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(回答先: たかが経済 投稿者 匿名希望 日時 2002 年 9 月 22 日 03:30:16)
レスありがとうございます。
“本音”は貴殿と同じように「たかが経済」です。
民族意識及び国民国家価値観が優れて近代的なものであること認めつつも、国際的経緯のなかで分断した民族が一つの政治共同体にまとまることは意義があると思っています。
とりわけ、分断が、被支配過程を経て戦争を契機とした国際条件で生まれたものであればなおさらです。
オリジナルでは経済問題のみを取り上げましたが、そこには、経済価値観や政治価値観の差異性がまとわり付くものです。
ドイツにおいても、西ドイツ地域市民が東ドイツ地域市民を見る目は厳しいものがあり、東ドイツ地域市民も劣等意識や疎外感をもっています。
端的には、西ドイツが東ドイツを併合して救済したという考えが根底にあるからです。
東ドイツは、共産主義国家とは言え、キリスト教価値観や近代主義的哲学や科学が基礎にありましたら、産業活動力が劣っていることやむき出しの市場原理に対する忌避意識を除けば、西ドイツとの“融合”はそれほど難しいわけではないにも関らず、“融合”ができていません。
朝鮮半島の2つの国家は、日本の敗戦で降って湧いた“独立”を出発点とし「朝鮮戦争」を経て、その終結さえできないまま対立を続けてきました。(外部要因は別として)
共通の価値観ベースは「反日」・「儒教」・「近代産業主義」ですが、開発独裁型近代主義国家から民主制近代主義国家という変遷を遂げた韓国と共産主義国家からキム王朝的共産儒教国家という変遷を遂げた北朝鮮は、それぞれの国民のあいだに大きな価値観的相違を形成してきました。
この違い(対立)を解消する“健全な方法”は、どちらかが相手の価値観を消滅させて、そこの国民を自国の価値観(統治ルール)に組み込むというものではありません。
経済取引・政治的関係・科学文化共同作業・人的交流などを通じて、それぞれが歴史的に醸成してきた価値観を止揚して新しい価値観に到達したと思われる時点で、それに基づき強固な政治的一体性を実現するほうが健全です。
日本の場合も、戦前から戦後で大きな価値観の変動があり、大きな枠組みは変わらないとしても位相レベルでの変動は続いています。
これらは、歴史過程のなかで世代継承的に変動したものです。ですから、文句を垂れる人たちはいても、深刻な分断や対立を招くことはありませんでした。
韓国が北朝鮮を併合することは、1980年代の“日本人”5千万人が1930年代の“日本人”3千万人を抱え込み、1930年代の“日本人”3千万人に80年代的価値観を強要するようなものです。
>統合により経済が落ち込むにしても、長い歴史から見れば一時的なことに過ぎませ
>ん。損するから統合はイヤだ、と同胞を見捨てるようなロクでもない民族ではその後
>の別の激動に耐えることもできないでしょう。
経済的労苦の問題だけであれば、私も同じように結論します。
>韓国と北朝鮮の問題については、最終的には金正日をどこかへ亡命させ、彼一人だけ
>を切り離し、北一国全体を丸ごと吸合すべきであって、連邦制下の存在など、朝鮮国
>家の政体をゆがめるべきではありません。必ず深刻な対立の火種になります。
可能だとしてもこのような政策を忌避するのは、韓国政府及び国民だと思われます。
おかしな言い方ですが、経済的に勝っている韓国が北朝鮮の価値観を持っていれば、たとえ経済的に苦境に陥ってもそうするでしょう。
経済実利を追求した韓国とイデオロギーを追求した北朝鮮の違いです。
南北間には「深刻な対立の火種」がくすぶり続けてきたわけですから、緩やかな連邦制であっても、深刻な対立を徐々に緩和する効果を発揮すると考えています。
>そのためには金正日が国家経営を放棄したくなるような方向へ戦略的に時間をかけて
>追い込んで行く必要があります。個人崇拝の国は一見強力に見えますが、ひとたび指
>導者への幻想が暴露されれば、憑き物が取れたように民衆は180度転換します。この
>辺はイスラムの教えが血肉化しているアラブとは相当異なる点でしょう。
日本近代史でも垣間見られ、他の地域では噴出したように、「憑き物が取れたように民衆は180度転換」することは確かです。
しかし、個人崇拝のベースに、共同体的価値観があることを無視することはできません。
共同体的価値観を抜きにした個人崇拝はありません。
(アラブ=イスラムは一神教(論理宗教)ですから個人崇拝や偶像はそれほど必要ではありませんが、アジアにおける仏教の根付き方やカソリックのマリア崇拝やキリスト像を考えればわかるように“目に見えるもの”が価値観の普及手法として必要なこともあったと言えます)
天皇が近代日本の共同体的価値観を目に見えるかたちで体現している存在と考えられたからこそ、天皇崇拝が根づいたのです。
(はっきり言えば、実体としての天皇は、天皇になりきれる人であれば誰でもよいのです。大事なのは、“天皇の性格”を物語る内容が、歴史的に醸成されてきた価値観と近代国家のテーマを融合させるものであるかどうかです)
金正日氏も、近代共産儒教国家を象徴するものとして崇拝されているのです。
そして、金正日氏がいなくなり政治機構も倒れたとしても、近代共産儒教国家的価値観は国民のなかで生き延びていきます。