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(回答先: 器量(度量と品格)の具わった国造り 投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 03 日 07:16:20)
如往さん、こんにちは。お久しぶりです。期待していただいては恐縮ですが、視野を広げつつ研鑚をとのお言葉には同感です。如往さんとは確かにベクトルが違っているようで歯がゆい気持ちが先立ちますが、そうした方との意見交換こそが視野を広げるということなのでしょう。そこで、以下の点について述べたいと思います。
>……日本の老人医療・介護の現状と将来を見据えるならば……
高齢化社会における医療や介護の問題を考えていく方向として、老いさらばえてもなかなか死なない老人の面倒を見る苦労を誰が引き受けるのかという発想には疑問をもっています。人間は年老いても確かな意識と気力をもち気品を漂わせた日々を送るべく努力すべきであるしそれは可能であるとの人間観を信じたく思います。少なくとも、病院や老人施設での厄介者であることは人間のあるべき姿とは言えないでしょう。そうした場所で死を迎えるまで過ごさざるを得ないという日本社会の現実こそを問題にすべきだと思います。これは高齢者だけのことではなく身体障害者であっても基本的には同じだと思います。施設の中でケアされる生活は、それも専門的介護者のサービスを受ける受益者というあり方は、人間として生きることにそぐわないように思います。
人は社会の中で生きているし、他の人々とともに生きています。要介護者といえど何の違いもありません。残念ながら、今の日本社会にはそうした環境が整ってはいません。緊急避難的な施設や介護のサービスがやっと制度化され取り敢えずのケアが何とか歩みだしているところです。しかし、こうしたあり方を当然の姿だと思うのは間違いではないでしょうか。まして、そうした制度を恒久的に存続させ得るように貧しい国の有為な人々をあてにするのは間違いであろうというのが私の考えです。
>……戦後も逸早く立ち直って繁栄を築いて来た日本なればこそ、こうした周辺諸国の人々の要望を寛容な心で受けとめるべきであり、それは旧来の“nobility obliges(高貴なる者の義務)”に替わるような新たなる“ability obliges(才ある者の責務)”の、すなわち器量(度量と品格)を日本が具えることの一端を成すのではないかと考えています。……
はて、日本はそんなに立派な国なのでしょうか。いわゆる経済力に限って言えば確かに日本は繁栄を築き上げました。少なくともフィリピンやインドネシアより繁栄していることは間違いありません。しかし、そうした繁栄は何によってもたらされたのでしょう。日本人の勤勉と創意によってそれは実現されたと繰り返し述べる「プロジェクトX」というNHKの番組がありましたが私は疑問に思っています。昨今の中国やインドの経済発展が実は長期にわたる先進国(欧米日)の投資によって可能となったように、戦後日本の繁栄を可能にしたのはやはりアメリカの存在とその世界戦略抜きには語り得ないと思われます。
さらに言えば、周辺諸国の要望を寛容な心で受けとめた結果として看護師誘致があるわけでもないでしょう。日本の外務省は決して高貴でもお人好しでもないと思うのですが如何でしょう。彼らは自己の責務、つまり資本の要求とアメリカの意向に忠実に振舞っているだけです。看護師受け入れには然るべき交換条件があるのです。度量と品格を備えた美しき日本とは、飽くなき利益追求の醜い実態を覆い隠すフィクションに他ならないと思います。
国民の目の届かない外国で、対外援助という名の公共投資が日本企業や政治家の懐を暖かくし、援助対象国の自然や生活を破壊しつづけて貧困を増大させているという事実は、事柄の皮相な認識がいかに取り返しのつかない事態を許してしまうのかを示しているようです。本当に度量と品格を求めるのならやるべきことは別にあるはずです。そうした努力を続けているNGOも存在しています。
>……国民国家の枠組みの中で再定義してみても、果たしてグローバリズムを克服するような普遍性を有するものになるのか……
国民国家という枠組み自体を再定義してはいけないのでしょうか。枠組みにとらわれているのは、もしかしたら如往さんかも知れませんよ。また、グローバリズムを克服するに普遍性を持ち出すのはどうなのでしょう。グローバリズムこそが普遍性の権化だと思うのですが、だとすれば、反グローバリズムとは普遍に対する特殊を見出すことではないでしょうか。
まだまだ不勉強でまともな議論になり得ませんが、取り敢えず以上です。