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(回答先: 「庶民」を脱するためには? 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 6 月 21 日 05:35:42)
初めてレス致します。
>実現論を模索すなわち問題解決の方途を探ろうとすると、悩みは広大、且つ深まるのを意識せざるを得ませんでした。
彼岸楼さんには、気軽に一般には敷居の高いと思われることを話せると思います。
本心をです。
実現論のスケールの問題です。実は、私の念頭には千年先のことしか有りません。
そもそも、何故自分の都合で、尺で世界を論じますか。人類は世代を超えていくことに意味があるのです。僅か100年後には、生まれた時から世界市場経済の無い世代が生まれるのです。
そうすれば、その世代はもはや今、貴方の考えていることなど何の価値が無いことを知っています。
精神活動は、個体の生命の制約を超えて引き継がれていくから価値があるのです。これまでも、曲がりなりにも前の世代の精神遺産があるから世界は存在しているのです。
それなら、貴方は自身の精神をどれだけの寿命残せますか。肉体の寿命未満など如何なる意味でも精神の名に値しません。それは先人と子孫に対する罪であり、貴方にとっては名誉無き恥です。
唯の、精神の消費者だからです。それは同時に世界を消費する者です。
200年続いた資本主義が、いかに人を価値なき者にしたか自覚しましょう。
今世界に存在する、言論関係者の中でこの体制の消えた後に残る者がどれだけいるでしょうか。わずか100の寿命さえも無い言説は文化でもなければ、精神活動でもありません。
精神活動の定義は、世代を超えて引き継がれるものです。古典の偉大さが判るでしょう。
それなら、世代を超えて引き継がれる精神活動をしましょう。
世界市場経済が終焉すれば、民主制はおろか近代500年間続いたローマ法体制そのものが消滅します。そして科学も、学問としても技術としても。想像を超えていますか。世界はかつての二千年以上の振幅を持って激変します。
それを超えて引き継がれていく精神の創造活動です。
お前にそれができるのか?私は、資本主義活動者ではないのだから、それができなければ存在している価値など全く無いのです。当然実践するのが人生の前提です。
そういえば、物象論に興味が少しおありのようですが、正当な本物をご覧に入れます。論議版に概要がありますので、原理を理解できればよいと思います。マルクスのプリミティブなものと完成の領域にあるものとの違いを比べてみてください。
人の尺ではなく、世界の求める尺が、物象論の特徴です。なぜなら、それは人に備わったものではないからです。俗に言う時代の価値観を内包しません。
それはマルクスとて同じなのですが、彼はそれを貫けず、人の尺である文学的イメージ操作、即ち弁証論に流れてゆきました。
誰でも理解できる弁証論と、誰も理解できない物象論が一緒になれますか。無理でしょう。
一概に人が理解できるのことに価値は無いのです。人の尺は判りやすそうで直ぐに廃れる。
世界の尺は、分かり難いが、廃れない。なぜなら世界と共に有るからです。だから、社会を超え、体制を超え、世代を超えるのです。
真の古典は、理解者が残したのでは有りません。その場で消えてゆくものが永遠に残せますか。
消費風俗に生きるとリアリティがなくなる。なぜならそれこそが、死すべき幻想だからです。
これは、Kさんに伝えようとしていることとも繋がりますね。
あなた方は、同じ時代精神の中にいるから。