作り出したものではなく、従来から中国にあった「baojia」というシステムで、言うまでもなく南京居住民たちを日本の規則に適応させるために復活しました。
日本はこのbaojiaシステムに従い、街の中にわざと通行証を持っていない男を囮として解放し、滞在する居場所を監視するようなテストを頻繁に行いました。男たちが二時間以内に捕らえられるか、報告されない場合は、滞在先の近隣地帯のリーダーが処罰を受けました。委員会のメンバーだったアルバートスチュワードが1939年の日記に書いています。「これは新しい体制に忠誠を誓うことを持続させるために日本人が取った政策のようです。」


戦争や砲撃や虐殺にかかわらず、南京は復旧へと向かいました。恐ろしい飢饉は、食料の積み荷を街へ入れることが許可され、日本軍が内陸の中国軍を追い求めて南京を離れた後から地方の農民たちが冬の麦作物を収穫できるようになったので結局、到来しませんでした。その年の残りの期間中に肥沃な揚子江三角地帯の農業は戦前の水準に近い収穫をあげました。しかしこれは南京が日本占領下で食料不足に苦しまなかったということではありません。城壁に内側にある菜園や農場は、日本兵に野菜を没収されただけでなく、軍使用にも収穫物を治めなければならないように強制されたので栄えることはありませんでした。さらに戦争がだらだらと長引くようになると、南京にいる日本人権力者たちは石炭や米のような手の内にある支給物や配給された必需品をしっかり握り出しました。しかし南京が中国大陸の他の地域よりも、ひどい飢えや栄養失調に苦しんだと示す証拠物件が残っている訳ではありません。新しい国民党の首都、重慶を含む他の街は戦時中、遥かにひどい食料不足に苦しみました。
アヘンやヘロインの販売が日本の規則の下で成長したにもかかわらず、南京の民衆は比較的に病気から逃れて生き延びることが出来ました。占領後、街の日本人権力者たちは病気で死んだ者たちの遺体を焼却しようと、厳密な処理方針を制定し、またコレラや腸チフスに対する独壇の予防接種を開始し、年に数回の注射を受けさせました。中国人の医療士官たちが通り上や駅で待ちかまえ、街に入る歩行者や訪問者に予防注射を処方しました。これは民衆間に大きな憤りを創造し、多くの者が注射針で殺害されることを恐れました。また南京の駅に来た中国人の訪問者は消毒液の入っている窪地の中に入るように命令され、大勢の人たちがこの必修制度で深い侮辱を与えられていたと西洋宣教師の子供だった者が記憶していました。(街に入る西洋人は、よくリゾール液をスプレーでかけられました。)
南京はこの様な荒廃から数年以内に立ち直りました。1938年春には男たちが街に戻り、投機事業を始めるようになり、中には損害を検査する者や、お金が底を尽き仕事を探す者や、家族が戻れる安全な状態になったかどうか検分している者たちもいました。街の再建が始まると、労働者の必要性が増加し、これに伴い直ちにさらに多くの男たちが引き寄せられて街に戻り、そして間もなくして妻子たちも南京へ移動する流れに入り込みました。それから一年以内に街の人口は二倍に膨れ上がり、1938年3月には推定250,000人から300,000人だった人口は、1939年12月には576,000人以上になりました。南京の人口は、街がまだ楽しく過ごしていた1936年の100万人の水準から落ち込みましたが、1942年までに約70万人の頂点に達して、後の戦争継続期間中もそのまま安定しました。
日本軍下での生活は心地の良いものでは全くありませんでしたが、この征服軍が南京にずっと定住するだろうと多くの人々が考えるようになるに連れ、服従しようとする自覚症状が街中に定着しました。時折、隠れたところでの抵抗が見られ、大勢の日本士官たちが入場している劇場に走り込み、爆弾を投げ込むということも起こりましたが、一般的にこの様な反抗は散在しており、まれな出来事でした。日本人に敵意を抱く者たちの多くは反日ポスターやチラシや落書きといった非暴力的な手段で反抗を表現しました。
南京が背負った苦難の結末が、1945年の夏についに到来しました。1945年8月6日、アメリカ合衆国の無試験ウラニウム爆弾が日本8番目の都市である広島市に投下され、245,000人中の100,000人の人々が初日に殺害されました。日本の降伏がまだ現れないと、アメリカ軍は第二のプルトニウム型爆弾を8月9日に日本の長崎市に投下しました。それから一週間も経たない8月14日に日本は全面降伏の最終決断を下しました。
日本軍は降伏の当日まで中国前首都の南京に留まっていましたが、報告を受けると直ちに街から立ち去りました。目撃者たちによると、日本兵はこの時、通り上で重苦しく酒を飲んだり、泣いていたと記録されています。中には武装解除された日本兵たちが地方居住民に道端でひざまづかされ、暴行を受けていたという噂を聞いた者もいました。日本軍の駐屯地に対する報復は多くの居住民がこの混沌とした期間中、まだ家の中に隠れており、日本の敗北ニュースがひょっとすると真実でないことを恐れて祝賀会すらせずにいたので、自制される結果となりました。日本軍の撤退は迅速に行なわれたので、日本兵の集団迫害や監禁が行われることもありませんでした。ある南京市民は日本の降伏後も何週間と家の中に閉じこもっていたので、再び表に出たときには全員が既に立ち去っていたと供述しています。

【8】審判の日


連合国は第二次世界大戦が接戦になる以前から日本戦犯たちを連行する戦争裁判の組織を創っていました。日本の敗北が十分に予想できるようになると、アメリカと中国国民党政府は事前に裁判の準備にとりかかりました。1944年3月に国連は戦犯の調査委員会を創立して、南京陥落後に中国の戦時中の首都に指定された重慶にも、太平洋戦争の戦犯調査の補助委員会を設立しました。この裁判計画は日本の降伏後、さらに真剣に取り組まれ出し、日本国内の連合軍最高司令部は中国国民党政府と協力して、中国での日本人の虐殺行為に関する情報を交換しながら活動しました。南京大虐殺中に日本制度設立に携わった戦犯たちには、南京だけでなく東京にいる者も裁判にかけられることになりました。


『南京戦犯裁判』

南京大虐殺の出来事は街の魂の中に恐怖と憎悪が何十年間も押し込められ、深くただれた傷跡のように残っていました。B級戦犯とC級戦犯の裁判が1946年8月に街の中で始まると、この傷跡は裂け、戦争中に蓄積された毒を洗い流し始めました。
一掴みの日本戦犯が南京で裁かれましたが、一般中国市民にもこの浄化裁判に参加して不平を述べる権利が与えられました。1947年2月まで続いたこの裁判で1000人以上の人々が約460件に上る殺人、強姦、放火、略奪などの事件について証言しました。12人の地区官たちが中国全土からの報告書をまとめている間に、中国政府は南京の通り上に通知を貼り、目撃者たちに証人として進み出るように要請しました。やがて次々と証言者が法廷に現れ、偽証罪が5年の刑だと警告する中国人の裁判官に従い、署名と印と十字架に誓い報告が真実だと宣誓しました。またこの証言者たちの中には、中国人の生存者たちだけでなく、マイナーシールベイツやルイススマイスなどの安全地帯のリーダーたちもいました。
裁判中に何年間も入念に隠されていた証拠が次々に出てきました。有名な証拠物件の中には、日本兵自身の手で撮影された16枚の虐殺写真が入った小さなアルバムがあります。これは虐殺時、ある日本兵が写真現像店にネガフィルムを持って来た時に、店の従業員が密かに写真をもう1セット複製して、アルバムの中に入れ、まず風呂場の壁の中に隠し、後に仏像の下にこっそりと保管したものでした。このアルバムはその後も次々と人の手に渡り、日本兵が脅迫して犯罪証拠をなる写真を捜索したときも命がけで隠し通されました。ある男性はこの16枚の写真のために南京から脱出し、まるで逃亡者のように街から街へ何年間も放浪しました。(この写真が写真店から戦犯裁判の最終地点に到達するまでの長くて入り組んだ旅は、多くの記事や完全収録ドキュメントになって中国全土に広がりました。)
しかしもちろん全ての証拠物件がこの様にセンセーショナルに法廷までの道のりを回り道した訳ではありませんでした。中には古い新聞の切り抜きが直接に持ち出されたこともありました。Japan Advertiserに掲載された記事が二章で記述したあの有名な殺人コンテストに参加した二人の少尉、ノダタケシとムカイトシアキの裁判に持ち込まれました。裁判中、両兵士はもちろん150人以上の人々を殺害したことを否定し、一人は記事が外国通信員の想像上のものだと非難し、もう一人は日本へ帰国したときに妻をさらに魅惑しようとコンテスト話をでっち上げたと主張しました。しかし評決が1947年12月18日に法廷で下されると、中国人の視聴者たちは大声で歓声を上げ、喜びの涙を流しました。この両少尉は銃殺隊の手で処刑されました。
南京戦犯裁判で一番、注目を浴びたのはタニヒサオでした。1937年当時、タニは特に中華門一帯を含める多くの虐殺を犯した日本陸軍第6番師団の陸軍中将でした。1946年8月、タニは裁判のために中国へ戻され、南京の留置場へ護送車で運ばれました。彼の裁判の基礎準備のために、白いオーバーオールを着た法廷の専門家たちが前もって中華門付近で5箇所の埋葬地を掘り起こし、何千に上る骸骨や頭蓋骨を明るみに出しました。その大半が銃撃で砕かれており、まだ黒い血痕がこびりついているものでした。
タニヒサオにとり、街全体にある凝縮した怨念に直面することは、恐ろしかったに違いありません。彼が被告席に立ったときには既に黄色い日本軍服には星や縞模様が取り除かれており、80人以上の目撃者が延々と話す恐怖の連祷を聞くためだけに法廷にいました。起訴裁判はタニの師団に犯された刺殺、焼殺、溺死殺、絞殺、強姦、窃盗、破壊に関する何百に上る事件を聴聞する長いものになりました。非難する証言が始まると、中国人検察官たちによって法廷の机の上に頭蓋骨の山が展示され、さらに劇的効果を高めるために専門家たちが呼び寄せられました。タニに対する評決が発表される1947年2月6日、法廷は出席を希望する人々全員を収容する許容範囲がなくなるぐらい混雑しました。2000人以上の見物人が法廷の中にぎっしり入り、外では拡声器が集まっている何十万人に上る居住民に裁判の進行を放送しました。
有罪判決が下されて驚くものは誰もいませんでした。1947年3月10日、裁判所は、タニの軍隊が「大陸での戦争における習慣と戦争における戦時中の捕虜に対する処置」のハーグ陸戦法規を違反し、南京において推定30万人の命を奪う虐殺を犯したという結論を出して、タニヒサオに死刑の判決を下しました。街の大半の者が彼が処刑されるのを見物しに外へ出ました。4月26日、見物人たちは護衛者に南京南部地域の雨花台の処刑場へ連行される両手を後ろで縛られたタニヒサオの姿を通り上や歩道から見ました。そこで彼は彼の手で犠牲になった者たちよりも遥かに人道的だと多くの者が考える銃殺刑で最期を遂げました。





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