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『「敗戦責任」と天皇 [その1]』( http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/373.html )の続きです。
「● 近代天皇制と前近代の天皇制」の予定でしたが、[その1]でいただいたレスを踏まえ、[その1]の補足的な説明を間に挟ませていただきたいと思います。
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[その1]では、戦前及び戦後の近代天皇制が、良く言えば“統治権威”、ざくっと言えば“真の支配者の道具(隠れ蓑)”でしかないという見方を書いた。
そのような見方を書いた背景には、このようなサイトで匿名でならともかく、主要メディアで実名をさらしてデスラー総統のような論を公表すれば、テロルの対象にもなりかねない日本の精神情況を少しでも払拭したいと思いもある。
しかし、それ以上に、デスラー総統・「するめいか」さん・「たこです」さん・如往さん・Ddogさん・「お風呂大好き」さんらのやり取りを読みながら、歴史観や国家観をめぐってせっかく鋭い議論を展開しているのに、天皇をどう考えるかが“トゲ”になっておかしくなっていると感じたからである。
どちらも天皇制価値観に縛られていると言えば失礼な表現になるが、天皇を人間の姿をした国旗であるとひとまず脇に置くほうが建設的な議論ができるのではと考えている。
(「日の丸」自体がとかく論議の的にもなる存在なので厄介な比喩だが、「日の丸」に罪がないことは確かである)
● [その1]の補足
戦前の国民(臣民)大衆の多くやある程度の官僚は、日本帝国が神的権威を持った天皇の絶対的な力によって統治されているという“神話”を信じ、国家=天皇という意識を持っていたと思われる。
天皇を批判することは国家に対する反逆であり、国家が行うことを批判することは天皇を批判することであるロジックが現実化されていたと言えるだろう。
(下士官までが天皇の名で恫喝を加え自己を権威付けるという倒錯状況まで生まれた。そのような言動が許容されたことこそが、天皇制のデタラメさを示唆するものである。総理大臣であろうが、参謀総長であろうが、裁可を受けず自分が考えた段階の内容を天皇の名を使って語ることは不敬罪の極みである。天皇崇拝者や天皇崇拝を強要する支配者でありながら、このような論理さえ理解していなかったのである)
そして、天皇こそが国体であるとの考えのもとあの「大東亜戦争」が遂行され、戦局が行き詰まった状況でも、国体の護持が可能かどうかが降伏受け入れの主要問題となった。
そうでありながらというか、そうだったからと言うべきか、敗戦→占領の過程を通じて天皇制は異なる位置づけで継承されることになった。
近代日本前史の行き着くところとも言うべき「大東亜戦争」の“敗戦責任”は、天皇制が存続することで国家として問うことなく現在に至っている。
外国勢力によって行われた東京裁判や各地の裁判で罪を負った人々を除き、「大東亜戦争」に関わる統治者としての罪は、天皇の免責と一緒に免責されたのである。
岸信介氏が戦後まもなくにして首相になったことから言えば、死罪を免れた人たちは、外国勢力の手による服役を済ますことで免責になったということだろう。(民主主義的選挙で選ばれたのだからいいじゃないかということになるのだろう)
300万人以上の国民が犠牲になりながら、領土を奪われた上に占領支配という国家的苦屈辱を受けるに至った敗戦の責任について、国家がシラを切り通している。
それもそのはずである。戦犯に問われたごく一部を除き、天皇と同時にほとんどの国家支配者がそのまま支配者としての地位を保ったのだから、自分で自分の罪を問えという話になる。
(強盗を稼業にしている者に強盗の罪を自分で裁けというのと同じだから、実行されないのは自明である)
国家機構の一翼を担う立場で天皇尊重を公言する人たちに言いたいのは、「天皇に敗戦責任がないというのなら、きちんと戦前・戦中の統治実態を説明し、責任は、天皇ではなく、他の人々や統治システムにあったことを明らかにしなければならない」ということである。
そして、そのような営為こそが、天皇尊重者にふさわしいものである。
多数派ではないかもしれないが、昭和天皇の戦争責任を問題にしている国民も存在している。それが20%の国民だとしても、千万人単位の国民が、国民統合の象徴である天皇を罪人だと思念していたし思念しているのである。
それに対して、そういう連中はアカや売国奴だと思わせるような情報操作はそれほど苦もなくできるであろう。しかし、それで、千万人単位の国民が天皇を罪人と考える精神情況が変わるわけではない。
そう、天皇尊重を口にしながら「敗戦責任問題」を明らかにしようとしない国政関与者は、天皇を尊重しているどころか、天皇を罪人として意識させる情況を放置している“反天皇主義者”とも言えるのである。
この意味が理解できない人もいるだろうから、わかりやすく言えば、天皇を政治的に利用し、国民分断を固定化しているのである。
(必ずしもそう自覚しながら行っているという意味ではなく、天皇制がなんたるかや天皇を崇拝するということがどういうことかがまったくわかっていないから、そうなっているということでもある)
そして、民族派を自称する多くの人たちが、口先だけは天皇尊重を語る支配者の“反天皇主義”を見逃していると思っている。
見逃しているどころか、天皇問題を取り上げることが反民族的反国家的言動と指弾することで、彼らの天皇の政治的利用と国民分断をサポートしているとも言える。
天皇尊重さえ言っていれば、国家を愛し民族の伝統を尊重している人だと認めてもらえる安直な条件を用意しているのである。
天皇陛下崇拝や愛国心を訴えている連中のなかにこそ、日本の伝統を破壊し、国益を損ない国家をボロボロにすることを通じて、自己保身や私的経済利益の拡大をはかろうとする“売国奴”がいるのである。
民族派は日教組をアカ教育や反日教育を行う組織として非難してきたが、圧倒的大多数が通う公教育を愚民化手段に変えてきたのが、自称愛国者の支配者たちなのである。
そして、日教組教員が及ぼした害毒よりも、テレビメディアが及ぼした害毒のほうがどれほど深刻化なものかくらいはちょっと冷静に考えればわかるはずである。
民族派が標的を見誤っているなかで、天皇尊重と愛国主義の公言をプロテクターとした売国奴たちが、日本破壊を推し進めてきたのである。
少数派であるが故に、理念主義者でなければ、天皇批判はそれなりに勇気がいることである。
自己保身や私的経済利益の拡大に執着している人であれば、口先だけもしくは本質を理解しないまま天皇主義や愛国主義を唱えることくらい何でもないことである。
どういう手続きがより天皇に対する敬愛を高めるものなのか、どういう教育とメディア状況が公と私をきちんと踏まえた質の高い国民の育成に資するのか、どういう経済政策が日本経済を国家国民のためのものにするかを今一度問い直して、民族運動に邁進して欲しい。
● たこさんの「敗戦責任」と「日本民族特性」に対して
「たこです」さんは、私宛のレスである『日本民族の特性』( http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/373.html )のなかで、「敗戦責任問題」にふれて、「当時の事情の、より深層を覗いてみると、日本人の諦観のようなものも見えてきます。「しゃーないな」という。日本人は一般にいつまでも一つの事に恨みやこだわりを持ちつづけることを良しとしません。「水に流す」という言葉もあります。「禊を受ける」と悪人が善人に生まれ変わる事すら可能です。一面、原理原則がない、だらしない、没論理、という批判も成り立ちますが、別の面から見ると融通無碍、柔軟、新しい現実に適応しやすい、という美徳でもあります」と書かれている。
「しゃーないな」や「水に流す」という態度や「禊を受ける」という考えについては、私もその傾向が強いので理解できる。
しかし、「敗戦責任問題」は、「しゃーないな」・「水に流す」・「禊を受ける」という過程を実質的には一切経ていないのである。
「しゃーないな」・「水に流す」を“許す”ということだと解釈すれば、“誰の責任でどういうことが起きた”ということがわかった上で、“あいつも悪気があったわけでもなく、息子が帰ってくるわけでもないから罪を問わない”というものである。
確かに、「東京裁判」で東条元首相を始めとした主要統治者が責任者として断罪された。
“誰の責任でどういうことが起きた”かが、“東条を頂点とした軍部の責任で連合国に戦争を仕掛けアジア地域を侵略した”という意味であれば、絞首刑に処せられたり服役も済ましたのだから、「水に流す」という理屈も成り立つ。
しかし、天皇尊重や愛国心を唱える人たちは、「東京裁判」を勝者の一方的断罪と考え、アジア地域での軍事行動も「大東亜共栄圏」を築くものだったと主張している傾向がある。
国民には「東京裁判」で敗戦責任を水に流させ、米国など対外的には「東京裁判」を認めることで責任と罪を東条元首相らに一手に引き受けさせる一方で、支配者達は、「日本は悪かったわけではない、日本が悪かったというような連中は反日意識の持ち主だ」という風潮をつくってきたのである。
小泉首相も、東条元首相らが合祀されている靖国神社を内閣総理大臣の立場で参拝している。
国民の責任追及が自分たちに跳ね返ってこないように「東京裁判」の結果を利用し、自分が愛国者である証として「東京裁判」の結果を否定するというご都合主義が横行しているのである。
これでは、東条元首相ら戦犯も浮かばれなければ、数百万の英霊も行き場を失うことになるだろう。(東条元首相は、「いいよいいよ、俺が悪者になってうまくいくのならけっこうなことだ」と水に流しているだろうが...)
このような精神情況が、日本人の美徳であるかもしれない「水に流した」にふさわしいものだと言えるのだろうか。
「敗戦責任」は、国民一人ひとりの心の問題ではない。
「敗戦責任」は、国益の維持・拡大を委ねられた統治者がそれを大きく損なう失政を行ったことを国家が問うものである。
「敗戦責任」を水に流せるのは、国家がきちんと責任を明確化した後の話である。
国家として根源の問題を現状のようなかたちで打ち捨ている国家(支配者)が、国益を語ったり、国民に愛国心を求めたり、国家の尊厳を語ることができるというのだろうか。
このような国家状況を許している支配者に統治されている日本が、厳しい国際情勢のなか、現在の経済的苦境を脱却し、求められている未来を築いていけるとは到底思えないのである。