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(回答先: ゴータマ・ブッダは何を「悟った」のか? 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 25 日 00:58:58)
ダイナモさん、こんにちは。
原始仏教(釈尊の教え)に関する見解においてダイナモさんとの間にはそれほど大きな隔たりはないと感じています。
>ゴータマ・ブッダは、禅定においてあらゆる因果関係の鎖の実相を観察することで輪廻的な生存の根源的な原因が無明(根本的な生存欲求)であることを明らかにし、根本的な生存欲求を滅することで輪廻的な生存から解脱できることを明らかにし、根本的な生存欲求を滅する方法を明らかにすることで「目覚めた」人となったのです。普通の人には到底理解できない無明から始まる因縁因果の理法に「目覚めた」人という意味です。何か神秘的色合いを持つ「悟り」とは異なり、あくまでも仔細な因果の観察の結果から「目覚める」に至ったのであり、そこには何の神秘性もありません。
私は“無明(根本的な生存欲求)” は心理学の概念の“Id(Es)”に近いものではないかと考えています。つまり、それは生誕に発する生物の基本的なエネルギーであり、或いは生存の可能性をひろげるために賦活的に働いてもいるのではないでしょうか。
さらに、私は“滅する”の意味について、先ずは人間が自身の“無明(根本的な生存欲求)”を対象化(自覚)すること、次にそれを制御する(=自在に操る)ようになることだと捉えています。しかし、釈尊自身が制御の方法を説き明かしているかと謂うと、釈尊に関する知見にそのようなものがあったかどうか、真偽のほどは不明ですが、私が学んだ限りでは釈尊の思想(視座)の普遍的でしかも先駆的な点はやはり“無明(根本的な生存欲求)”を対象化(⇒自覚)することを提起し、且つその体現者であったことに帰結すると考えています。
そして、制御する(=自在に操る)ことは直弟子達やその後の弟子達にとってはまさしく創造的な当為であったはずですし、細分化と云う拡散化の状況は避けられなかったとしてもそうしたチャレンジは今日でも尚綿々と続いているのではないでしょうか。けれども、同時にその成果が何時顕在化するのか、どんなものになるのかは全く不透明であり、断じて楽観はできないと思ってもいます。
Auf Wiedersehen.