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(回答先: 「庶民」そのものが作られた存在 投稿者 松浦 日時 2008 年 6 月 21 日 02:16:03)
読み落としに気付き、少し不安になりました。
書きながら、Kにも違和感と思い込みがある可能性は感じていたのですが、表題から、若干の「松浦さんの主張」の決めつけをしていたようです。
>【ビジョンの尺が近い時間の単位ではないので、時事的な話や政治話の範疇ではないだけのことです。私は、この体制の後に必要となる自然学を含む学問体系の創造を業にしておりますので、ここでの事はその派生です。】
どうも、この意見は「もっと長期的な視点を持ったら?」という意味に思われてきました。
全レスにおける
>【そして権力存在は、「外から来て暴力で支配する者」という世界の古典哲学の明らかにする原義とは無関係に、これも憧れであり続けています。したがって、庶民から出て行った出世頭、秀吉はただそれだけで無条件に庶民の憧れであり、権力者然として振舞うことは当然の行為として受け止められました。
なぜでしょう。】
との問いかけと、ここまで理解されていながら、どこで「Kと意見が食い違う?」という違和感を感じつつも、本質を理解した上での「あきらめ」と「チャレンジ」の差かなとも判断したのですが、この判断は誤りである可能性もあると気が付きました。
KはTOPと当事者は入れ替わるリスクを負っていると考えています。
しかし、官僚を象徴とする「システム」は保護されるという側面があります。
例として妥当かどうかは分かりませんが、日本の歴史の中においても「天皇制」という「システムの一部」は「残されてきた」という経緯があることには気付かれているでしょうか?
現実問題として「天皇」が実際に権力を行使したという時期は「長過ぎる」と言うほどではなく、多くの場合「国というシステムの維持のため」に生きながらえることが出来たともいえるでしょう。
織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も天皇を利用することによって「保護した」のです。
松浦さんが「長期的視点」で、国をどこに向かわせようとしているのか?
場合によっては、Kと同じ地点を見据えているという可能性もあるのでしょう。
それとも、あきらめ気持ちが強いのか?
断定するには、判断材料の分析が不十分である事を補足しておきます。