投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:58:
回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【2】 恐怖の六週間 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:10:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)『南京での強姦』
次に日本人が女性たちに犯した行為に注意を向けてみます。
南京で日本軍第114番隊の元兵士であったタココロコウゾウは供述しています。「女性たちは本当に苦しみを受けていました。若かろうが年老いていようが、全女性たちは強姦される運命から逃れることは出来ませんでした。我々は多くの女たちを捕らえるために江口から街の通りや村に石炭トラックを差し向けました。そして15人から20人の女たちを、兵士たちの性的交際と虐待のために割り当てました。」
生き残った日本退役軍人たちによると、軍部は基本的に敵の女性たちを強姦することを禁じていたと主張しています。しかし強姦禁止規則を心の底から守らない日本軍事文化と迷信が兵士の中に深く根付けられて留まっていました。多くの兵士たちが、処女を強姦すると戦闘でもっと強力な力が得られ、被害者たちの陰毛でお守りを作って身につけると、病気や怪我をしない不思議な力が持てると信じていました。
強姦を禁じている軍の方針に対して、兵士たちは被害者たちを強姦後に殺害することで明るみにでないようにしました。ドキュメント映像「天皇の名において」の会見で元日本兵のアズマシロウは、率直に南京での強姦と殺人の過程について話しています。
まず最初に我々は「ピカンカン」という変な言葉をよく使いました。「ピ」は「尻」という意味で、「カンカン」は「見ろ」という意味です。「ピカンカン」は「女の足を開いてみよう。」という意味です。中国人女性たちは下着を着けておらず代わりにヒモをくくりつけたズボンをはかされていました。ベルトは着けておらず、我々がヒモを引くと尻をさらすという仕掛けになっていました。ピカンカンをして、じっと見つめ、しばらくした後に「風呂に入る絶好の日だ。」という様なことを言って我々は彼女たちを強姦して回しました。強姦されるだけならまだましでした。まだましだと言うのはよくない言い方かもしれませんが我々は常に彼女たちを刺し殺しました。なぜなら死人に口なしだからです。
タココロコウゾウはこの問題を話すアズマの無骨さに共に参加しています。彼は供述しています。「同じく我々も強姦後に彼女たちを殺しました。あの女性たちは一度、行かすと逃げ出したでしょう。だから後ろから彼女たちを「バンッ」と撃って、全てを終わらせました。」生き残った退役軍人たちによると、大半の兵士たちはこの行為に対して僅かな罪悪感しか感じていなかったそうです。「おそらく我々は強姦する時は彼女たちを女性と見ていたが、殺害する時はブタの様なものとして考えていました。」とアズマは書いています。
さらにこの性質は下級兵士だけに限られていたことではありませんでした。全階級の士官たちも兵士のこの乱行を黙認していました。(年長者の将官で日本6番師団長のタニヒサオでさえも、後に南京で20数人の女性を強姦した有罪判決を受けています。)士官たちの中には街中での集団強姦を薦めただけでなく、犯罪証拠を残さないように後で女性たちを殺しておけと指示していた者もいました。「彼女たちに金を払うか、強姦後、どこかわからない所で殺しておけ。」とある士官は部下に告げたそうです。
『マツイイワネの到着』
この殺害や強姦は、12月17日にまだ病気の完治していないマツイイワネが儀式パレードのために街へ入城すると一時静かに治まりました。一連の結核が回復した後に彼は海軍汽艇で川を上り、南京東側の山門にある三重アーチ道を車でくぐって到着しました。そして彼は東京の皇居へ向く栗材邸宅を置き、国民ラジオ放送会社を通じて天皇のために「天国の偉大な野戦陸軍元帥、万歳!」と万歳三唱を唱えました。そして入念に死体が片付けられ、喝采を送る何千人もの兵士たちが両側に並ぶ大通りを進み、夕方に祝宴予定のある街北部のメトロポリタンホテルへ到着しました。
この祝宴会中にマツイは南京で何か恐ろしい事態が発生しているのではないかと気付いたようだと記録書には示されています。当日の夕方に彼は職員相談所へ電話をして、全ての不必要な軍隊を街の外へ移動する指令を出しました。その翌日に西洋諸国のニュースメディアが、日本軍はマツイに対して南京残虐行為の全真相を隠すために大がかりな隠蔽工作を実施したと報告しました。
マツイは街の中に強姦や殺人や略奪が充満している範囲を理解し始めると、失望し、狼狽しました。1937年12月18日に彼はある市民補佐官に告げました。「今となって私はこの街で最も嘆かわしい事態が発生していることに気付いた。私は南京から逃げた多くの中国人の友人たちの気持ちや感情と、これからの両国間の将来を考えると意気消沈する。私は残念で、もはやこの勝利を喜ぶ気分にはなれないだろう。」さらに彼はその日の朝刊新聞に公開した声明に後悔の気配を表しました。「私は個人的にこの悲劇を申し訳なく感じているが、日本陸軍は中国が懺悔しない限り前進し続けなくてはならない。今、この冬という季節はじっくり考える時間を与えてくれる。私は100万人の無実の人々へ深く弔慰を捧げる。」
その後、日本司令部が催した侵攻中の戦死日本兵の葬儀の時に、マツイは、大地に立っている300人の士官や連隊長や他の者たちに街での乱行に対しての叱責をしました。日本通信員だった松本は筆跡しています。「かつて彼がこの時ほど士官たちを痛烈に叱咤したことはありませんでした。その場にいた士官の中に天皇家の親王が含まれているにもかかわらず叱咤したこのマツイの振る舞いを軍部は信じられませんでした。」
12月19日の日曜日、マツイは街の外にあるアサカの司令本部へ移動し、後日に上海に戻る駆逐艦へ乗りました。しかしそこで彼はたぶん自暴自棄になって衝撃的な行動を行ないました。彼は心配事をニューヨークタイムズ新聞に打ち明けた上に、アメリカ人通信員に「今日の日本軍はおそらく世界で最も無秩序な軍隊だろう。」と告げました。さらにこの月に、彼はアサカ親王の参謀長官へも大胆な伝言を送りました。それには「不法行為がまだ続けられているという噂を聞いています。しかしアサカ親王が我々の司令官なので、特に軍の規則と道徳は、さらにきびしく手入れされていることと思います。不始末を起こす者は誰であれ厳しく処罰して下さい。」と記述されていました。
翌年正月になってもマツイはまだ南京で日本兵の犯した行為に狼狽していました。祝杯の席で彼は日本外交官に打ち明けています。「私の部下たちは非常に誤った残念なことを犯してしまった。」
しかし強姦は引き続き行われました。殺人は引き続き行われました。マツイには止める能力がありませんでした。マツイはこの短期の南京訪問中に仲間たちの前で涙を流したと、それから数年後に語ったそうです。「追悼儀式後に私は直ちに上級士官たちを集めて彼らの前で怒りの涙を流した。アサカ親王とヤナガワ中将の両名もそこにいた.......。私は兵士の残虐行為によって全てが失われたと彼らに告げた。信じられるか?それでも兵士たちは私を見て笑みを浮かべていた。」
『慰安婦たち:南京の証言』
そして最も異様で重大なことは、南京の大規模な強姦事件に対する西洋諸国からの大きな抗議に対して日本政府がとった対応方法でした。日本最高司令部は兵士たちの行動を抑制したり、処罰したりするよりも、地下に巨大な軍事売春システムを創り上げました。何百人、何千人に上る女性たちがアジア全域に渡り、包囲網の中に引き込まれました。中央大学名誉史学教授ヨシミヨシアキは述べています。「中国中部地域にいた日本派遣軍はこの時期に慰安婦施設を設立する指令を出しました。なぜなら日本は南京の戦闘中に日本兵が犯した大規模な強姦事件を中国やアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に酷評されることを恐れていました。」
計画は率直に進められました。約80,000人?200,000人の女性たちがおびき寄せられたり、購入されたり、誘拐されて連行されました。これらの女性たちの大半は韓国の日本人居留地からの女性でしたが、中には中国や台湾やフィリピンやインドネシアなどからの女性たちも含まれていました。日本軍はこの売春システムで一般女性たちへの無作法な強姦発生率が減少し、国際批評が少なくなると考えていました。またこれには、コンドーム使用で伝染する性病を抑制したり、戦闘前線での長い兵役に対する兵士たちへの報酬という考えも含まれていました。もちろん後に世界がこの計画を知った後も、日本政府はこの責任を承認せず、帝国政府ではなく民間事業が戦時中のこの軍用売春宿を経営していたと何十年間にも渡って主張しています。しかし1991年にヨシミヨシアキが日本防衛庁から「軍用売春宿への女性たちの補充について」と題された書類を発見しました。書類の中には日本最高司令部のリーダーたちの個人印が押されて、日本が統治していた中国内の領域内で軍隊が女性の強姦を止めるために出した「性的慰安設備」の緊急建設の指令物件が含まれていました。
1938年には最初の公認慰安施設が南京近郊で開設されました。女性にせよ、彼女たちの「施設」にせよ、「慰安」という言葉を使っていたのは滑稽なことです。温泉を思い起こさせるこの慰安施設は、リュートをかき鳴らし、男たちを洗い、指圧マッサージを与える美しい芸者たちを連想して創設されました。しかしこの売春宿の現実の状態は、文明人たちの大半が想像にも及ばない汚らしいものでした。これらの数え切れない大勢の女性たち(日本人たちは「公共トイレ」と彼女たちを呼んでいました。)は自分自身の運命に対して、常に命がけでした。病気や殺害されて死んだ者たちも大勢いました。生き残った女性たちも残りの人生を恥辱や孤立、不妊や健康を害されて苦しみました。大半の被害者たちが女性に対して純潔が理想とされている文化の国の出身者だったので、生き残った女性たちでさえも、ごく最近になるまで大半が恥と愚弄に直面することを恐れ、戦後になってもこれらの体験を語りませんでした。アジアの儒教(特に韓国儒教)では、女性が貞操の純潔を保つことは命よりも大切だとされており、どんな女性であれ、この様な墜落した体験をして生き続けて自殺を犯さないことは社会への侮辱だという信仰を永続しています。それゆえに慰安婦たちが沈黙を破り、彼女たちの被害に対する損害賠償金を日本政府に要求するまで半世紀という期間が過ぎ去ってしまいました。
『南京:裏にある動機』
それでは当時、南京にいた日本人たちの心理状態は一体どうだったのでしょう?ライフル銃や銃剣を手渡され、この様な虐殺行為に駆り立てられた10才代の日本兵たちの心理の内側には一体、何が存在したのでしょうか?
多くの学者たちはこの疑問に取り組み、そして解答することはほぼ不可能だと答えています。「Japan at War: An Oral History」を妻ハルコと共に執筆したセオドアクックは南京大虐殺の残虐行為が理解しがたいことを認めています。彼は日本国内で起きた内部戦争の歴史上には、この虐殺と酷似するものはなく、どちらかと言えば日本の歴史よりもモンゴルの一時期に見られる都会大衆へ対する意図的な破壊や虐殺に類似していると語っています。南京における日本人のたちの心理状態を考察すると、まるで「ブラックホール」を眺めているようだと彼は言っています。
多くの人々は名高い日本人の素晴らしい礼儀正しさや行儀良さと南京での野蛮行為を一致させることは難しいと語っています。しかしある特定の軍事専門家たちの中には、これら表面上の二つの違う性質は実は絡み合っていると考えている者たちもいます。昔の侍たちはかつて何世紀にも渡り、農民たちが質問に対して礼儀正しく答えられなければ、彼らの首を切り落とすという厳格な力にとりつかれていたことを彼らは指摘しています。あるアメリカ軍事情報部員は第二次世界大戦中の日本文化についてこう書いています。「今日、礼儀正しく答えることに対する日本人の考えは質問者たちを満足させています。礼儀正しく答えることが日本人の国民性だということに驚きませんか?」
また日本人が戦時中に行なった虐殺行為は、日本文化の中にあると考えている専門家もいます。「The Chrysanthemum and the Sword」の作者であるアメリカ人類学者のラスベネディクトによると、日本社会内にある道徳的な義務理念は全般的なものでなく、局部的に挙げられて解釈されているものが多く、故に日本人は簡単に外国の土壌を破壊することが出来るのだろうと書いています。また別の専門家たちは日本の信仰宗教がキリスト教の性質と違うところを指摘しています。キリスト教は全人類は兄弟であり、万物は神の概念の中に創造されているとしているのに対し、日本の神道は天皇とその子孫だけが神の概念として創られています。この専門家たちはこの様な相違を引用して、洗練された文化は種族的な核心だけを残し、種族内の個人が負う義務は部外者の持つものとは全く異なるようになると結論を出しています。
しかしこの宗教の推定論には二つの本質的な無理があります。この推定には「この信仰宗教を美徳とする日本人は当然、西洋文化よりも非人道的で、異なった基準を持つ人々に審査される必要があり(これに関して私は無責任で、あつかましい様に見受けられます。)、キリスト教文化がどう言う訳か南京大虐殺の様な虐殺を犯す可能性が少ない。」という考え方が含まれています。しかし熱心なキリスト教国であるドイツのナチスは1930年代から1940年代にかけて、ドイツの魂を奪い、悪魔的に人々を変えて、敵国へ宣戦布告し、その結果、この地球上でかつて起きたことのない人類に対する最悪の犯罪事例を生み出しました。。
この千年代の歴史を振り返ってみても、民族や文化が戦争虐待を独占したことがないことははっきりしています。文明化の化粧板は非常に薄く、特に戦争の圧迫によって簡単にはがされてしまいます。
それでは南京という街で毎日の様に実行された底冷えのする残虐行為は一体どの様に説明することができるのでしょうか?大半の者が刑務所内や処刑隊の前で消滅してしまい、たとえ生き残っても法からの逃亡者として余生を過ごしているナチスと違い、多くの日本人戦犯たちは日本政府の保護の下で今も平和と快楽の中に生きています。それゆえに彼らの存在は国際裁判から報復される心配をせずに、第二次世界大戦中の虐殺についての知識や感想の一瞥を作家たちやジャーナリストたちに語ることが出来る数少ない人々です。
ここに伝えておくべきことがあります。日本兵は単純に中国の戦闘で冷酷になったのではなく、中国人の戦闘員や非戦闘員を殺害する任務に対して冷酷になったと語った元日本兵がいます。事実、ゲームや儀式による様々な虐殺方法は、兵士たちが無抵抗の人々を殺すことを本能的に無感覚になるように日本軍によって考案されたものでした。
例えば死刑を実行する際、日本兵たちは日本人記者たちに囲まれて、まるでスポーツイベントの様な殺人競技に参加されられました。最も悪名高い記事がJapan Advertiserの12月7日号に「中国人100人斬り大接戦の少尉たち」と見出しに書かれて発行されています。
日本軍が南京を完全制覇する前に、どちらが最初に中国人100人斬りを達成できるかという個人的な刀の一騎討ちが行なわれた。友好試合を行うKuyung駐留の片桐部隊の両少尉、ムカイトシアキ少尉とノダタケシ少尉は大半の者の首を斬り落として接戦の最終局面に入った。日曜日(12月5日)...... アサヒによる「点数」はムカイ少尉89、ノダ少尉78。
一週間後、どちらが最初に100点を越えたか決定出来なかったので、彼らは目標を150に上げたという記事が発行されました。 Japan Advertiser には記述されています。「ムカイ少尉の刀の刃が競技でわずかに損傷した。これについて彼は中国人をヘルメットごと真っ二つに斬った結果だと説明した。そして試合は「おもしろい。」と言っていた。」
この様な虐殺は南京周辺だけに限られて行なわれた訳ではありませんでした。むしろこの虐殺方法は戦時中に中国にいた日本兵たちの殺人感度を減らす典型的な練習行事の一つでした。元日本兵タジマ(匿名)による次の証言には驚かされるものがあります。
ある日、オノ中尉が我々に言いました。「おまえたちはまだ人を殺したことがないので本日は殺人演習を行うことにする。おまえたちは中国人を人間として考えずに、ただの犬か猫以下のものだと考えるようにしろ。勇気を出せ!では殺人演習に志願する者は一歩前に出ろ。」
誰も動きませんでした。すると中尉は逆上しました。
「憶病者!」彼は叫びました。「誰一人として日本兵と呼べるのにふさわしい者はいないのか?誰も志願する者はいないのか?それでは私が指名することにする。」そして彼は名前を大声で叫び始めました。「オタニ、フクカワ、ウエノ、タジマ(どうしよう。俺もか!)」
私は震える手で自分の銃剣装着銃を持ち上げ、ほとんどヒステリックに罵声を浴びせる中尉の指示に従い、一人の中国人に向かってゆっくり歩きました。彼は自分で掘った墓穴の窪地のそばで恐怖におそわれて立ちすくんでいました。内心で私は許しを乞いながら、目をつむり、耳に入る中尉の罵声を閉ざし、すくんでいる中国人を銃剣で突き刺しました。再び目を開けると中国人は窪地の中に前のめりに落ちていきました。「人を殺してしまった!人を殺してしまった!」と私は心の中で叫びました。
新しく来た兵士たちが恐怖することは当然の衝動でした。ある未熟な新兵グループの日本戦時回顧録には、市民グループを死に追いやる拷問を熟練兵士がしているのを目撃した時の衝撃をどうしても隠し通せなかったと記述されています。新兵たちの司令官はこの様な反応を熟知しており、日記をつけています。「新しく来た兵士たちはいつもこうだが、すぐに同じことを彼ら自身も行なう様になる。」
これは新しく来た士官たちにとっても同じことでした。退役軍人トミナガショウゾウは自分が潔白な若者から殺人機械へと変化したことをはっきり記憶しています。トミナガは広島から第39番師団の第232番連隊に派遣された当時、陸軍士官学校出身の中尉でした。トミナガは彼の指揮下におかれた部下たちに自己紹介をする際に戸惑ったことを覚えています。「彼らは邪悪な目をしていました。彼らの目は人間ではなく獅子か虎のようでした。」
前線でトミナガと他の新士官候補者たちは戦争の試練に堅固に耐えるための強化訓練を受けました。教官が監獄の中にいる細く痩せ衰えた中国人を指差して言いました。「こいつらはおまえたちの精神力を試験する生材料だ。」それから毎日のように教官は彼らに生きている捕虜たちの頭の斬り落とし方と銃剣の刺し方を教え込みました。
最終日に我々は試験の現場へ連れていかれました。24人の捕虜たちが手を後ろで縛られてしゃがんでいました。彼らは目隠しをされて、その近くには大きな穴が掘られていました(縦10m、幅2m、深さ3m以上)。全連隊長や大隊長や歩兵中隊長が整理されて並べられている椅子に座っていました。タナカ中尉が連隊長へおじぎをすると、「開始しろ。」と告げられました。彼は雑用義務兵に窪地の端へ捕虜を引っ張り出す指令を出しました。抵抗した捕虜が蹴り上げられていました。そして最終的に引きずり出されて、ひざまづかされました。タナカは我々に向きを変え、我々一人一人の顔をじっくり見ました。「この様に頭は斬り落とすのだ。」と彼は言い、軍刀を鞘から抜きました。そしてバケツから水をすくい上げて刀の両面に注ぎ、水が流れ落ちると、それを長い弧を描いて持ち上げ、捕虜の後ろ側で足場を安定させて叫びながら捕虜の頭を斬り落としました。「や!」。頭は1m以上飛び、血が二つの分かれた体から噴水のように吹き出し、穴の中にまき散らされました。
この眺めは呼吸が出来なく感じるぐらいおそろしかったです。
しかし、このトミナガショウゾウも徐々に殺人を学びました。そして殺人が熟達すればするほど、部下たちがもはや邪悪な目をしていると感じなくなりました。彼にとり虐殺することは、ありふれた任務の一つになり、陳腐化していきました。彼はこの体験を振り返って書いています。「我々は彼らにこの様なことをしました。家の中にいた善良な息子たち、善良な父親たち、善良な兄たちを前に連れてきてお互いに殺し合わせました。人間が殺人鬼に変わっていました。誰であれ3ヶ月以内には殺人鬼に変わっていました。」
日本兵の中には、個人の命は自分自身のものも含めて全て無価値であり、天皇の捧げるものだと教えられていたので、殺人を犯すことは簡単だと認識している者もいました。南京で虐殺の一連を目撃したアズマシロウは私への手紙の中で仲間たちの行動についてのしっかりとした意見を述べています。京都府福知山で実施された第20番歩兵連隊の2年間におよぶ訓練中に、彼は「忠誠は山よりも重い。我々の命は羽根よりも軽い。」と教えられました。兵士にとり、最高に名誉なことは戦争中に死んで帰ることであり、天皇のために死ぬことは最高な栄誉であり、敵に生きたまま捕らえられることは最大の恥辱だと教えられたそうです。アズマは書いています。「自分の命が重要でないのなら敵の命はさらに重要でないように必然的になりました.......。この哲学は我々に敵を見下さし、ついには捕虜たちの虐殺と最低の病気治療を行なう方向へと導きました。」
会見後の会見で南京大虐殺を行なった日本退役軍人たちは正直に当時の自責の念の欠如や犯罪感覚や無力な市民への拷問の体験などについて報告しました。ナガトミハクドは陥ちた街で感じたことを率直に話しています。
私は積み重ねられた何千人、何万人という虐殺遺体を片付けながら小道に沿ってトラックを運転していました。車を止め、中国人捕虜グループを後ろの荷台から野良犬の群れが死体にかじりついている通りに降ろしました。そして日本人士官が私の精神力を試そうと提案しました。彼は刀を鞘から抜き、刃につばを吐き、突如、我々の前にかがんでいる中国少年の首に向かってそれを力強く振り落としました。頭はきれいに斬り落とされて向こう側に転落し、残った肉体は前屈みに倒れ、血が首から二つの噴水となって吹き出しました。士官は私に土産として故郷へその首を持って帰るように薦めました。私は彼の刀を受け取り、人々を殺し始めると誇り高く微笑んでいたことを記憶しています。
6年近く精神がさまよった後にナガトミは変わりました。日本で医者になり、待合室には自責の念を唱える廟を作っています。患者たちは彼の南京での裁判や、犯した犯罪の完全告白などをビデオテープを通じて見ることが出来ます。この穏やかで寛容な振る舞いの医者が、かつて無情な殺人者だったとはとても思えず、この恐怖の過去と一致するところは全くありませんでした。
ナガトミは言っています。「ほとんど知られていませんが、日本兵の中には赤ん坊を銃剣で突き刺して、まだ生きている状態で沸騰するポットの中に投げ入れた者もいました。彼らは12才から80才にまでおよぶ女性たちを強姦し、そして性欲を満たさなくなると彼女たちを殺しました。私は200人以上に上る人々を斬首したり、餓死させたり、焼き殺したり、生きたまま埋めて全員、殺害しました。野獣に成り変わり、この様なことを犯したことは恐ろしいことです。私が犯したことを説明する言葉が本当に見つかりません。私は正真正銘の悪魔でした。」