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(回答先: Re: 悟り(=諦念)を生きている間にどのように体現していくかが我々人類の共通のテーマだと考えます。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 4 月 26 日 22:48:49)
ダイナモさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
>とはいえ、私はあくまで知的興味から原始仏教について調べたのであって、人類規模の視座は持っていません。ゴータマ・ブッダの時代の原始仏教は宗教というよりは、哲学、倫理学の色彩を強く帯びており、思想家としてのゴータマ・ブッダ、として私は捉えています。
“四聖諦(四諦)”は現代流に解釈すると問題解決のための基本的な様式を提示したものと謂えるかも知れません。すなわち、苦諦(=事実認識)、集諦(=原因究明)、滅諦・道諦(=理想像と解決法)となり、さらに釈尊の思想の特徴(独創性)は“涅槃”を中核概念に掲げているところにあると考えています。
ところで、宿命とは事物の起源に発する定めであり、逝去(死)の起源が生誕(誕生)であるとたとえることができ、運命とは生誕から逝去に到るまでの“生”、すなわち生物活動の諸過程と言い表すことができるでしょう。さらに、宿命は変えられないかも知れませんが、変えられ得るのが運命であり、そのための指針が釈尊の説いたと云われる“八聖道(八正道)”であるとはダイナモさんの見解の通りだと思います。
釈尊は人々に向けては先ず“苦”を滅するための実践の方法(八聖道)を説いたと謂われますが、“四聖諦(四諦)”の悟りが無ければそれは導き出されることはなかった筈です。しかしながら、その中でも無明に発しながら運命に纏わりついて離れない“苦”を人々がどれほど意識するのか、自覚の度合も一様ではないと想われます。したがって、対処の仕方も様々ではないでしょうか。釈尊の教えに準じようとするか否かは、人々の措かれた状態や仏教との出合いの時機が大きく関係し、それが釈尊以後多くの教派・宗派を生んだ原因にもなっていることは謂うまでもないでしょう。
Auf Wiedersehen.