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(回答先: ブッダの議論への批判 形而上学的な議論への批判 現在の社会的性格の肥大化 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 5 月 01 日 17:02:17)
ダイナモさん、こんにちは。
>ただブッダの独創性は、普通には意識することができない根本的な生存欲求(無明)の存在を明らかにし、それが苦(輪廻)の生ずる根本原因だと見抜いたことだと思います。それまでの多くの宗教諸派の開祖が説いたのは人の欲望が苦(輪廻)の生ずる原因であり、欲望を滅することで解脱し心の平安を得ることができるとしていたからです。これでは根本原因を滅することができず、輪廻的存在から解脱することができません。
“生存欲求(無明)”は近代ではスピノザのConatus(自己保存力=自我)の概念に近いものではないでしょうか。その振舞いによって齎される諸々の現象事実が個別的には“苦(輪廻)”となって立ち現れて来るわけですが、解脱の途はやはりConatusを制御することにあり、それには先ず己の内なるConatusの自覚が不可欠であると考えます。
>さて、ブッダはみずからの経験的な事実を徹底的に観察する禅定をおこない、根本的な生存欲求(無明)の存在を発見し、その滅を実現してブッダ(目覚めた人)となりました。ブッダ自身はみずから経験したことのみをもって考察したのですが、輪廻転生については既存の前提条件としています。インドでは輪廻思想が古代からあり、ブッダもそれを受け入れています。私が引っかかるのはこの点です。ブッダは形而上学的な議論を拒否しましたが、輪廻思想も形而上学的なものであるのに、ブッダがこれを受け入れた点には疑問を感じます。
私は以前より釈尊の言説の基底にある“輪廻”の概念とは今日におけるエネルギー不変の法則(熱力学第一法則)に近いものではないかと想っていました。ただ、そうした見識を弟子達や広く衆生に説き明かすことには少なからず困難を感じていたはずで、それを補完するための方便として“輪廻”を拡張した喩えを用いたのではないでしょうか。
実際に富士山頂に立ってみなければ頂上から望む景色を知覚することはできませんし、麓に在って如何に言葉を尽くそうとも人々に実感が湧くわけではないでしょう。それ故釈尊は“輪廻”を脱したらばこうなるとヴィジョンを提示することや悟りの契機(四聖諦)を授けることよりも、人々を先ず登山の方法(=八聖道)の習得に導こうとしたのだと想います。
>日々発生する事件や争乱を耳にするにつけ、真の自己ではない、肥大化した社会的性格の自己がその背景にあると感じざるを得ません。社会的性格にはあらゆるものが含まれます。民族、国籍、職業、役職、家族構成、年齢、政治指向、などなど。たがいに異なる社会的性格を背景としてさまざまな事件、争乱、紛争が起きています。社会的性格の肥大化です。互いの社会的性格が異なることを認め合い、互いに妥協し合うことで世界はより住みやすくなると思うのですが。
“肥大化した社会的性格の自己”、すなわち“肥大化した自我”を現代人は最早自身の力では制御できないところに来ているのかも知れません。それでも私は完全に失望しているわけではなく、人類は必ずや何らかの手立てを探し当てられると思っています。そして、釈尊が到達した悟りと認識の方法は道標として見直されるべきものではないか、そう考えてもいます。
Auf Wiedersehen.