投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:52:55:
回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【序文】 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:51:27:
Part 1 【1】南京への道
日本人がなぜ虐殺行為を犯したのかという問いに対して、明確に解答することは最も大切な事項です。何が普通の人間として管理されて統治されていた完全自制を抜け出して、日本兵の性質を生み出し、その領域を破壊したのでしょうか?なぜ日本人士官たちは、この様な破壊活動を許可した上に、促進したのでしょうか?日本政府の陰謀は一体何だったんでしょうか?海外から独自のルートを通って知らされた報告書に対して、少なくともどういう反応を示したのでしょうか?
これらの疑問に解答するために少し歴史を参考にする必要があります。
20世紀における日本人は一体となって社会に階級制度を設立し、物質競争を促進する千年制度を模造しました。過去にさかのぼると誰もがご存じの様に島にいる強力な封建君主たちはそれぞれ絶え間のない戦いを遂行するために民間兵士たちを雇いました。中世期になるとこれらの兵士たちは「武士道」(戦士の道)と呼ばれる道理を持った日本の侍たちに際だって変わっていきました。君主に奉公して死ぬことは、侍戦士の人生における最大の名誉とされました。
この様なことを名誉とする慣習は、もちろん日本文化から生まれたものではありません。ローマの詩人Horaceがそれぞれの世代の若者たちに支配者たちの恩義をこうむらせようと最初に定義しました。しかし侍の哲学はこの定義を越えて、軍事機関にふさわしくなるように大きく段階を踏んでいきました。恐ろしいことは、その軍事機関の名誉を傷つけた場合、支持者たちが精神的な義務として、自殺を犯すという有名な特性を慣習づけたことです。崇高な儀式として、戦士が目撃者たちの前でひるむことなく自分自身の腹を切り、自殺を犯す悲惨な儀式「ハラキリ」などはその一例です。
12世紀になると、それぞれの統治者たちの上に立ち、侍たちの中で最も強力な力を持つ将軍と呼ばれる者が、偉大な太陽の神から直接、産まれたと崇拝されている天皇に対して、神聖な支配階級を許可してもらう代わりに、侍が軍事上の保護機関になるという申し出をしました。そしてこの交渉は成立しました。最初はこの慣習に少数の人々しか従いませんでしたが、次第に日本文化の中へ深く潜入していき、若者たちの間の高貴な侍に対する考え方の基礎となりました。
その後、この武士道倫理はすぐには強く浸食せずに、まず18世紀に目覚め、そして最近の世代になって過度に慣例化しました。第二次世界大戦で日本戦闘機のパイロットが仰々しくアメリカ戦艦に突撃した悪名高い「かみかぜ」特攻は、日本の若者たちが天皇に対して、どのくらい命を捧げているかを西洋諸国に劇的に印象づけました。しかしこれは降伏するぐらいなら死を選べということに固執する少数の士官グループに実行されたに他なりません。連合軍はサイパンや硫黄島の戦いで死者の1/3が捕虜になりましたが、日本軍が捕虜になる確率は死者の1/120しかいませんでした。
また日本に与えられた別の個性の強制に、肉体と人権が束縛されたことがあります。15世紀後半から16世紀前半頃に日本は徳川一族に統治され、この島国国家は海外の影響から堅く封じ込められました。広い世界からの防衛手段を意図したこの鎖国政策は、防衛どころかヨーロッパ諸国で行われた産業革命の新しい科学技術から日本社会を大きく取り残すことになりました。それからの250年間、日本の軍事技術は弓と刀から進歩しませんでした。
19世紀になると、不安定な情勢や拝外主義の破滅を唱えて、この鎖国の繭を打破しようとする動きがありました。他の社会に対する「白人の義務」姿勢を取り、ヨーロッパ人と共通して合理的な拡張政策を支持していたアメリカ大統領ミラード フィルモアは、貿易を開かない日本の拒絶姿勢にしびれを切らし、1852年にマシュー ペリー長官を日本へ派遣することでこの鎖国に終止符を打つことを決意しました。ペリーは慎重に日本の歴史を研究し、アメリカ軍事機関の偉大さを誇示することで日本人に衝撃を与えようという結論を出しました。1853年7月、東京湾に2隻の黒い煙を吐き出す船が現れました。これらは日本の人々に初めて鉄で覆われた蒸気機関船を見せることになりました。刀と拳銃を装備している60人か70人の勇ましい男たちに護衛されて、ペリーは将軍のいる地を闊歩し、日本の上級役人と会見しました。
ペリーの出現が日本人を慌てさせたと言うのは、かなり控え目な言い方かもしれません。歴史家サミュエルエリオットモリスンは、この出来事は当時の日本人にとり、「不思議な形をした航空機を操縦する宇宙飛行士が、圏外から地球へ軌道に乗ったと通知している。」ことに相当する状態だと述べています。恐れた徳川貴族は戦争の準備をし、貴重な物は隠し、混乱しました。しかし最終的に、彼らはアメリカ軍事技術の優越さを思い知らされ、交渉を承諾せざるを得ませんでした。このただ一度のペリーの訪問は、アメリカとの貿易条約の調印を徳川幕府に強いただけで収まらず、イギリス、ロシア、ドイツ、フランスの様な他の諸国に対しても日本貿易の扉を開かせました。
この誇り高い人々の屈辱感は、すさまじい恨みとなって残りました。ひそかに日本の権力者たちの中には、西洋諸国と直ちに戦争を開始することを主張する者もいましたが、大半の者たちは戦えば外国ではなく日本が衰退するだろうと論じ、しばらく用心する事を薦めました。そして日本指導者たちは侵略者たちを懐柔し、彼らから学び、報復を静かに計画する政策を取りました。
機械技術面において我々は到底、異国人たちには及ばないので、外国諸国と交際し、彼らの訓練法や戦術を学び、我々が一つの統一された日本国家を建てた暁に、海外へ出て戦争で名を上げた者に対して、外国の土地を与えることが出来るだろう。兵士たちは勇猛さをお互いに競い合い、それから西洋諸国に宣戦布告しても遅くはないだろう。
この見通しは達成されませんでしたが、この言葉はこれから日本人が歩んでいく戦略だけでなく、個人ではない国家権力の長期展望として述べられていることを予言していました。
明確な結論も出せないまま徳川幕府は統治権を致命的にする条約の調印をしばらく見合わせることにしました。将軍の宥和政策は彼の忠臣たちの考え方と大きくかけ離れ、異国人たちの前で卑屈にへつらう以外、何もしない将軍の慎重な態度を見て、好戦的な態度を示す敵の攻撃手段に対して、大半の者が反感を用いました。将軍の委任統治に対する威厳は確実に落ち、反乱分子たちが天皇へ権限を返還させて政府を瓦解させることをもくろむ同盟軍を結成しました。
1868年に革命軍が明治天皇の名の下に勝利を獲得し、日本を封建制度からつぎはぎ作業で強力な武装近代国家に変えて行く政策をとりました。彼らは神道と呼ばれる太陽の宗派を国民的宗教に祭り上げ、部族社会を一掃し、島国一帯を団結させるために、天皇を国民の象徴として利用しました。西側諸国に対する最終的な勝利を獲得するために、この新しい帝国主義政府は、全国民の道徳的な慣習として「武士道」である侍の倫理を採用しました。外国からの脅迫は、島の改革をさらに促進させ、その後、日本は明治維新と呼ばれるこの時代に「天皇陛下万歳!」「異国人たちを追い出せ!」「富国強兵!」をスローガンに鳴り響かせました。
驚くほど急速に日本人は、科学的にも経済的にも軍事的にも近代化を促進させました。政府は優秀な学生を西洋諸国の大学へ留学させ、軍事産業工場を創造する産業コントロールや、徴兵制度を確立して各地に統制された軍隊をおくために、科学や技術を学ばせました。そしてドイツの軍事機関を特に好みながら、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国の防衛政策を細心に分析しました。しかし留学生たちによって持ち帰られた西洋技術や防衛戦略の知識は日本軍優勢といった古い自信をこなごなにするほど差があり、西側諸国にいつの日か勝利するという必然性に暗雲を灯しました。
19世紀になると日本はアジアの隣国に対して新しい力を試して見ようとその筋力を曲げ始めました。1876年、明治政府は韓国へ海軍の戦艦2隻と輸送船3隻を派遣し、ペリーが日本へ対して試みたことを彷彿させる強行な貿易条約の調印を求めました。
そして韓国をめぐって中国と衝突しました。1885年に日中両国が韓国の保護国となる条約が合意されましたが、それから10年も経たずに、日本超国家主義者に退けられていた韓国暴動を中国人が鎮圧しようとした時に均衡は崩れ去りました。1894年9月、宣戦布告して6週間も経過しないうちに日本はピョンヤンを獲得しただけでなく、海上の中国北方艦隊も撃退しました。その後、清政府は下関条約で200万テールの戦争賠償金を支払い、日本へ台湾とPescadoresと満州のLiaodong地方と4つの貿易港を譲渡する調印を強いられました。これは後に第一次日中戦争(日清戦争)と呼ばれています。
日本にとって完成されたかに見えたこの大勝利は、後に西洋パワーの介入によって敢え無く台無しにされました。この戦争後に日本はLiaodong半島という大きな戦価を勝ち取りましたが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉により最終的に譲渡を余儀なくされました。日本人の行動に指図するこのヨーロッパ政府の力の誇示は日本を強ばらせただけでなく、一層軍事力を強化させて、西洋の苦しめる者たちに対抗しようと考えさせるように促進しました。それから1904年までに、日本国家は軍隊を2倍に強化し、兵器生産力を大きく増大させました。
この軍需拡大政策は、すぐに成果を試すこととなりました。日本は中国だけでなく、ロシアさえも、戦いで破ることに成功しました。1905年の日露戦争の結果、日本はLiaodong半島の旅順港の奪回と、津島海戦の勝利でサハリン島半分と満州での商業権を獲得しました。これは50年以上も西洋諸国に屈辱の取引を強いられて、苛立っていた誇り高いこの国にとって心の浮き立つ出来事でした。「日本は領土を広げ、他の国を運営する運命にある。」と勝ち誇ったある日本人教授は自国の気持ちをまとめていました。
これらの成功で豊かになった20世紀初期は、日本にとって幸福感に溢れた時代でした。近代化は国にとり、軍事威信だけではなく、前例がない経済繁栄となって現れました。第一次世界大戦の勃発は、鉄と鉄鋼製品、そして織物業や海外貿易の需要を上げ、日本に思わぬ利益をもたらしました。株は急上昇し、大立て者が無名人から飛躍し、浪費は国の目を眩ませました。男尊女卑社会で伝統的に引き込んでいた日本女性たちでさえも、カジノや競馬場で運を賭事で試しました。
おそらくこの繁栄が持続していたならば帝国軍事機関の影響を阻止するほど力のある強固な中流階級が日本内に現れていたかもしれません。しかしそうはなりませんでした。時代は代わり、日本は近代史上、最悪の経済危機状態に陥り、以前の利得は一掃され、窮乏の淵に追いやられ、戦争へ歩む速度を加速させました。
1920年代になると、日本は黄金時代の繁栄のカーテンを閉じました。第一次世界大戦の終結が、以前の飽くことのない軍需品の需要に歯止めをかけると、日本の軍備工場は次々と閉鎖し、何千人もの労働者が職を失いました。また1929年にアメリカ合衆国で株式市場が崩壊して不景気に陥るとともにアメリカ人が贅沢品の購入を減少させると、日本の絹製品輸出にも大きな打撃を与えました。
重大なのは、日本が第一次世界大戦において連合軍側に属していたにもかかわらず、多くの国際商業者や各国の消費者たちが戦後に日本の製品を避ける政策をとったことです。日本国家はヨーロッパ国家と共に、第一次世界大戦勝利の利権で外国に領域を拡張する権利があるにもかかわらず、同等に見なされませんでした。新世紀初めの10年間を通して日本が中国に対してとった侵略的な態度や、戦争和解の結果としてコントロールされている以前のドイツ領で日本が西洋スタイルの植民地政策を行っていることに対して不快感を抱いていた西洋諸国の財政家たちは、中国人に強く投資を始めました。またベルサイユ条約でドイツが所有しているShantung半島の権利と特権が日本に譲渡されることに不満を持つ中国人たちは日本商品を広範囲に渡りボイコットする組織を作り上げました。これらの攻撃は、日本経済に大きな打撃を与え、再度、日本は国際共謀の被害者になったという意識を持ちました。
経済の下降が一般日本社会を荒廃させました。商業は閉鎖し、失業率は暴騰し、貧しい農民や漁師たちは娘を売春業へ売り飛ばしました。インフレーションが上昇し、労働者はストライキを起こし、さらに1923年9月に途方もなく大きな地震が起こり、より一層、事態を悪化させました。
この不況下時に大半を占めた一般論議の話題は、飢餓の広がりを防ぐためには日本は新しい領土を獲得する必要があるということでした。人口は明治維新時に3千万人だったのに対し、ほぼ6千500万人に増大しており、日本は人々を食べさせて行くことが急激に困難になりました。日本農民たちは努力の限り、土地を切り詰め、1920年代の農業生産高は横這いを続けました。しかし絶え間ない人口増加は毎年、輸入食品に強く頼らざるを得ず、1910年代から1920年代終わりにかけて、米輸入量は3倍に膨れ上がりました。かつて日本の絹需要で支払われていたものも次第に外国需要や競争激化のために不平等な関税を減少することが主題になっていきました。
1920年代の日本軍の若い急進論者たちは、軍備拡張が国を生き残らすために不可欠だと論じていました。ハシモトキンゴロウ大尉が執筆した本「若者たちへ贈る言葉」にはこう書かれています。
日本国が過剰人口の緊迫状態から抜け出す方法は3つしか残されていない。移民と世界市場への前進と領土拡大の3つである。第一の扉である移民は、他国が反日本人移民政策をとっているので塞がれている。第二の扉も関税障害と商業条約の撤回により閉ざされている。3つの扉のうち2つが閉ざされた状態で、日本はどのようにしたら良いのだろうか?
他の日本人作家たちは、他国が広大な領土を保有しているにもかかわらず、日本は土地当たりの産出高が低いという不平等な状態に不平を言っています。日本は中国の果てしなく広がった土地資源だけでなく、西洋諸国の領土も含めて羨ましく感じていました。軍事宣伝者アラキサダオが言っています。「オーストラリアやカナダの様な国々が650万人を食べさせるために3,000,000スクエア/マイルの土地を保有しているのに対し、どうして日本は6000万人の口に食べさせないといけなにもかかわらず、大半が不毛地帯である142,270スクエア/マイルだけで満足しなければならないのか?これは矛盾していて、平等ではない。」超国家主義者にとり、アメリカ合衆国は全ての面において裕福な優越さを持っていました。アラキサダオはアメリカ合衆国が自国の3,000,000スクエア/マイルの領土だけでなく、それとは別に700,000スクエア/マイルに上る植民地を所有していることを指摘しました。
太平洋から西へ向かう拡張政策は19世紀アメリカの明かな宿命でした。そして中国への拡張は20世紀の日本の明かな宿命となりなした。個人的に高く尊重されたこの同種民族の人々に彼らの使用品を入れさせ、開拓しなければ中国社会がばらばらになると見られ、漠然と管理されることはほとんど避けられない状態でした。そして日本の欲張りな意図は、アジアに向けてだけに納まっていませんでした。1925年に日本は世界第3位の海軍国としてアメリカ、イギリス、フランス、イタリアと共に船舶資本限定条約を締結してから3年も経たない時に、軍人士官オオカワシュンエイが日本の宿命がアジアへの「拡張」だけに納まらず、日米間の世界戦争も避けて通れないと主張する本を執筆しました。彼の本章の結論には、ほとんど世界の終末を予言しているような2つの力の争いの予測が書かれており、そしてそれは彼が理解していた以上に的中していました。「新しい世界が出現する前に、西と東間の死を賭けた戦いがあるに違いない。この推測はアメリカ人の日本へ対する挑戦と理解される。アジア最強の国は日本であり、ヨーロッパを代表する最強の国はアメリカである.........。この2つの国は戦う宿命にある。結果は神のみぞ知る。」
1930年代に入ると日本政府は、新しく習得した科学技術を使用することでさらに良い社会を設立するという思想と、外国征服計画に乗り出して隣国に優力な国家軍事機関を創造するという二つの思想の圧力に挟まれて泥沼の状態に入って行きました。個人財産を制限して、国家へ財産を帰すという拡張主義者のイデオロギーは、アジア支配を唱える右翼超国家主義者たちから熱狂的に支持されて大きくなっていきました。この考え方は地方育ちの若い青年下級士官たちに東京の政治家たちの信用を自然に失わさせ、また力を直ちに使用したいと思わす野心を焚付けました。青年士官たちは内輪では争っていたにもかかわらず、ヨーロッパ人に復讐してアジアを征服するという日本の神聖な作戦を一貫して信じ、日本社会を再検討して官僚制度、経済制度、政治などに支障を来す全てのものを排除するという考えを酷似して分かち合いました。
そしてこの第三者が着実に政府の穏和主義者たちへ一連の妥協案を迫って行きましたが、歩調が変わらないと認識すると、次に自分たちで政府を転覆させる共謀を開始しました。1931年にクーデターが計画されましたが、実施されませんでした。1932年に海軍士官グループがテロリストを送り出して東京を襲撃させ、イヌカイツヨシ首相を殺害しましたが戒厳令は失敗に終わりました。
1936年2月26日、青年士官の徒党が数人の政治家の命を奪い、クーデターを起こしました。クーデターは3日間以上、東京の中心部を麻痺させましたが、結局は失敗に終わり、首謀者たちは投獄か処刑されることになりました。力は過激論者から政府内の用心深い派閥へ移行しましたが、この派閥でさえ、青年士官たちの熱狂意見と同様にアジア支配は日本の任務だと主張する者が大半を占めていたことは注視するべき重要なことです。
中国をコントロールしたければ早急に行動しなければならないという考え方は、日本超国家主義者たちを中心にはっきりと現れてきました。中国は1895年に日本から力尽くで条約の調印を強制された後に国家として強固になろうとし、日本拡張者たちに拡張の緊急性を感じさせました。
中国は帝国の崩壊から奮闘の連邦共和国の時代に移行するまでに、実に20年間を費やしました。1911年に革命軍が清帝国軍を破り、2世紀におよぶ清の満州支配は終結しました。1920年代に蒋介石下の国民党は国を統一するために中国北部地域の将軍たちと華々しく戦いました。また彼らは外国勢力に清王朝が押しつけられた不平等条約の破棄を最終目的としているとも公表しました。蒋介石のこの勢いは加速して満州とモンゴルにおける日本軍の利害関係を威嚇しました。中国が強力に育ち、征服される前に、日本は早急に何か手を打たなければならないと考えるようになりました。
日本政府の承認を得た日本軍は、これまで以上に中国人同士の事件に積極的な干渉を始めました。1928年、満州の軍事支配者Chang Tsolinが日本軍への全面協力を拒むと日本は彼を巧みに暗殺処理しました。この殺人は中国の人々を激怒させ、日本製品をボイコットする組織がさらに増加しました。
1930年代に入ると、日本は中国に宣戦布告せずに戦争を始めました。1931年9月18日、日本軍は南満州にある日本所有鉄道の線路を爆破して事件を起こさせようとしました。爆風が急行列車を脱線させることに失敗した時に、日本人は代わりに中国人護衛者たちを殺害して、世界の新聞に事件は中国人工作員の仕業だという作り話を公表しました。この事件は日本に満州を奪い取らす理由を与え、日本は満州を満州国と改名して、中国最後の皇帝であり満州王朝の相続人でもある溥儀を操り人形の支配者としました。しかしこの日本による満州奪取は、中国内で反日感情を引き起こし、国民活動を駆り立てました。両国間の緊張状態は高まり、ついに1932年に上海暴徒が5人の日本人聖職者たちを襲撃し、4人を殺害したのを期に流血の惨事となって爆発しました。日本は直ちに街の何千人といる市民の中を爆撃して、数十人を虐殺して、報復しました。上海での虐殺が世界からの批判を呼び起こすと、日本は自ら国際共同体の中から孤立し、1933年には国際連盟から脱退することに応じました。
中国との戦争準備を必然的に整えるために、日本は何十年間にも渡り戦闘兵士たちを訓練しました。日本の軍事機関に奉任する青年たちの型作りは若い時から始められ、1930年代には戦争の影響が日本少年たちの容貌ににじみ出ていました。おもちゃ売場は戦争の仮神社となり、おもちゃの兵隊、戦車、ヘルメット、軍服、ライフル銃、対空砲火銃、ラッパ、曲射砲などの在庫が売られました。当時の回顧録には、少年たちが通り上で戦争ごっこを行ない、ライフル銃を想像して竹の棒を使用していたと述べられています。中には背中に木の丸太を縛り、自殺作戦の「人間爆弾」の英雄を空想してる者もいました。
日本の学校はミニチュア版の軍事機関のように操られていました。教師たちの中には軍事士官の者もおり、日本がアジア征服という神聖な宿命を果たすことに協力する義務や、次位に来ない人々として世界の国家に立ち向かうことを生徒たちに講義しました。また銃の扱い方を、若者たちは木製模型ライフルで、熟年者たちは実物を使って教えられました。教科書は軍事プロパガンダの伝達手段になりました。ある地理学の本には拡張政策が正当化されている日本の姿が使用されていました。「我々は太平洋に勇敢に突き進んだアジアの先駆者の地位にある。そして我々は外敵の襲撃からアジア大陸を守る義務がある。」また日本少年たちは中国の人々を憎しみ、軽蔑するように徐々に教え込まれ、中国本土を将来的に侵略する心理的な準備が整えられました。ある歴史家は、カエルを解剖するように告げられて涙を流していた1930年代のある潔癖な少年について語っています。少年の教師は彼の頭を拳で殴り、叫びました。「きたないカエル一匹でなぜ泣くのだ?大きくなったら、おまえは100人、200人の中国野郎を殺さなければならないんだぞ!」
(そしてさらにこの様な心理的なプログラム教育によって話はもっと複雑になって行きます。「日本社会の中には、中国へ対する深い矛盾が存在しています。」オックスフォードの歴史家ラナ ミターはこう述べています。「日本人は韓国人に対する様な人種差別的な軽蔑は、中国人に対しては持ってはいなかった。彼らは一方で中国を文化の源としての魅力的な国と認めていたが、もう一方で、20世紀初期に起きた様々な中国の内乱にうんざりしていた。1931年に満州国を建設したイシハラカンジは、1911年革命(辛亥革命)の大ファンだった。孫文とYuan Shikaiを含む多くの中国人が日本の援助を頼り、1911年革命以前から以後までの数年間に渡り教育を受けた。また日本人はBoxer免除奨学金と中国人のドウジン会病院を後援し、ハシモトトキオのような奨学生たちは中国文化に対して純粋に敬意を抱いていた。日本の海外事務所や中国にいる軍事専門家たちは、よく中国について研究し、広い知識を持っていた。」しかしこの知識や気質は結局、直属の下級一般兵士たちまでには及んで行きませんでした。)
日本学校が軍国主義になった歴史の根底は明治維新が背景にあります。19世紀後半に日本の文部大臣が、学校は生徒に対する慈善興業ではなく、国の利益によって運営されるものだと公表しました。小学校の教師たちは、まるで新米軍人のように教育され、生徒とごちゃ混ぜに兵舎に収容され、きびしい規律と教育を絶対服従させられました。1890年には、国を統治するには道徳習慣に依存させる以外にないという考えになり、帝国主義思想が書かれた教育本が、生徒や教師たちだけではなく、全日本国民を対象に定められました。この台本は天皇に絶対的な忠誠と権威に対する服従を誓うという日本軍事規約上の一般的な国民基準思想となりました。各日本の学校では、この台本の写しが天皇の肖像画と共に宮に納められ、毎朝、取り出されて読まれました。そして言葉を誤って間違えた教師には神聖な書類を侮辱した償いに自殺を約束させていました。
1930年代の日本の教育システムは連続的なロボット生産でした。当時、ある小学校へ行ったことのある訪問者は、何千人もの子供たちが国旗を振り、完璧な線で調和されて行進していたのを見て気持ちが良くなるぐらい驚いたと延べています。この訪問者は国を建国して維持するために必要とされる虐待ではなく、規律と整頓をはっきりと見たと言います。教師たちが加虐的な鬼軍曹を振る舞ったり、子供たちの頬を平手打ちしたり、拳で殴ったり、竹刀や木刀で打ち込んだりすることは、当たり前のことでした。生徒たちは重い物体を抱えさせられたり、正座させられたり、雪の上を裸足で立たされたり、倒れるまでグランドを走らされたりすることを強いられました。両親が心配し、憤慨して学校を訪れるなどということはまずありえませんでした。
権力に服従させるこの圧力は、学校生徒を兵隊に志願させるようになりました。意地の悪いイジメや厳しくつつき出される命令が、一般個人の残余精神を押しつぶしていました。従順なことは最高の美徳だと押しつけられ、個人の持つ価値観は、もっと大きな計画の中の小さな歯車の歯としての価値観に置き換えられました。共通価値に個人を純化させるために、上層部の士官や熟年兵士たちは、ほとんど理由なく新米兵士たちを平手打ちしたり、重い木の棒で激しく殴りました。作家、イリタニトシオによると、士官たちはよく「私は嫌いな者は殴らない。私は気にかけている者だけを殴る。おまえは私が狂気の沙汰で自分の手を腫らし血で染めているとでも思っているのか?」と言って未許可の処罰を正当化していたそうです。若者たちの中には、この様な厳しい心理状態下で死に追いやられ、自殺した者たちもおり、他の大半は軍隊が新たな目的に注ぐための調節された容器に成り果てました。
日本の養成訓練は野心的な士官たちによって行われる非常に厳しいものでした。1920年代の士官候補生は市ヶ谷の陸軍士官学校に入学しなければなりませんでした。暖房がない勉強部屋や食事が充分に取れない込み入った兵舎の中は、生徒たちにとり学校と言うよりむしろ監獄に近く、うんざりするものでした。養成訓練は野心的な士官たちに非常に厳しく行なわれました。1920年代の日本士官候補生がした市ヶ谷陸軍訓練の厳しさは、西洋の陸軍士官学校を凌いでいました。イギリスの士官たちは、1372時間の教室勉強と245時間の個人自習が必要とされたのに対し、日本では3382時間の教室勉強と2765時間の個人自習が標準的に必要とされました。士官候補生たちは虐待日課摂生の体育や、そして歴史、地理学、外国語学、数学、科学、倫理学、製図、習字などの授業に苦しみました。この全てのカリキュラムは完全勝利を目標に定められており、全日本士官候補生は「不敗の意志」を身につけることを要求されました。恐ろしいことに落第して自決を犯す士官候補生たちの危険を最小限にするために試験結果は彼らに隠ぺいされていました。
士官学校は外の世界から遮断された孤島の状態でした。日本の士官候補生たちは個人の生活も、個別の指導技能訓練を受けることにも満喫しておらず、彼らの読む資料は注意深く監察され、余暇は全く存在しませんでした。特に歴史や科学の授業は日本人を超民族と想定するように歪められていました。ある西洋の作家が当時の日本士官候補生についてこのように述べています。「影響を受けやすい歳月を彼らは外界の喜びや興味や影響から全く遮断されていました。彼らが活動していたこの狭い環境の中は特別な同国民や偏った軍のプロパガンダで充満しており、すでにこの民族は心理的に我々から遠く離れているのに、さらに遠く離れて行きました。」
1937年夏、日本はついに中国との全面戦争を引き起こすことに成功しました。天津条約で駐留していた日本軍の連隊が7月に盧溝橋付近で夜行演習を実施していましたが、休憩中に暗闇の中で何発かの銃声が聞こえ、ある日本兵が行方不明になりました。この事件を機に日本軍は橋近郊にある中国のWanping要塞へ進行し、兵士を捜索するために門を開くことを要求しました。中国司令官がこれを拒むと日本人は要塞への攻撃を開始しました。
7月後半になると日本は天津、北京の全地帯をしっかりと掌握し、8月には上海への進攻を開始しました。第二次日中戦争はもはや逆転できる状態ではありませんでした。
しかし中国の征服は日本人が予想していたよりも遥かに困難でした。上海だけでも、中国軍は日本海兵隊の10倍の兵がおり、国民党政府の総司令官である蒋介石は戦闘における最高軍隊を保有していました。8月に35,000人の新たな軍隊が上海の波止場に上陸しようとした時に、日本は初めての後退に遭遇しました。隠してあった中国の大砲が火を吹き、皇后ナガコの従兄弟を含む数百人の男が殺害されました。何ヵ月にも渡って中国人たちは並以上の勇敢さでこの主要都市を守りました。この戦闘は、日本軍の攻撃を通りごとや防塞ごとにゆっくりと死守しながら進行しました。
1930年代の日本軍司令官たちは、日本が3ヶ月以内に中国全土を征服できるだろうという自信を持ち、また本気で達成できると信じていました。しかし中国の各都市での戦闘が夏から秋へ、秋から冬へと長引くと、容易に勝利するというこの空想は打ち砕かれました。軍事科学の教養がなく貧しい訓練を受けた未熟な中国兵たちは、優れた日本兵が行き詰まる戦いを展開しました。11月になり、ついに上海は陥落されましたが、この帝国軍の雰囲気は不穏に変わり、多くの者が南京へ向けて復讐を渇望して進んだと言われています。