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(回答先: 般若心経的世界観 投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 07 日 03:16:05)
こんにちは如往さん。私のやや乱暴な物言いに誠実なお応えをいただき、お人柄を感じました。また、文中のリンクから一年前のやり取りをたどり、「身体性は仏性の権化」という如往さんの言葉に感嘆したことを改めて思い出しました。それは如往さんの以下の投稿においてでした。
「慣性(エネルギー)の受器としての身体。」(http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/583.html)
“………私は身体を慣性(エネルギー)の受器と捉えて、身体性は仏性の権化ではないかと想像していますが、所謂神秘主義の領域に踏み込んでこれらを捉え直すことには躊躇いを禁じ得ません。それ故“霊”と謂う言辞を用いることも憚れると畏怖しています。けれども、少なからず“霊性”のようなものに想いを馳せることがあるとは告白してはいます。それは、総ての生命エネルギーの受器である地球というMatrixの存在を意識するとき、その無限定の受容性を表す言葉としては“霊”よりはむしろ “霊性”こそが、汎用性に富むと思量するからです。………”
個々人とはまずもって身体的存在であろうと思うのですが、その身体は現象界に属しており現象界に貫徹する法(ダルマ)の下にあるというのが仏教的考え方かなと思います。如往さんの仰る「慣性(エネルギー)の受器としての身体。」もそのあたりの事情を表す言葉かなと解釈しております。その意味で“…今日の分子生物学的研究…”が科学的因果関係における身体の“…存在理由…”を提供していたとしても驚くべきことではないでしょう。
しかし、法(ダルマ)は科学ほど単純でもないでしょうし、“…仏性の権化…”たる身体を“…今日の分子生物学…”が解明し得たとは到底考えられません。如往さん自身の言葉で“…補完…”というに過ぎないことは明白です。“…地球というMatrixの存在……、……その無限定の受容性……”から考えれば、老いさらばえて生きる目的を見失った貧者の存在が現代文明の歪みに過ぎないこと論を待たないでしょう。
>…やがて子供達も社会人になって自身の定年後を生きる目的探しに難儀するとき、心の深奥では己の存在理由の不在を意識せざるを得なくなるのではないでしょうか…
そんなゴリゴリの会社人間みたいなことを仰らないで下さい。仏陀は道を求める人々に出家を勧めました。俗世の務めが終わったのなら、それこそ求道に専念するチャンスではありませんか。もちろん、現代社会において文字通りの出家を勧めることはおそらく仏陀もなさらないと思います。あくまでも比喩的な出家のことです。
そう言えば、如往さん的な地球市民ぶりも閉鎖的な日本社会からの出家なのかも知れないと思い当たりました。比喩的な出家の形態は個々人様々で良いと思います。私の言わんとする国家的秩序の再定義にしても私なりの出家の実践と言えなくもありません。ありていに言えば、国家は死滅へ向かって歩み始めたのだと思っています。しかしそれは、今日明日にも国家が無くなるというのではありません。それどころか百年二百年をかけて進行するプロセスの始まりだというふうに捉えています。
死滅を自覚した国家の再定義とは、何の事はないマルクス的な社会主義の実現であろうと推測しているところです。先だっての投稿で、グローバリズムは国家を保存しつつ空洞化すると書きました。その意味では、グローバリズムこそが国家を死滅させる原動力です。しかし原動力たるグローバリズムは国家とともに人間をも死滅させます。こう言って良ければ、古き良き国家とともに古き良き人間をも死滅させるです。マルクスの言うとおり、人間の前史が終わるのでしょう。そして終わりは始まりでもあるはずです。終わりのプロセスは同時に始まりのプロセスです。どのように始めるのか、それを再定義と言っているつもりです。
>…生命は、虚時間の地平から出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る…
実時間の中にある身体について私達はどれほどのことを知りえているのでしょう。どれほどの経験を持っているのでしょう。神秘主義に踏み込むつもりはありませんが、…“霊性”…を探求することなくして「慣性(エネルギー)の受器としての身体。」に目覚めることはできないと思われます。