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(回答先: 気持ちは分かりますが、危険思想にも通じます。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 6 月 15 日 11:02:46)
>「庶民サイドの分断策」に引っかかっている。(=敵の思う壺)
>最近の傾向として、老人 若者 公務員と、様々に「生活者の分断策」に誘導されている
>基本的には「生活貧困層同士で、貧困の押し付け合いをしている」だけ
>生活者同士で「あいつらには、まだ余裕があるはずだ!」とのイメージによる「不幸の押しつけ」が行われている
>本当の敵を見極め、その敵と「生活者全体が一致協力して闘う」のが、解決の本則
もし国民の多くが、貴方と同じ地点に立つことができれば、この社会について大きな憂いはなかったでしょう。
私は7歳の時に朝日訴訟の事例を学んで同じ思いを持ちましたが、同時になぜ、弱者同士が足の引っ張り合いをして分断統治に自ら加担してしまうのかの原因を考え始めました。
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[元来は、この国の権力者には計画的な分断政策を行う能はなかったと見ています。寧ろ、国民の行動と性を見て、これを利用しようとの意図を持ったのだということです。権力による分断を国民自らが誘導さえしているというのが現実だと思います。
これは、国民がKさんの常識を持っていれば端から分断は不可能というだけではなく、長い間有史以来の権力の成立原理とそれと対抗する精神史とを研究してきた結果なので、ここで説明を端折らざるをえないのですが、事実です。
(権力にも次元的段階があるのです。例えば、古代ローマの共和制、帝政、現在の米国の政権、絶対王政、中国の歴代王朝、近現代のヨーロッパ共和制、現代中国の政権と、本源的な性質が異なります。
ここで本源的というのは、経済も権力も存在しない非歴史的世界、伝統社会の基底を成した人間社会を起源としない普遍文化(コスモロジー)との対抗関係を意味しています。口頭での長時間の説明なら完全に理解を保証できるのですが、掲示板に書けることではないので了承ください。)]
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課税を数倍に増やし兵農分離によってそれまでよりも権力支配構造を飛躍的に強化した秀吉を庶民がなぜ支持するのか。なぜ、そのような見方さえできないのか。人は生活から考えて、本当に生活が理解できるのか。
江戸期を持ち上げる向きがありますが、日本の江戸時代ほど過酷な搾取が罷り通った体制は、実は人類史に例がないのです。農民出身の秀吉によって始められた社会再生産限界を超えた過酷な階級制は、関所による労働力の閉鎖管理、人質政策と参勤交代による各藩の支配による内向した統治政策、鎖国によって権力に対抗する文化と階級制以前の普遍倫理の文化伝統の流入を防ぐ(大和朝廷の初期から意図的に道教と仏教の分離を図り、道教の流入を防いだことに始まる。)ことにより、財政破綻の度に飢餓と飢饉を繰り返しながら継続しました。
江戸期を描くのに、国民の8割(現在の勤労者より多い)を超える農民が登場しない。こういった不正を庶民が平然と行う。(こういった風俗の作り手も受け手も庶民です。
また同時に、生産者・勤労者ではない有禄・封土所有の特権階級の武士(全人口の数%で、常に殺人用の武器を携えた軍事権力の構成員)をサラリーマンになぞらえるという過ちも行っています。言うまでもなく、現在のサラリーマンは人口比から見ても生産者であることから見ても農民に相当します。)
米が国民の主食になったのは、千数百年の歴史の中で戦後が初めてです。江戸期まで、米は国民の8割超が生産し1割未満が常食にしていました。米は純粋な階級換金作物で、主食などではありません。本来年間に3度収穫されるべき亜熱帯の水稲米が一毛作で行われているのは、それが、封建制における支配に最も有効なために選ばれたのです。生産者である農民に、自らの行為で自身を労働に縛らせることが第一の目的です。そして同時に封土、すなわち土地に縛るためにです。土地そのものには余剰を生み出す価値はありません。生態系には余剰は存在しません。土地は人間労働力とセットになってこそ余剰の源泉として機能するのです。それが内なる二重の管理である一毛作の米作と、外からの管理である関所です。この国では、悪魔的管理を実現する制度と、これに同化した民族風土が形成されてきました。
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[戦前まではこの状態が継続していましたから、一般労働者と農民が、米を主食にしたのは最近の僅か半世紀のことに過ぎません。しかし、その事さえ国民は隠しているように見えます。実は、日本では農薬と化学肥料の多投によって(単位面積あたりの量は米国の穀倉地帯の3倍)米の主食化と自給を可能にしています。全てを自然栽培するのは原理的に不可能なことは、農水官僚は良く承知しています。ですから、将来の石油価格の高騰により米食は再び特権行為となってゆきます。]
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それにもかかわらず国民にとって「米」は世の不条理の象徴ではなく、憧れだったのです。銀シャリという言葉がありますが、ありふれた主食にこのような形容はしません。ヨーロッパ人がジャガイモを銀芋と称するのが想像できますか。
そして権力存在は、「外から来て暴力で支配する者」という世界の古典哲学の明らかにする原義とは無関係に、これも憧れであり続けています。
したがって、庶民から出て行った出世頭、秀吉はただそれだけで無条件に庶民の憧れであり、権力者然として振舞うことは当然の行為として受け止められました。
なぜでしょう。(ここからやや端折りますが了承ください。)
それは、日本民族自体が、外から来た存在だからです。社会の後に権力が入ってきたのでなく、権力そのものが生み出した社会集団だからです。ということは、先に先住民族が居たということです。先住民族を滅亡させた外部者の集団。
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[日本には、随筆、和歌・短歌、小説はあっても哲学は存在しない。和算、算術はあっても幾何学は存在しない。体系のない単位構成の言語がある。そして、普遍真理を探究する理学の伝統がない。実は、物象性を理解できれば全ては一目で明らかなのです。民族の起源を知るのに、細胞質のミトコンドリア核遺伝子を用いた分子生物学による系統分類は必要ないのです。ただ、現日本人の大半が1700年前までこの島に存在しなかったという系統学の解析結果が物象論的事実と一致するだけです。物象論は絶対理論で、蓋然的理論である科学のような不確実性を持ちません。]
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全ての原因を明らかにすれば、日本人は全員権力者で構成されているということです。メンタリティーも権力者のそれです。すなわち、この国は、権力を手に入れた人間と、
権力から落ちこぼれた人間だけで構成されているということなのです。だから、富も権力も本源的に悪という前提がなく皆の目標なので、落ちこぼれ階級から出て行って特権を手にすることは、日本集団の共有する理想であり、それによってより徹底的に搾取するのは勝者の当然の権利であって、あやかるべき存在でこそあれ、およそ非難する発想など存在しないのです。
結果として、全てが権力者の精神で構成された集団の階級制は地獄である。落ちこぼれには救いはない。庶民は落ちこぼれた権力者であって、社会は初めから存在しないのだから。という状況が必然的に導き出されます。
庶民同士の足の引っ張り合いも、自己責任と言われて納得してしまうのも、これが基底にあります。
日本社会は、この世の中で、最も物象化された人工社会です。自然共同体の原初を持たない。それが、先住民族を侵略して殺戮した報いとはあえて言いますまい。
ただ、アイヌ民族(縄文人の末裔)の社会なら人々は公正を常に大切にするだろうという想像力は必要でしょう。
それならなぜ、貴方はそれとは異なる発想をするのでしょう。理由は明らかです。直接、間接を問わず外国文化の影響です。今まで、何を学びましたか。欧米もしくは中国起源の文化の影響は受けませんでしたか?貴方は、結果として平均的な日本人よりも外の影響を受けてしまっているのです。それで少し自然に近づいた。外の文化を知れば、それが現在の資本主義風俗でない限り何であっても日本人は少しだけ、自然に近づきます。それが世界で最も物象化が進行した民族だということの意味です。人類史は厳格に定義すれば「物象化の不可逆過程」ですから、世界がいずれ日本化してゆくことになります。その意味でこの民族は人類史の最先端にあります。ですから現代資本主義のアメリカの風俗と日本は似ていないかと思う人はセンスが良いことになります。なお、物象性は相対的悪ではなく、反自然ですから宇宙的な絶対の悪を意味します。
ヨーロッパの保守には文化的実体はあるが、日本の保守は虚妄と言うのは、単に近代化による連続性の違いが存在しているのではなく、文化精神の正当性が関係しているのです。つくられた「国民の物語」は破綻した虚構です。起源を遡れば、聖徳太子も存在しない悲しい現実が待っています。しかも、日本人が作り出した理想人格が、他ならぬ道教、儒教、仏教を修めたという典型的な中国製インテリという設定ですから。自前の文化的実体がないことは始まりから大前提でした。
Kさん。私もこの掲示板で投稿してきた仲間として貴方にも伝えたいことがあります。人は生活だけを見ても生活を守れないのです。自然から始まってここまで離れてしまった。これを物象性といいます。人類史は全面的にとても重いのです。影の闇さんの言うことは丁寧ではない。それは私とて同じですが、背景の大きさに言葉が短くは出ないのです。私の言葉が貴方にとってどれほどの信頼があるかは量りかねますが、私にツキ物があるなら、どうか教えてくださいね。これは貴方に対する正直なお願いです。
レーバーフェスタの折に来日した韓国の労働者が、実際に日本の勤労者の生活環境を見て、韓国にはこれほど狭く劣悪な生活環境は今は本当にない。日本人は騙されている。と訴えていました。同じ全体主義でも、ナチスの統治下では敗戦間際まで国民の生活水準はワイマール時代よりも遥かに良いのです。それが、ナチスがゲルマン民族に与えた敬意と誇りなのです。彼らなりの。
ところが、皇国の臣民はどうだったでしょう。日本の支配者が、一度でも民族に敬意を払ったことがありますか。国民が権力者に恐れられたことがありますか。なぜでしょう。貴方が考えてください。
>人間は「環境に応じて、遊べるなら遊んで暮らす」のが本質として持っている部分です。
>仮に、高級ステーキを食える場面に立ったとして「このステーキは私には贅沢すぎます。世界の恵まれない人たちの事を考えれば食べることなどできません。」という人も皆無とは云えませんが、変人と思いますし、「人間らしくない」と考えます。
これには、苦笑してしまいました。私は歴史的世界における、権力者、庶民、大衆は全て制度的に作られたものであることを知っていますから、本来的に人は聖賢を目指すことが自然的義務と判断しています。聖人こそが最も人間らしい人間なのです。上記三種の存在は、物象化による人間性の剥奪の結果なのだといえるのです。
また、代々続く人を支配する心理過程が如何に人の心を失わせ、底の浅い人格を生み出すかを幼い頃から知っていますから、遊ぶことに興味はありません。なぜなら遊ぶところには、必ずそれを支える他者の労働が介在しているからです。極端に言えば家族よりも多い使用人を使役する家庭でどんな人間が育っていくか想像してみて下さい。それも代々・・貴方はその結果を見たいと思いますか。ましてそれが他人でなかったら・・・ホラーでしかないでしょう(笑)。
インディアスを征服したスペイン人に同行したイエズス会の修道士が残していますが、「彼らは、生まれながらに哲学者として生まれてくる。彼らの為す事全てに意味のないことなど何一つとしてない。」
また、コルテスの部下の一兵卒であったラスカサスの報告の中には、「そこにはこの世のものとは思えない美しい世界があった。」と、初めて先住民族の居住地に至った時の光景について述べています。
考えてみてください。何が、「彼らは生まれながら大衆として生まれてくる。彼らの為す事全てに意味のあることなど何一つとしてない。」としてしまったのでしょうか。
これが、自然が与えた本来的な人の姿と思いますか。
これは、文化の起源を研究すればするほど違うのだということが分かります。私の専門はこれからなのですが、これからの続きはいつか別の機会にでも。
下記に参考までに以前私が書いた文を転載します。中国と日本の文化の差異を説明した一部です。これは、日本の戦犯に人間性を取り戻らせたうえに罪を許した中国の先人に対する感謝を伝える文脈で書かれたものです。そのままで手抜きですが、参考にしてみてください。
また、この内容に反発があるようなら、なぜ、文字も文化も与えられた中国に対して一方的な被害を与えてもなお、反発が起きるのか自らを省みてください。
付言しますと、皇室典範の内容の95%以上が道教様式であることは京都での四半世紀前の研究で既に明らかになっていますし、国技である相撲は前漢時代の道教寺院の儀式そのものです。つまり中国では廃れた風俗を日本の天皇制が当時のままに今日まで保存してきたというわけです。聖徳太子が中国文化の習得者であることで理想者とされたのは上に述べた通りです。
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日本人社会は、権力と共に生まれ、権力と階級制を持たない伝統社会の経験がないために歴史を超えて貫く普遍的な倫理基準がありません。
孔子を始め多くの偉大な先人が伝えてきた、天、宇宙を起源とする全ての人間社会が服さなければならない絶対の倫理を柱とする中華文明と比べると、決定的な欠落があります。
世界に中華民族ほどの長い歴史を明瞭に有する民は存在しませんが、中国の歴史において倫理は揺るぎない絶対性を持って君臨しています。
決して時代の価値観によって善悪の基準が流動したりはしないのです。
それが、大悪以上に多くの大仁と賞される聖賢を育み、その先人の精神を古典として中華の民は継承し実践してきました。
中華民族の真の偉大さは、今日の爆発的な経済発展に見られるような、その気になれば他民族をいつでも凌駕できる優秀さにあるのではなく、一つの体制、時代を遥かに超える普遍の精神を堅持しているところにあります。
例えば、
本来、「義」は宇宙の中心への志向性を表し、人においては、特定の誰かではなく世界に通じる公に尽くす心と、私心を廃して己を正しく律する心として現れます。
「礼」は宇宙の調和、天体の運行から地球の生態系を含めた自然の美を表し、人においては、公正な精神、平等な社会を実現する意思、音楽や芸術の美を追求する心、暦や度量衡の制定等として現れます。
「仁」は宇宙の中心そのものを表し、人においては、先人から子孫へと引き継がれる永遠の生命の営みを貫ぬいてきた、命を大切に育み、その生命に天与の尊厳を与えて輝かせようとする意識の起源として存在します。これは、宇宙の全ての存在が中心から生まれるという原理を基礎として、「仁」は終わることのない宇宙の摂理に包摂されることの価値、すなわち永遠の存在である意味を生命体系に付与するものだからです。「仁」が宇宙的な最大の愛を意味するのは、宇宙の全一性と永遠性を原理としています。
生命体系が未来に存在し続けるには、どのような精神が継承されなければならないか、世界の生命が存続の危機に瀕している現状から考えれば判断できるはずです。人の世界における、その精神こそが、宇宙の中心原理たる「仁」の表れとみなせるのです。
「仁」「義」「礼」は一つとなり、唯一の体系たる宇宙の美しき調和、すなわち神の揺籃としての世界を実現します。まさに聖賢孔子の求めた「道」の実践となるのです。
そして、天の倫理を失った権力を超える資格を民が有する革命の伝統へと繋がってゆきます。
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ところが、これが日本ではどのように理解され、実践されてきたでしょうか。
日本では、「仁」「義」「礼」の全てが階級的秩序を維持するための道具として理解されてきました。
「義」は義理と表現され、同じ階級に属する者同士の相互同調を求める概念となりました。したがって、階級的目下と目上には義理を求めたりはしません。
「礼」は礼儀と表現され、下位者から上位者に対するへりくだった態度を求める概念となりました。下位から上位には求めることはなく、専ら上位者から下位者に求めます。したがって臣民の立場から「天皇は礼儀がない。」とか、社員の立場から「社長には礼儀がない。」などとは言わないのです。
「仁」は、上位者の下位者に対する優越的態度を伴った対応を意味します。富者から貧者への施しや、権力占有者の執政などを含みます。天皇の名前に仁の文字を付けるのは、何よりも社会の上位者であることを表すためです。
上記の理由から、日本では純粋な犯罪者集団が「仁義」を唱えて憚らないという状況までもが現出するに至っています。
そして、権力者が「日本には維新はあっても革命はないのだ。」と堂々と発言し、それを国民が批判はおろか、何を意味するのか理解さえできない現状があります。
また、「道」も武士道、華道、茶道、などと真理とは関係のない風俗形式を表し、日本人はそれを精神と称していますが、それらが何を意味しているのか誰も厳格に知りません。それは気分に過ぎず、精神といえるものではないからです。
江戸期の儒学者の荻生徂徠は、「侍のチャンバラごときに道というのはもってのほか。道とは先王の道ぞ。」と怒りました。
この国では誤りを知る者は、昔も今も例外的少数者です。今日ではその傾向はさらに強まっています。
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宇宙の体系的調和を意味するCosmosと、個体関係の階級的秩序を表すOrderは、本源的に対立する概念です。Orderを求めればCosmosは破壊され、Cosmosを実現すれば自ずとOrderは消滅します。
永遠の宇宙的真理から生み出されるCosmosは、普遍で不滅の絶対倫理を必須とし、Orderは、体制毎に変遷する恣意的な個体関係を求める相対的倫理を恰も絶対かのように見せることで実現します。
中国と日本の間に横たわる溝は、これ程までに大きいのです。日本列島と中国大陸を隔てる東海は、まさに世界の端と端を意味する境界のようにさえ思えます。
日本では、侵略行為さえ時代の価値観のせいにしてしまい、人間関係の修復さえしてしまえばそれでよいとして、それを未来志向と言いくるめます。根底には無自覚な功利性を伏在させた悲しき精神の不毛、普遍文化の不在があるのです。
重慶空爆は徹底的な暴力に人は従順になるという日本的信念を実践した結果ですが、聖なる文化を有する中華民族が絶対の悪に屈するはずのないことが、階級的序列秩序しか知らない日本人には想像できませんでした。
後に関東軍の文書に、「漢民族は権力には懐かない。」という、暴虐を尽くした挙句に敗戦を認めるくだりが出てきますが、その理由については終ぞ理解されることはありませんでした。
今日でも、中国人が日本人よりも民度が低いという思い込みが流布していますが、これなどは無知以前に精神の隔たりの大きさを感じ、暗澹たる思いと同時に受けるべき相手のいない怒りに苛まれます。余りに大きな欠落を前には、早急な結果を求めない大きな忍耐が必要なのだと自分に言い聞かせているところです。文字も言葉さえも与えられたにもかかわらず、そう考えてしまう悲しさは表しようもありません。
ひたすら実利を目的にした教育と生き方が如何に人を育てないかを日々実感させられる社会の中で生きるのは、孤立感とは別に辛いものがありますが、それを乗り越えていくことが自分に求められていると考えています。
中国人から見れば驚くべきことですが、日本には民族が学ぶべき古典哲学が存在しません。古典そのものがないのです。風俗小説や風物随筆、生活心情雑感などは、古典といえるのものではありません。
中江兆民は本邦には理学が存在したことがないと嘆きました。ルソーの一般意思の思想を紹介した彼は、古代ギリシャの古典精神と中国の古典の普遍的共通性を見出し確信を深めるに至りました。そのためフランスから帰国した後、日本初の外国語学校(現、東京外語大学)の初代校長に就任した際に漢文を必須科目にすることを求め、西洋化政策を進める政府と対立して職を辞すことになりました。日本人は漢文を学ばなければ、まともな文は書けないと言っていた彼の文章を読みますと、古典の聖人の精神に通ずるものがあり嬉しくなります。
このような事情の結果として、日本人が真にメインカルチャーに触れようとすれば、外国の古典を学ぶ他に術はなく、それを怠れば普遍的な倫理基準の確立すら覚束なくなり、ひたすら関係性の利害の渦中に拘泥する人生を生きることになります。
(これは補足ですが、世間で理解されている社会契約の概念は、ルソーが対立したボルテールの考えで、これが近代主流の政治意識となりました。この傾向は欧米でも同様で、百科全書派の思考がルソーと誤解される傾向があり、その意味では深刻なものがあります。社会契約概念には、ホッブス、ボルテール、ルソーと全く異なった三種の概念があることを理解しなければなりません。)