投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:55:54:
回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)『南京での強姦』 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:58:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【3】南京陥落
南京。この街は長い間、中国で最も偉大な文学と芸術と公共施設の都として賛美され、3世紀から6世紀にかけてと、14世紀の断続的な間、中国な古代都市として栄えました。中国語の4つの口調体系が設立されて、いくつかの最も有名な仏教書の編集が転記され、古典的な「6つの王朝」エッセイ文体(中国の詩と散文の混合)から現れた中国書法や絵画が定められたのも南京でした。さらに1842年に阿片戦争の終結条約と中国を外国貿易に開く条約が調印されたのも南京でした。そして1911年に国民党首の孫文が中華民国発生期の暫定的な初代議長になったのも南京でした。今日でも彼の墓標は誇り高く維持されています。
どの中国人も南京という名を聞けば、まず古代皇居や豪華な墓や様々な博物館や記念物などの絵を思い描くことでしょう。その絵の中には明王朝時代に創られた勇者と動物の彫刻、有名なドラム塔(マルコ・ポーロが700年前に原物を見て、近代型はそれから3世紀後にドラムを叩いて兵隊たちに合図を送る目的で一人の軍事司令官により建てられました。)、南京郊外の山や丘周辺にある寺院、湖の茶館とハスの花、揚子江にかかる大きな橋などの風景も含まれています。
何世紀にも渡り、南京の水流や山は美しさを表しているだけでなく、軍事的な防壁をも兼ね揃えていました。西へ伸びる揚子江と東へ伸びる紫金山は南京の自然の力を表現する古い諺「とぐろを巻く龍と屈み込んでいる虎」の様だと言われて街を保護していました。
しかし不幸にも南京は過去に3度の征服を受けています。
最初の征服は6世紀終わり頃に野蛮人の群衆が街の重要建築物を破壊して、壁の内側にある土地を開墜した1000年以上も前に起こりました。2度目はそれから1000年後の1853年から1864年にかけて太平反乱軍が街を占領しました。この反乱軍は国家幹部の学術試験に失敗した後に自分はイエスキリストの弟だと人々に説いたHong Xiuquanという狂信リーダーに導かれていました。彼が先頭に立ち、打倒清王朝を試みたことは、最終的に13年間を費やして、およそ2000万人の中国人が命を落としました。この革命中に10年以上も彼らの首都として使われていた南京は、彼らが追い出される時には巨大な廃虚と化し、さらに中国で最も美しいと評価されていた各色の光沢タイルでデザインされたポルセインパゴダ塔までも粉々に破壊されていました。
そして残りの19世紀の間も南京は不明瞭に眠り過ごし、満州皇帝が北京から再び支配を始めた時には文化的な面影を全く失っていました。国民党が清を倒し、南京を1928年に正式に首都と定めるまで街の性質は回復しませんでした。
虐殺の年である1937年には、街の内部は秦王朝時代から続く古いものと、国民党の創る新しいものとが入り乱れていました。古い中国の面影はこの都市の通りなどに多く残っており、そこには棒で籠に入った茶わんと急須のバランスを釣り合わせている飲食店の行商人たち、屋外工場で背を丸くして絹を織っている手織り職人たち、手で麺を伸ばしている麺店職人たちや通りでブリキ商品をガチャガチャ鳴らしているブリキ職人たち、客の出入口の前で靴を直している靴直したち、四角い穴がまん中に空いている銅貨をしっかりにぎりしめながら熱心に見ている子供たちの前にいる飴職人たち、何も見えないぐらい高くフキワラを手押し車に積み上げてキーキーと音をたてている男たちなど、様々な人々が往来していました。今では新しい物が街のあらゆるところに見られます。土と小石の道を徐々に変えて創られたアスファルト道、炎が揺らめいて見えたガス灯やロウソクやオイルランプに変わって出来た電灯やネオンの明かり、そして通り上で水売りに売られていた水は蛇口から流れる水に変わりました。人力車の引き手や野菜をどっさり積んだラバの荷車や犬、猫、馬、ロバ、さらに水牛やラクダに至るまでが往来してゆっくりと流れていた人込みなどが過去のものとなり、今では軍事公務員と官僚と外国外交官たちの身勝手な方針でバスや自動車の警笛が通り上にあふれています。
しかし古いもので残っているものもあります。ある宣教師が世界の遺産と呼んだ街を取り囲む明王朝時代に創られた広大な石の壁は、現在も昔のまま残っているものです。この宣教師は壁の上に登れば中国で最も壮観な景色を見る事が出来ると言いました。街の南先端にある壁の頂上からは灰色の銃眼付胸壁や労働者階級地区の土レンガや裕福な家の赤や青の屋根が見え、北方の西洋風の省や領事館のある政府区には高くて現代風の建築物の並びが見えます。
北東に向かって凝視すると、紫金山の暗い一帯でひと際輝いている孫文の白い壮大な墓や南京で最も裕福で権力を持っている市民たちの所有する郊外別荘宅の並びを見つける事が出来るかもしれません。そして北西には、川岸の工業煙突、石炭通気孔から出る真黒な煙り、波止場近くに碇泊する汽船や砲艦、街を横切って、地平線上で北方郊外の江口停車場(駅)と交差している中国北部鉄道や上海南京鉄道の線路などの産業活動を垣間見ることが出来るます。また南京の壁の西側と北側には、地平線に沿って湾曲し、カーキ色で騒々しく流れる巨大な揚子江が見えます。
まだ全てが輝いていた1937年の夏も南京は例年の様に不快な要素が街を包んでいました。南京の夏は湿気があり、蒸し暑く、長い間、「中国三代炎天下の一つ」と称されていました。農場付近の夜の土壌から発する強烈な匂いが入り交じった猛暑は、多くの裕福な人々を夏の最も暑い期間、海岸観光地のある外の街へ追いやっていました。また街に残っている人々にとっても夏の間は常習的に昼寝をして、葦や竹の扇風機を出したり、太陽光線をさえぎって影を創る竹製品を家に掛けたりする時期でした。夕方には近所の人々が家から逃げ出して、野外にイグサの椅子を引き出し、夜遅くまで雑談して、時には外の空気の中でそのまま眠り込みました。
戦争が数カ月以内には戸口まで進行し、家が炎に包まれ、通りは血でびしょぬれになると予想した者はおそらくいなかったでしょう。
8月15日、金陵大学の心理学者だったチャンシャオソンは仮眠のためベッドに仰向けになっている時に警報の金切り音を聞きました。とっさに彼女は考えました。「空襲防災訓練かな?どうして朝刊で発表がなかったのだろう?」
その月の初めに上海で中国軍と日本軍が激突すると、南京政府は他の街へも同様に敵が攻撃して来た時に備えて、街全体に空襲避難訓練だけでなく、自宅を迷彩することや爆撃避難所を設立する指示を与えました。南京中の男性が自宅の赤い屋根や白い壁を黒に塗り替え、地面に隠れ穴を掘りました。街中がまるで「大規模な葬式」の準備をしているようで気味が悪かったと、チャンは記憶しています。
8月15日にその日2度目の警報を聞くと、チャンはさすがに何事か起こっているのか注意を払うようになりましたが、家の友人たちにまた別の避難訓練だと説得されて再びベッドに戻りました。しばらくすると大砲の砲撃のような鈍い騒音が聞こえました。ある友人が「雷だよ。」と言い、再び部屋へ小説を読みに戻って行きました。チャンも再度、ベッドへ戻り、自分が過度に興奮している事を恥じました。しかしそう思うのもつかの間、紛れもないマシンガン音と頭上を飛ぶ戦闘機の音を聞きました。南京はその日、街の歴史始まって以来の空襲爆撃を体験しました。
それからの数カ月間、南京は幾多の空襲爆撃に苦しめられ、居住者たちは地面の地下室や塹壕や防空壕へ隠れることを余儀無くされました。日本軍のパイロットはこの中国首都を無差別に爆撃し、学校や病院や重工業や政府機関を破壊し、裕福であろうが貧乏であろうが関係なく何千人という人々を街から追い出しました。
現在、米国サンフランシスコ市で東洋医学の開業医をしているフランクXingは1937年の秋に両親と共に南京を去った時の悪夢のような状況を記憶しています。当時11才だった彼は大切なパチンコとビー玉の収集物を荷造りしている間、彼の祖母は鉄道技師の父親に行き先で困った時に備えて質入れ用のヒスイ品と銀製ブレスレットを手渡していました。漢口へ向かう列車は何百人もの避難民たちがぎゅうぎゅう詰めに乗せられており、区切られている席に座ることなど不可能な状態でした。席を獲得できなかった者たちの中には列車の真下に自分の全身を革ひもで縛り、線路まですれすれの場所でぶら下がっている者もいました。旅をしている間にXingは人が列車から落ちて車輪に巻き込まれたという噂を何度も聞きました。そしてXing自身も日本の爆撃機が列車を攻撃して来た際にかろうじて生き残り、家族で墓場へ逃げて隠れなければならないことがありました。
また私自身の祖父母も南京から避難する際に永遠に引き離されそうになりました。1937年秋、詩人でジャーナリストだった祖父チャンティンチュンは中国政府に仕え、役人に国民党哲学を教えていました。日本軍による街への爆撃で彼を含める家族は、再三に渡り木板や砂袋で覆われた溝に隠れなければなりませんでした。10月になると祖父はもはや南京は安全な場所ではないと考え、祖母(当時、20代前半の若い妊婦でした。)と叔母(当時、1才の幼児でした。)を南京と上海間にある太湖の土手に所在するIshing市近郊地方の祖母の故郷へ送り帰しました。
ちょうど11月の孫文が没した追悼日に、祖父は妻と家族に会いに一度、街を離れました。それからほんの数日後に再び南京へ戻って来ると祖父の働いていた政府機関は街から避難する荷造りの準備を忙しく行なっていました。そして揚子江土手にあるWufu市から出る船の乗船が、この政府機関に支給されることが告げられると、祖父は直ちに家族へそこで落ち合う言葉を送りました。
彼らはもう少しで落ち合うことが出来ませんでした。祖母の故郷とWufu間の鉄道線路が日本軍の空襲爆撃で破壊されており、残された道は各街につながっている複雑な小水路をサンパン船で進むしかありませんでした。
長い4日間でした。祖父は波止場で船に積まれた戦争避難民を次から次へと凝視しながら切望して家族を待ちました。4日経っても家族が現れないと、祖父は困難な選択に迫られました。妻と娘は南京への道のりには出ていないと信じて次の最終ボートに乗船するべきか、あるいは念のために残っておくべきか...。しかし南京が攻略されるのが目の前まで迫っているのは火を見るより明らかでした。
絶望の中で彼は「Yi-Pei」と最愛の人の名を天に向かって叫びました。すると遠くから反響するように返事が返って来ました。声と共に祖母と叔母と祖母の親戚たちを乗せた最後の小さなサンパン船が遠方から接近して来ました。私の母は祖父母が奇跡的に再会できたのだといつも話しています。
しかしこの私の祖父母と違い南京居住者たちの多くは、11月中も南京に残され、中には取りあえず状勢を待って見ている者や、老い過ぎていたり、貧し過ぎて何もできない者たちがいました。彼らにとり11月は一貫して悪い知らせばかりでした。上海の戦況はかんばしくありませんでした。大半がまだ幼い少年たちで、中には12才以下の者も含まれている中国兵士たちの長い行列が疲労し、負傷し、気力を喪失して沈黙のまま憂鬱に行進し、赤十字旗をたらした大きなトラックに乗せられながら戦場から戻って来ました。また一方では新しく組織された重装備の部隊がタグボートに引かれる前線行きのジャンク船に乗船するために波止場へ向かう道を行進している姿も見えました。明らかに戦いは続いていました。雨や唸りの中を中国の小さな近代戦車が、綿製の軍服や毛布やライフル銃やマシンガンを積んで歩いているラバの列を横にして南京から上海への道のりをガラガラと音を立てて進んでいました。
その後、ついに恐れていた知らせが南京へ届きました。「中国のニューヨーク」である上海がついに陥落しました。そして今は20万人以上の日本軍が70万人の中国軍を退却させながら、海と南京の間に立っているということでした。誰もが聞きたくなかったニュースでした。上海を撃滅した日本軍は今、首都の南京を狙いに定めて進んでいました。
上海の悲報は国民党指導者の蒋介石に大きな衝撃を与えました。中国最大の主要都市の敗北に面した蒋介石は南京を日本軍から防衛するか、首都ごと別の安全な地域に移すかという困難、かつ重大な選択に迫られました。最終的にこの総司令官はこの両方を実施する決意を固めましたが彼自身が南京に残って防衛するのではなく、唐生智と呼ばれる部下にこの重荷を託しました。
蒋介石と唐生智の関係は奇妙でたいへん複雑でした。お互いに本心から信用しておらず、この二人は同盟する仲間である反面、実は極端な競争相手でもありました。例えば唐生智は、かつて国民党が中国北部遠征で国を統一しようとした時に、蒋介石が封建指導者たちを相手に遂行する戦闘に加勢しました。しかし唐生智は蒋介石に対して格別な忠誠心を表したことはなく、この二人の男たちの権力争いは、香港と日本へという唐生智の二度に渡る亡命という結末になりました。1931年に中国と日本間で満州を巡る重大局面が生じると、蒋介石は中国の防衛を強化するために再び唐生智を軍務へ呼び戻しました。唐生智は速やかに中国軍の支配層の中で立身し、1937年には蒋介石軍の軍事訓練部長になっていました。
1937年11月に開かれた南京を防衛するか、置き去りにするかを討議する最高軍事会議の席で、事実上、蒋介石の側近の中で孤立していた唐生智は強く南京防衛に備える意向を発言しました。彼は街を防衛するには、まず前線の中国軍が日本軍の前進を手間取らせ、同時に残りの軍事機関の休息と再編成をはかるように主張しました。
しかし蒋介石が、誰が残って防衛の指揮を取るのかを問うと唐生智や他の士官たちは黙り込みました。蒋介石は唐生智を選び出し、最終提案を発表しました。「私かおまえのどちらかが残るようにしよう。」同位の者たちの面前で唐生智はどう考えても選択の余地がないと感じました。そして「総司令官を残すことができるはずがありません。」と答え、南京に残り、死を賭けて戦うことを誓いました。
南京の防衛が唐生智に委ねられると決定したことは、大きなニュースになりました。11月27日に唐生智はマスコミ会見を催し、記者たちの前で南京に生死を誓う士気を高める活気のある演説を行ないました。演説は非常に熱血的で最後には記者たちが彼を取り巻き、拍手の喝采を送りました。
しかし記者たちの中には、唐生智に極端な動揺が表れていたと記述する者もいました。実は唐生智は成人病から回復したばかりで、ある通信員の言葉を借りると「薬がなければ眩惑している。」ような状態でした。さらに彼はすごい汗かきでもあり、常時、誰かが額を拭う熱いタオルを手渡していました。
おそらく蒋介石は側近の者から歴戦の日本軍と戦える状態でないことを知らされていたので、中国軍が本気で強力な防衛を行なうと示そうと単に唐生智を任命しただけだったのでしょう。あるいは万一の場合に備えて第二計画を準備する配慮をしたのかもしれません。わかっていることは、11月後半にこの第二計画の徴候が現れたということです。まず蒋介石は大半の政府役人たちに南京西部の3つの街、Changsha、漢口、重慶への移動指令を出し、残った役人たちの間に日本軍の攻撃対象となるものは全て置き去られるという噂をかき立たせました。それから数日以内に役人たちのものと見られる車が通り上に集まり、全員がまたたく間に街から立ち去りました。さらにバスや人力車も政府役人たちに持ち去られ、街中の公共自治体の輸送手段は全く機能しなくなり、地方から南京へ米を輸送していたトラックを含む大半のトラックも直ちに消え失せました。そして11月中旬になると、5万人に上る中国軍が立ち去った政府役人のいた場所に到着しました。上流港から到着した軍隊はまず波止場で武器の入っている箱を下ろし、そしてもぬけのからになった政府の建物を占有し始めました。12月には推定9万人の中国軍が南京地帯に居住していました。
軍隊は南京の表情を変えました。中国兵は通り上に塹壕を掘り、地下に電線をひき、まるで戦場のようにとげのあるワイヤーを街の交差点に張り巡らせました。また城壁を要塞化して、古代の銃眼付胸壁に沿ってマシンガンの砦を設置しました。さらに軍需品用の3つの細い輸送通路を残して門を全て閉ざしました。高さ6mにおよぶ門は砂袋で防御され、木とアングル鉄で補強されました。門の中にはコンクリートで完全に閉ざされたものもありました。
12月に入ると軍隊は損失や被害をかまわずに城壁周辺を全て燃やして戦闘区域を創る方針をとり出しました。損失は予想できない多大なものになりました。ガソリンや弾薬を浪費して街周辺の兵舎や農業調査研究所や警察学校や霊廊公園内の建物などを焼き付くす景色は地獄さながらの光景でした。地方ではわら小屋、わらぶき屋根の農家、木や竹の木立、下生えなどがたいまつで火を点けられました。さらに南京郊外の主な街でも容赦されませんでした。軍隊は焼却を行なう前に居住者たちを江口や南門(中華門)から街の中へ引率し、自分の家が破壊される的になった人々は街から数時間以内に出て行くか、あるいはスパイとして逮捕される危険を冒すか、決めるように告げられました。中国軍は戦略上、日本軍が使用する可能性のあるものは全て除去する必要があることを理由に、この焼却を正当化しました。しかしある外国通信員は、炭焦げにされた壁などは攻撃を防ぐ避難建築物として日本軍の役にも立つと指摘し、この焼却は地球を焼き尽くすことで少しでも日本軍が立ち去ることを願う中国人たちの「激怒とフラストレーションのはけ口」だと考えました。
このように南京は侵略に備えられました。体力があったり、判断できたり、お金があったり、立ち去る機会が与えられた全ての人や物が街から出て行き始め、全ての美術館品も荷造りされて運び去られました。12月2日、パレス博物館内にある中国の全文化遺産が何百個という箱に積められて、船で街の外にある安全な倉庫へ運び込まれました。それから6日後の12月8日、蒋介石や彼の妻や側近が飛行機で街から脱出しました。もはや疑いの余地はありませんでした。日本軍による南京の包囲攻撃は今にも始まりそうでした。
奇妙なことに南京防衛の際にこれだけ多くの兵士がいたにもかかわらず、なぜ南京は1937年12月12日までのわずか4日間で陥落したのかという何十年間も考えられている謎があります。中国軍は少なくとも5ヵ月間は包囲攻撃に持ちこたえる十分な弾薬を保有していました。この事項に関して結果的に生存者やジャーナリストや歴史家たちの多くは中国兵の勇気の損失が崩壊に帰した原因であると考え、唐生智は最も必要な時に軍隊を見捨てた悪党だと汚名を着せられました。
しかし新しく見つかった原稿を基にして書かれた最近の歴史資料からは、これとは幾分か違うことが暗示されます。上海での戦闘中、3000機近くの戦闘機を保有する日本空軍は、対して300機の中国空軍を圧倒しました。言い方を変えると中国軍は空軍に関して、日本軍にとても対抗出来る状態ではありませんでした。上海戦でイタリア人に訓練された中国軍パイロットたちは街を破壊してしまい、西洋船周辺地帯や、さらに国際入植地内の混雑した通り上や建物上に爆弾を投下してしまう始末でした。
しかしいくら質の悪い空軍でもないよりはましでした。そしてこれが唐生智に与えられていた中国軍の状態でした。蒋介石や彼の側近たちが街を離れた12月8日、全中国空軍も姿を消し、唐生智はそれからの4日間を日本軍の動向を示す空からの戦略データなしで戦い、南京周辺の丘や山の上に設置された中国軍の贅沢な要塞砲を効果もあげられないまま譲渡してしまいました。
第二に重慶へ移動した政府役人たちが近代通信設備を持ち去っていたので、彼の軍隊はお互いに伝達する手段さえ持っていませんでした。
第三に軍の兵士たちは各々が違う地域の出身者たちなので、言語の問題が生じました。南京で当時、医療補助員をしていた者の供述によると、軍医が広東語を話すのに対し、兵士はマンダリン語を話し、病院では果てしない意思疎通の混乱が生じていたということです。
第四にこの軍の「兵士」たちの多くは誘拐されたり、個人の意志を無視されて派遣された一夜漬けの兵士たちでした。相当な数に上る者が南京に来る以前に銃を掴んだことすらありませんでした。さらに銃弾が不足しており、大半の者たちが銃の撃ち方さえも教えられませんでした。そしてこの未熟な兵士たちの大半が、上海から到着したばかりですでに疲労し、空腹で、中には病気の者も含まれており、街で障害物の建設や塹壕を掘り終える頃にはほどんどの者が体力を既に使い果たしていました。
そして何よりも最悪だったことは、この中国兵たちに団結力や目的意識なかったことでした。ある中国軍士官の戦闘状況報告書には、最前線で日本軍と交戦している別の軍隊を援助しに行くことよりも、軍隊は占有している地域で常に暇にしている傾向があったと記述されています。そしてこれによると、軍の指揮官たちはさらにひどく、彼らがお互いに信用さえしなかったために、日本軍は次から次へと行動する事が可能となり、一つ一つと中国陸軍は打破されて行ったと述べられていました。
12月9日、日本空軍機が3人の将官の一人マツイイワネによって書かれたチラシを上空からばらまきました。そこには「街の無実の民と文化遺産を守る最善の手段は降伏するしかない。」という伝言が告げられていました。さらに「日本軍は抵抗する者は絶対に容赦しないが、日本に対して敵意を示さない非戦闘員や中国兵は丁重に寛大にもてなすことを約束する。」とも書かれていました。そして当日午後12時から24時間以内に街を明け渡すように要求し、「さもなければ恐怖の戦いが解き放たれるだろう。」と宣言しました。
これを見た唐生智はこの最終提案の言葉に対して公式な場で激怒を表明しました。大地にまかれたチラシを投げ付けて、軍隊に二つの指令を与えました。一つ目の指令は軍隊に退却を禁じることでした。「一歩も退かずに防衛を死守しろ。」「命令を破り、退却した者は誰であろうが厳しく処罰する。」と命令書には書かれていました。そして二つ目の指令では、軍隊が非公式にボートで川を横断することをが禁じられていました。ボートを所有している部隊は輸送部門への引き渡しが命じられました。唐生智はこの輸送問題を取り扱う部隊として第78番隊を任命し、ボートを勝手に使用したことが判明した兵士は厳しく処罰すると警告しました。
しかし実のところ唐生智は裏で非公式に休戦交渉も行ないました。彼は下級兵士に至るまで絶対の戦闘続行を約束していた反面、街での対決が避けられるならば、どんな事でもやろうと考えていました。この休戦交渉を支持していたのは、街にまだ残っていた少数のアメリカ人やヨーロッパの人々でした。後の項目に登場するこの私心のない人々は、何か自分にもできることがあるかもしれないと考えて南京に残る決心をし、南京安全地帯の国際委員会を結成しました。彼らがまず最初に行なったことは、街の中の一定区域を非常線で囲んで遮断し、そこを南京安全地帯、または国際安全地帯と定めて、日本軍はその2.5スクエアマイルに区切られた地帯内の中国人や外国人に対して手を出すことができないとすることでした。そして多くの命を救う上で決定的な努力を果たそうと、日本軍と休戦協定を結ぶ手はずを整えようとしました。そして戦闘を3日間休止して中国軍が速やかに軍を街から撤退させている間に、日本軍は現状の立場を維持しながら穏やかに南京へ入城するという計画を提案しました。唐生智はこの退却提案を承諾し、アメリカ領事館を通して蒋介石にこの伝言を言付けてもらうように依頼しました。この計画はUSS ペネイ砲艦のラジオから総司令官へ伝えられましたが、蒋介石は機敏にこの伝言を拒否しました。
12月10日、日本軍は街が降伏するのを待っていました。その日の正午、二人の日本軍参謀司令官が、中国政府が退却旗を持った代表団を差し向けて来るかどうかを確かめようと城壁東側にある山門の外で待機していました。そして誰も現れないと認識すると、日本最高司令部は街を激しく爆撃する命令を下しました。
その日を境に数日間、南京を中心に日中間で激しい戦闘が繰り広げられました。日本軍は街に爆弾を投下し、重火器で壁を打ち砕きました。その後、唐生智は蒋介石へ旧跡や城壁周辺での深刻な状況を表す絶望的で取り留めもない長い電報を送りました。