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(回答先: 悟りはポンポンと、連鎖する 投稿者 キルケゴール 日時 2009 年 4 月 26 日 18:05:55)
生きる事が辛いから言葉巧みに気休めを言っているだけです。
酒を飲んで憂さ晴らしをする代わりに言葉によって憂さ晴らしをしているようなものです。
どんなに言葉で取り繕っても苦難は苦難でしかありません。
苦痛に耐える心を作る事に努力するのが宗教です。
創価学会が宗教であるかどうかは疑問ですが本人達にとっては自らの立脚点の確保であり現世利益も得られる(得られると信じている)から事からどんなに政治利用されても本人達は「いい事をしているのだ。」というヒロイズムで満足しているのでしょう。
ブッダはどうしようもない人生の苦痛を緩和してくれる精神安定の為の論理を作る事に努力したのでしょう。
それは心の痛み止めであり人間にとって必要なものでしょう。
しかし、痛み止めでしかありません。
苦痛の発生をなるべく減らす事の方が大事なのです。
戦争になっても耐えられる強靭な精神を作る事が大事なのではなく戦争そのものを起こさせないようにする事こそが大事です。
この世の不幸を少しでも減らす為の方法の確立と実行こそが大事なのです。
心の平穏は二義的な問題です。
言葉にまみれたインテリは宗教に陥り易い面を持っていると思います。
都合がいい論理に埋没し現実の問題に対応できないような精神に陥り勝ちだと思っております。
私は日々と人と接する仕事をしているので比較的現実からの遊離は防げていると思っております。
学生時代はちょっとヤバかったと思いますが。
根拠なく信じる事を強制する論理は全て宗教だと思っています。
生きる欲求は生物としての人間には当然あってしかるべきものであり生きる欲求を捨てる事で死の恐怖から逃れようとするのは倒錯だと思います。
万人に死は訪れるのでありその恐怖は万人に共通です。
こんなものを無くす事はできないし無くすように努力する事は一種の狂気だと思います。
怖がりながら死んでいくでいいではないですか。
「死にたくない。」と言って死ぬ事こそが人間らしい事です。
欲求を捨てる事は奴隷になる事でもあります。
そんな生がいいものだとは思えません。
ジタバタしながら生きていけばいいのです。